聖書研究会 原稿

鈴ヶ峰キリスト福音館

2004917日(日)

シリーズ:キリストの足跡 マタイ福音書 26(1)
 

―― 香油の注ぎだし ――

マタイの福音書 26:1-13
26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕え、殺そうと相談した。
26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。

 主がベタニヤにおいて、香油の注ぎ出しを受けられたことは、マタイの福音書・マルコの福音書そしてヨハネの福音書に記されている。ルカの福音書にも香油を涙とともに主に注いだ女性の記事が描かれているが、背景が異なっているようであるため、おそらくこのマタイ・マルコ・ヨハネの福音書が同一記事だと思われる。この箇所では、過ぎ越しの2日前に主は弟子たちにご自分の死をお語りになり、そのころ、祭司長たちがイエスを殺そうと企てていた。その後、「さて、」という挿入句が記されて、時間的な連続の中からは若干外れていると思われるがこの女が主に香油を注いだ記事が挿入されて描かれていると思われる。
 ヨハネ伝では、過ぎ越しの祭りの6日前にベタニヤに来られたとき、ベタニヤのマルタとマリヤがイエス様を受け入れ、マリヤが主イエスに純粋なナルドの香油を注ぎだした(御足に塗った)記事が記されている。おそらく、主と弟子たちの応答の姿を見るなら、これはマタイ伝のこの記事と同一の事件であろう。時間的には、この26章では6節において挿入されたものだと理解できる。そのことを考えるなら、この香油の注ぎだしの記事がこのマタイ伝ではどのような背景の下で語られているかということを注意深く覚える必要がある。すなわちそれは、「イエス様の死」ということに結びあわされたものとして語り告げられているということである。

 これまで前章で、世の終わりの日・来るべき未来における来臨の日のことについて、預言とたとえをもって詳しく弟子たちに教えていかれた。そこには、栄光を帯びて天から来られる主イエスの御姿を示して明らかにされたのである。その栄光の主こそ、今 目の前にしているイエス様に他ならないことを弟子たちは知らなければならない。
 その終わりの日には人々はどのようであるのか、――人々は二分されるのである。すなわち、キリストを尊ぶ者とキリストを蔑む者、キリストを愛する者とキリストを憎む者ということであった。キリストを愛する者がどのようされ、キリストを蔑む者がどのようにされるか、という大いなる裁きの日についてイエス様は語られた。主はその終わりの日の光景をすべて弟子たちに語り終えられたそのとき、主は再び弟子たちの目をこの現在に引き戻し、弟子たちの目を御自分に向けさせられお語りになった。それが2節の言葉である。

26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

このようにご自分の死についてお語りになった。主はこのユダヤの世界と歴史の中においてご自分が捨てられ殺されることを何度も弟子たちに語っておられた。

 聖書がもっとも福音の根本原理として語っているのは、キリストの死についてである。イエス・キリストの十字架の死による贖いについて、マタイ伝はこれから聖書の伝える福音の中心としてそのことを私たちに語っていく。
 長い間旧約聖書のすべてのいけにえが指し示してきた偉大ないけにえであるその方について語られていく。いかにして、罪人の罪が贖われ、不敬虔なものが神様の義として受け入れられるようになるのかという神秘を福音書は語っていく。こうして、私たちは聖書の語る「キリストは私たちの罪のために死なれた」という福音の中心から心を離さないで主イエスを見上げなければならない。

 このように私たち信仰者が、聖書がこれから語る福音の中心について覚えるとき、その十字架のみ業に先立って、たしかに弟子たちに対して、イエス様はどれほど念を入れて弟子たちの注意を御自分の十字架の死に向けておられるか、ということに注意を払わなければならない。
そして、そのような主のご配慮のさなかに、また祭司長たちが主を殺そうと謀っているという記事の狭間に、この香油の注ぎだしの記事が描かれているのである。主が弟子たちの目を御自分の死に向けておられる中でのひとつの事件である。主はこういわれた。

13節「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

福音の中心・根本的な原理である「キリストが私たちの罪のために死なれ」るということを主題にしてこの香油の注ぎ出しをした女の行為について語り告げられるのである。また主は彼女の行為を「26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」とも語られた。
これらの主イエス様の言葉を通して、弟子たち、またこれを読む私たち信仰者の目をキリストの死を中心に向けさせておられることが分かるであろう。
 

―― キリストの価値 ――

 さて、この記事を読むにあたって非常に対照的な出来事がある。25章以前で主が弟子たちに語っておられたことの中に、来臨のときには主を憎む者と主を愛する者、主を蔑む者と主を尊ぶ者とを区別されたことが示された。
 同じようにこのことはここでも明らかに際立っている。祭司長たちは主を憎み殺そうと企てている。ちょうどそのころ、主とともにあるベタニヤの家では主を愛する者の最も美しい行為が表されたのである。
 私たちはこの女の行為を見て心が震え感動する。世界はキリストを憎み排斥しようとしている。そのなかで主を受け入れたベタニヤの家では愛する主のみ前に立ち純粋で非常に貴重な捧げ物がその女によってイエス様に捧げられたのである。弟子たちはこれまでも主から御自身の死の予告を聞いていた。しかし、その死の意味も主の尊さも、そして主とともにいるという今の時の貴重さについてもほとんど理解できていないという鈍感さというその状況の中で、初めてただひとり主イエスの本当の価値がこの女によって認識されたのである。だから私たちはこの記事を見るときに、イエス様の心を誰一人理解するもののないという世界の中で、イエス様を本当に愛し尊ばれたことを見て感動するのである。主がほとんど理解されない世界の中ではじめて主の価値が認識されたのである。
300グラムもの非常に高価な(ナルドの)香油が捧げられたとき、弟子たちのうちのある者は「もったいない」「むだなことをする」と、この女を批判した。彼らの主への認識はせいぜいこの300グラムもの香油の壷を割るに値しないものであるという程度である。むろんそのような物言いはしなかったが、しかしそれゆえこの女がした行為は愛するキリストに対して大変な尊さを認識したことが明らかになる。この香油が注がれたとき、イエス様はそれを喜んで受け入れられた。彼女はまぎれもなく主を愛し、主を尊びその価値を深く認識していた。彼女のした行為が埋葬の用意のためとして なしたことであるかどうかは彼女の側からするならそうではなかったかもしれない。しかし、主のみ言葉を聴いていた彼女がこの最後の機会を捉えて主イエス様に対する溢れる想いから香油を注いだということは間違いないであろう。だからこれは彼女の真の礼拝の姿である。

 彼女の行動が示していることは礼拝の姿の本質を私たちに教える。この箇所において私たちがみるべき主題は主イエスが尊ばれることに主眼が置かれる。キリストが尊重され尊ばれることは礼拝の目的である。彼女が主イエスをどのように思っていたかという単純な事実がここで明らかにされた。これにつづいて記されるユダの裏切りとは非常に対照的であろう。彼女を批判したのも福音書の平行記事には弟子の一人ユダが言ったとも記されている。

非難の言葉の中に「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とある。
貧乏な人たちへの施し」は本来悪い事柄ではない。主はあるとき、金持ちに対して「あなたの持ち物全部を売って貧しい人たちに施しをしなさい」と言われた。また弟子たちに終わりの日の光景をたとえを持って示されたときも、『25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』とお語りになり、「主にある最も小さい者たちの一人に対してしたことが私にしてくれたことなのだ」と示された。
 だから、貧しい物のためになされる善意は決して否定されるべきものではない。しかし、この場合は香油を売って貧しい人に施すよりもイエス様ご自身に捧げられるほうが良い。イエス様は「私に対して立派なことをしてくれた」「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません」と言われた。
 香油を売って貧しい人に施すよりもイエス様ご自身に香油が注がれることのほうが優先されるべき事柄であった。彼女はなににもまして主を愛していたのである。なによりも主を尊んでいたのである。主はそれを受け入れられ「私に対して立派なことをしてくれた」と応えられた。

 弟子たちは、主がこれから十字架にかかられ死なれるということを聞いてもほとんど理解できないでいた。そればかりか、ある場面では、この中で誰が一番偉いかなどと言い争っている有様であった。しかし、彼女はこの時を逃さなかった。300デナリもの香油の注ぎだしは日常的な行為ではないと思われる。ある特定されるときにしかなされない事柄である。それゆえ彼女は自分の持っている宝を、限られたこの「時」に主に対して捧げたのである。「貧しい人はいつもあなた方と一緒にいる。しかし、私はいつもあなた方と一緒にいるわけではない。」と言われた主と共にあるというこの時に、彼女は自分のもてる限りの愛をあらわした。
 主が御自分の死を語られるとき、ある者は主に失望し主から離れ去る。またある者は主を売ろうと時を図るようになったかもしれない。主の死を知って主から離れていく者と、主の死を知って主のみそば近くにあろうとする者の姿は非常に対照的である。

 ベタニヤの家で主はこの女によって最も尊ばれ、礼拝が捧げられた。何にもましてキリストご自身が尊ばれ高められるということに勝るものはない。そして主はそのように彼女の行為を受け止められた。主は彼女の行為を喜ばれ、福音の原理である主の死の偉大なみ業の中に受け止められた。「私に対して立派なことをしてくれた」とお語りになった。「立派なこと」とは別訳では「美しいこと」と訳される。彼女は神様の目に美しいことを為した。
 いままで福音書の中でキリストの前に偉大な信仰者が何人か表れたことを知っている。主は「あなたの信仰は立派です」と賞賛された。彼らは偉大な信仰を表明した。それは自分が主の癒しを受け取る立場であり、自分が主から救いと恵みをいただく中から表された偉大な信仰の表明であった。しかしここで、はじめて主が尊ばれ、主を愛するために香油が捧げられたのである。主が理解されないという世界の中で主の価値が示されるとき、この箇所はすべての礼拝者を感動させるであろう。
 

―― 埋葬の準備 ――

 さて、実のところ彼女の行為が埋葬のためであったかどうかということは、彼女の側からすればそうであったかどうかは分からない。しかし、主は確かに御自身の十字架の死の準備としてそれを受け止められた。
イエス様が「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と言われたことは、主の側の真実である。彼女の行為を確かにそのように受け止められたからである。これは驚くべきことである。
 彼女の主に対する愛からなされた奉仕と彼女の真実な礼拝行為が、主の購いの御業の一端として主によって認識されたことは驚くべき事実である。福音の真理が「私たちの罪のためのキリストの死」であるときに、彼女の愛の捧げ物はキリストの側からするならば、その死の準備の役割を担った。福音の原理である主の死と購いのみ業の中に彼女の行為と奉仕が受け止められたのである。
主の十字架における救いを指し示すものとして彼女の行為は用いられたのである。彼女がなした業が主の業の中に同化していることは非常に驚くべきことである。このように考えるとき、私たち信仰者の奉仕と神様への愛から生じるすべての捧げものが、神様の御業の一端として表されることを見るなら、私たちは大いに恵みと希望を持つことができる。

 そして、主は御自分に栄光を帰すものに対して、どれほど栄誉を与えたいと願っておられるかということが分かる。終わりの日について語られたときも、主は主を愛し尊んだ信仰者たちにどれほどの報いと栄誉を与えようと望まれたかを見ることができる。忠実な者に対して「わたしの喜びに共に預かりなさい」と語り、「わたしの父に祝福されているものたちよ。世のはじめからあなた方のために用意されている御国を相続しなさい。」と迎えられた。それと同じように彼女の行為は受け止められ、賞賛され、記念される、とそのように主の御思いが表された。
 このことは来るべき日についても同じである。人の目には無駄と見えるそのような小さな行い、キリストのためにだけ捧げられている隠れた信仰者の犠牲・行為を主は尊ばれ、喜ばれる。
 ベタニヤの家において人々の批判のただ中で、主イエスの目は彼女に向けられていた。弟子たちの憤慨と批判を彼女が受けていたとき、イエス様は「これを知って (Γνoυs)言われた(But when Jesus was aware of it)」と書かれてある。これは「これに気づいて」と訳しても良い。彼女のした行為に対して、人々が批判したことは主イエスの前で公然となされた非難ではなかったかもしれない。イエス様の見えないところで批判したものであるかもしれない。しかし、イエス様は「これに気づいて言われた」。主は彼女に対して御自身の目を向けておられたことが分かる。人々の批判の只中にあって彼女が主に対してなした無駄と見える礼拝行為を受け止められ、主の目はその只中で彼女のことを見ておられたのである。
 ベタニヤにおられた主は、いま同じように私たちの心を見ておられる。私たちが主を愛する動機からでてくるすべての礼拝と捧げ物に対して主はそれを受け止めておられる。主に栄光を帰したものに対して、主はそれを忘れないで御自身の栄誉に預からせようとしておられる。

 彼女は十字架に先立ってただひとり主を愛し尊んだ捧げ物をした礼拝者として描かれている。彼女がヨハネ伝におけるベタニヤのマリアであるなら、信仰の姿勢をさらに学ぶべきことがたくさんある。しかし、人に過ぎない者のその想いと行為を、さらに主がこれを御自身の埋葬の準備のために受け止められ、用いられたことを私たちは見た。主の偉大な価値がひとりの女によって認識されたとき、主は弟子達一人ひとりに御自身の死へとその目を向けさせられた。私たちの罪のために死なれる主から目を離さないでいなければならない。また同時に私たちはそこに主への大きな期待を馳せ、主の御思いを学ぶことができる。主は私たち一人ひとりの想いと心を見て、それを御自身の栄光のために豊かに受け止めてくださる。また主は御自身のその栄光に私たちを預からせようと願っておられる。

 あなたにとって主はどのようなお方であろうか。主は御自身の御手の中で私たちを取り扱いたもう神なる救い主である。