聖書研究会 原稿

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

/投稿2005/2/23/ メッセージ2004320日(金)

キリストは誰の子か

 

―― キリストについてどう思うか ――

マタイ22:40-46
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
22:41 パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。
22:42 「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
22:44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」
22:46 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。

主はここでなぜパリサイ人たちの口を通してイエス様に「キリストが誰の子か」と言わせなければならなかったのだろうか。彼らは「ダビデの子です」と答えるが、このイエス様に対する彼らの答えは間違いだろうか。私たちはそれが誤りであるとは考えにくい。しかし、主ははっきりと彼らの認識を否定された。すなわち、彼らのキリストに対する知識を的外れなものとされた。では、聖書はメシアについてどのように語っていただろうか。聖書はいつも「ダビデの子孫から救いが起こされる」と預言してはいなかっただろうか。いや、していたのである。パリサイ人たちがキリストを「ダビデの子です」と理解することは間違いだっただろうか。
 主は彼らに「キリストについてどう思いますか」と問われたのであった。それは、実はキリストである主ご自身が、彼らがイエス様を否定するという状況の中で問われたものであるという背景があることをまず理解しなければならない。パリサイ人たちは霊的な理解で、または真実な心(本音の心)で、神の国・神の救いを待ち望むということがなかった。もし、彼らが本当に主を待ち望み、神の国を求めていたのであったら、彼らは神の御心を願うものであったはずである。もし、そうであるなら、イエス様が誰であるか分かる。主は人々に確かにそのようにお語りになっていた。

ヨハネの福音書
7:16-17「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」※1

しかし、彼らは霊的な真実を求めず、主のみこころの実現を待ち望んでいなかった。それゆえ、キリストが「ダビデの子」であるとの盲目的理解によって、イエス様を目の前にして「ダビデの子です」と答えたことは、あきらかに、自分たちの目の前に立っておられる「イエスが、キリストでは決してない」との表明であろう。主があえて、パリサイ人たちにこのように尋ねられることによって、彼らの主に相対する立場とキリストの理解への決定的な誤りを主は指摘なさるのである。

22:43-45「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」

パリサイ人たちは聖書を研究し、律法を追及し、預言を受け止めてきた。彼らはどのように理解しただろうか。「キリストはダビデの子孫として地上の王としてやってくる」と理解したのではなかったか。キリストが王として君臨するとき、その王座は永遠に堅く立つ、と信じた。その聖書のメシア預言はダビデに対する神の約束であった。
 

T歴代誌
17:10わたしはあなたに告げる。『主があなたのために一つの家を建てる。』
17:11 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
17:12 彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。
17:13 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
17:14 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
17:15 ナタンはこれらすべてのことばと、これらすべての幻とを、そのままダビデに告げた。


  
この箇所は明らかに、当時の律法学者やパリサイ人たちがメシア預言として受け止めた箇所である。しかし、このみことばを持っていた彼らが、イエスキリストにつまづいているのである。彼らはキリストに対してダビデの子であると理解し、聖書のみことばである主の契約をもっていると彼ら自身が思っていたにもかかわらず主につまづいたのである。

Tペテロ
2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、
2:8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。


 イエスキリストの御国は、この世のものではなく霊的なものであり天の御国である。主の王座は地上に属するものではなく、天に属するものである。実際に主は王であられた。あなたはユダヤ人の王ですか、と問われたとき、主はそのとおりであるとお答えになった。主のその王座はこの世のものではない。「わたしの国はこの世のものではない」のである。
 ダビデへの約束は霊的に成就するものである。天の御国において実現するものである。それゆえ神の御霊に属さない盲目的な人々にとっては、イエス・キリストを見たとき、ダビデの約束を知っており聖書の預言を知っていたとしても、イエスが自分たちにとってキリストであることは決してなかったのである。彼らにとって、イエス様は「つまずきの石、妨げの岩」なのであった。

 なぜだろうか。なぜ、彼らは盲目的となりイエスキリストを受け入れることができなかったのだろうか。
それは、彼らが「神により頼んでいなかった」からである。ペテロは言う。「彼らがつまずくのは、みことばに従わないから」です。
 もし、神に望みを抱いて生きるものであるなら、イエス様をみてもつまずくことはなかった。心から神の国を待ち望み、みこころを願うのであるなら、「その人には、イエスが神から出たものか」、どうかが分かるようにされる。※2
心において傲慢であり、神に対する真の望みをおいていなかった為に、彼らに与えられていたメシア預言を言葉では知っていたが、イエス・キリストを前にしては正しく知ることができなかった。



―― 御霊によって主と呼ぶ ――

 神様に望みを置くものは神の証言を聞き入れる。その神様の証言とは、御霊が証される証言である。バプテスマのヨハネは律法にも神の預言にも精通していた。パリサイ人たちでさえ、律法的な点で彼を非難することは一度もなかった。イエス様に対しては安息日の規則に背いたとして不正な理解であったが非難した。しかし、ヨハネに関してはそのような盲目的な律法学者でも非難されることはなかった。そのバプテスマのヨハネもまた律法を深く知り、メシア預言を知っていた。しかし、彼は人間的な方法でイエス様をメシアと理解したのではなかった。血筋や血統、血肉によってイエス様をキリストと知ったのではなかった。ただ、御霊の証言によって、この方を「神の子である」と告白し証言したのであった。ヨハネは律法の専門家よりはるかに律法を知り、預言を受け止めていた。その彼はただ、御霊の証言によってのみキリストを受け入れたのである。「私は(御霊によって〔御霊が鳩のように下ってきた〕)その方を見たのです」と言っている。
 しかし、パリサイ人たちは神の証言を聞き入れない。彼らがつまずいたのは、神により頼まず、みことばに従わない、というその不信仰のゆえによるのである。イザヤ書6:9には「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」とある。彼らは確かに見ていたし、聞いていたし、聖書の預言も律法の言葉も知っていたが、しかし、神様が語られた真意であるとか御霊のことばについては、何一つ聞くことはできなかった。

 ああ、彼らがつまずくのはかわいそうだろうか。私たちはときにそう思うかもれない。「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです」と聖書は言う。すなわち、本心においてはみ言葉に背いていたのであった。本音の部分では神を待ち望んでいなかったのである。だから、イエス様を前にしても、このお方はその人々にとってはつまずきでしかなかった。哀れみ深い主は妬みの対象であり、人々を癒し救っておられる主は憎しみの対象でしかなかった。

マタイ22:43-
22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
22:44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
 

ダビデは御霊によって彼なるキリストを主と呼んだ。キリストはどのように知られるか。それはただ御霊によって知られる神の子である。それゆえ信仰を告白する者もただに御霊によってイエスを神の子と告白しなければならないし、御霊によらなければ誰もキリストを主と告白することはできないのである。パリサイ人たちはイエス様をキリストとして受け入れることはできなかった。彼は大工の息子に過ぎなかったはずであるばかりかナザレ人であった。「ナザレから何の良いものが出よう」彼らの理解のうちにおいて、イエス様がキリストであるはずはなかった。そのうえイスラエルの支配者として立つ気配もないばかりか、無学なもの貧しいもの罪びとや病人とばかり接していては王としての抑圧的威厳も感じることはできなかった。その意味では、恐れすら抱くことのできない存在であったのである。ダビデの子はそんな存在ではありえなかった。このイエスがもし、神の子キリストと名乗るなら、神への冒涜でしかなかったわけである。それゆえ、イエス様が神の子であるということはたしかに御霊によってでしか受け入れることのできない真実である。神がダビデに約束された来るべきメシアについて、そのみことばを受けた当の本人であるダビデが、主をどのように呼んだかというと、それは、「御霊によって彼を主と呼んだ」とイエス様は示されたのであった。

 しかし、ここで主は生ける真の神の子として、彼らの前に立っていることに気づかなければならない。彼らはイエス様に敵対し主を否定していたが、主はご自身がキリストであるとことを示してその主権を帯びて彼らの前に立っておられるである。
 マタイ伝の前の段落の34-40節の箇所に律法について教えられた。この教えの中で、律法全体と預言者がひとつの教えの本質にかかっていることを述べられた。それは、神への愛と隣人愛であった。この愛を学ぶとき、人はみじめな自分の状態を感じないではいられなかった。全身全霊をもって、まごころから神を愛するということが、どれだけ人の本性と限界を超えた事項であっただろうか。しかしながら、ただ神によって赦され、和解を得、神の子として受けいれられるときはじめて、その人のうちではじめることのできる種類のものである。律法の本質が語ったことは、律法学に対する熱心さや努力によってなしうるものでは決してありえなかった。律法の熱心さや探求は、かえって人間の罪深さを明らかに示すものとなった。無力の人の限界を示すのであった。そして、それは救世主イエス・キリストへの道筋であった。イエス様はそこで、まさに、神の赦しと贖いを受けたものだけが立ちうる子の立場を示して、それを唯一可能とする、神から遣わされたメシアが、彼らに語っておられるのであった。
 哀れな罪の従者のためにとりなされる方が、贖いを全うし、赦しを与えてくださるときにのみ、その人のうちに新しい命の歩みをすることができる。そのとき、イエス様に対して敵対し続けて立っていてはいけなかったのである。律法の本質の愛が語られたとき、彼らは同意したはずであった。しかし、そのうえで人は自分自身を見つめなければならなかった。自分にはどうしてもできえない心の有様があるのであれば、そこで、人は神に赦された者の住む別の世界の命について、すなわち神の御国というものを求めるべきであった。
 そして、ちょうどそのとき解決者なるイエス・キリストが人の目の前に立っておられるのである。主は彼らの前にご自身を置いて問われた。「あなたがたはキリストについてどう思うか」 律法と預言者は赦しを与えるキリストご自身を指し示す。
 しかし、悲しいことになおもパリサイ人たちは敵対し続けた。イエス様を前にして彼らは「ダビデの子です」と返した。そこには、目の前におられるイエスがキリストでは決してないということの表明があったのであろう。主が、預言者たちが指し示したキリストの本性を問われたとき、人はただキリストを神の御霊によってキリストと受け入れなければならなかった。み言葉により頼み、神に希望を置く者は、御霊の証言を聞き入れるはずであった。もし、人が神の国を待ち望み、新しく生まれることを求めるのであれば、御霊によって証されていたイエス様を(あのニコデモのように)渇いた心で主(神に遣わされた方)と仰ぎ見ることができたのである。

 一方、弟子ペテロはイエス様を神の子キリストであると告白した。その告白は父なる神が示した真実であった。父が示したイエスをそのままに受け入れたものであった。また、イエス様は「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわか」るとおっしゃった。もし乾いた心で主の到来を待ち望んでいるなら、主はその渇きに応えてくださる方であった。それが、山上で群集や弟子たちに、弱いものや貧しいもの、病人や取税人に、語られた主イエスのメッセージであった。


44節に
22:44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。

これは、詩篇110編の引用である。このみ言葉もまた彼らパリサイ人たちはメシア預言の箇所であると理解していたに違いない。では、この主はどのような姿を呈していただろうか。詩篇110編の前後関係を見れば明らかとなる。
 

詩篇 (ダビデの賛歌)
110:1 主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」
110:2 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。「あなたの敵の真中で治めよ。」
110:3 あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
・・・


 ここには、イスラエルの王なる方の姿が描かれている。では、この状況はどのようであったか。それは、敵に囲まれているというのである。

 ・あなたの敵をあなたの足台とするまで
  ・あなたの敵の真中で
  ・あなたの戦いの日に
  ・夜明け前から

この詩篇で引用された光景は、まさに、主が敵に囲まれた只中にあるという。神のメシアはイスラエル(世界)の王である方なのに、敵や迫害者が廻りに満ちている。むろんそれは主の日の直前の光景であろうが、ユダヤ人たちはメシアの敵をどのように理解しただろうか。彼らはこのことを異邦人の抑圧や、迫害する敵(他国)と理解したに違いない。しかし、メシアの敵は、恐るべきことに、いま主イエスを取り巻いている自分たちの姿の中に表されていた。パリサイ人たちは敵として、イエス様の廻りに取り巻いていた。詩篇の情景は、現にキリストを取り巻く光景のなかに実現したシーンとして描かれているものである。まさか、イエス様を取り巻いている自分たちの姿が、それだとは思いもよらなかっただろう。むろん、これはひとつのシーンであり、終末について言うべきことである。そしてこの敵に囲まれているときは夜明け前であるから、闇夜のときである。そのときは、暗闇の力が横行するときであり、そのとき敵に囲まれているのである。

 ただ、ここで歌われている賛歌は、敵に対する焦点よりも、むしろ「主のしもべ」に対して当てられているといえよう。この夜明け前のときに、主に仕える者の麗しい姿が描かれている。その人は主イエスにとっては、朝露のような存在である。主の華々しい栄光の御姿を弟子たちはいまだ見ていない。戦いに完全に勝利する前の段階である。このときに主に仕えるしもべは主にとってはどれほど尊い存在であったか。

「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ」

 イエス様に従っていった弟子たちは、まさに尊く美しい存在である。イエス様を神の子であると御父が示されたことを受けて、主に従い続けるときには様々な試練に出会った。従ううえで敵の中におかれたこともあった。それでもなお、従い続ける者を主がどれほど喜ばれたか。キリストに追従するものを会堂から追放すると決定していたユダヤ社会の中で、キリストを神の子と告白した弟子たちの信仰の姿は「勇士」の姿である。戦いの中で夜明け前から主に仕える者たちはキリストにとっては朝露のような存在であった。

 罪を示されても御言葉にそむいた。神を待ち望まないものは、キリストを前にして頑なであり続け、敵対し続けた。それは図らずも主を囲む敵のような存在であった。しかし、心貧しく乾いた者がキリストにより頼み、神のみ言葉をうけて御霊の証言を受け入れるなら、主イエスをキリストだと告白することができる。私たちは神学的な知識や宗教心をもっても神に近づくことはできない。

主は弟子たちにも問われた。
「あなた方はわたしを誰だと言うか」

キリストを主と告白した者はキリストによって救いを得、子としての命を得た。そればかりか主にとって尊く美しい存在として扱われている。しかし、その人もまた、もともとは哀れな罪の従者に過ぎなかった。弟子たちはイエスの血肉を見て告白したのではなかった。また律法と預言者の理解によってキリストを受け入れたのではなかった。ただ、御霊によってキリストを受け入れたのである。ただ、心において神(の救い)に期待するものが、ただ、神の言葉を受け入れたのである。しかし、それが人にとってすべてである。

同じように、主はご自身を私たち一人ひとりの前に置かれて、問われるであろう。
「あなたはキリストをどのように思いますか」
「あなたはわたしをだれだといいますか」

もし、私たち(あなた)が真実を求め、乾いた心で主を求めるなら、敵にさえも仰ぐべき方として立たれた主は、頑なであった私(あなた)の前に仰ぐべきお方として立っておられる。


 


※1
ヨハネ8章
8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」


※2
ヨハネ3章(ニコデモの記事)
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
 

(以下、今日のテーマに関する議論と話題)