聖書研究会 原稿

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20051月日(金)
20052月日(金)

祈りの備え-

 

マタイの福音書26章36節

26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 

--目を覚ましていなさい--

 主はご自分の苦しみや試みに会われるとき、御自分の愛する者がともにいてくれることを願っておられる。
このような言い回しはイエス様の神のご性質を否定するものではない。
イエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちに語られた。

「ルカ22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」と。

またイエス・キリストを直接指している預言の箇所で詩篇1103節にこのように詠われている

あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。」(これは終末の情景でもある)

 暗闇(夜明前)の時と、敵対者のただ中にあって、主に仕える者たちを主がどれだけ愛し、ご自身の栄光を与えたいと望んでおられ、また尊い存在とみなしておられるかが分かる。
 イエス様はその愛する者たちにご自分の苦しみに遭われる時に、共にいてくれることを願われたといっても言いすぎなことは無いと思う。
それは主が受けられる苦しみの立場を共有することでもある。
その主の立場を共有していくことの反対は、主への「離反」である。そして、その際たるは裏切りである。ご自分がお選びになった者たちが主から離れていくことは、イエス様にとって深い悲しみである。ユダの裏切りは主ご自身の心を深く苦しませた。最後まで主イエスを「父が遣わされた方」であるということを受け入れなかったユダに対して、イエス様は、「霊の激動を感じ、あかしして(ヨハネ13:21)」、ご自分が裏切るものがあることを告げられたのであった。

 主はご自分の共有者である弟子たちを愛し慈しんでおられる。しかし、のこりの弟子たちも、彼らが主につまずくことをご存知であった。彼らは主から離れて「私を置いて一人にするときがくる」とこの直前に予告されているのである。

 だから、このゲッセマネの園で、主の悲しみを共有するものは誰もいなかった。しかし、それでもあの3人の弟子たちが主の祈りの声を、そのお姿を全く動揺なしに眺めていたわけではない。彼らは主の悲しみの様を見ていた。あまりにも疲れていた3人の弟子の心は、主を思いつつも、「悲しみの果てに眠り込んでいた」のである。
実際には、その御苦しみを共有することは弟子たちにも誰にも出来ない。主は弟子たちが彼らの主と同じ境地に立つことが出来ないことを知っておられ、主の苦しみを知ることが出来ないことを知っておられたのに、そのことを求められたのだろうか?

ご自分の苦しみを受けておられるとき、確かに主は「私たちに」祈りを求められた。
そして一方、ご自分の受けられる苦しみに対して、主はご自分と父とのただ一対一の関係で父に祈りをささげておられる。

主の「私と一緒に目を覚ましていなさい」 「目を覚まして祈っていなさい」とのみ言葉は、単に人の肉体が疲れているこのときにおいても我慢することを促しているものではない。「霊が燃えていても肉体は弱い」「誘惑に陥らないで祈っていなさい」と語られる以上、肉体の眠り以上の霊的な示唆がある。

 

--どのようなときか--

それはひとつに、このときにあって「目を覚ましているべきことへの『祈り』の姿勢(状態)」である。
今がどんなときであるか。
それは、主の苦しみを感じておられるときである。
そしてまた試みのときである。
主の十字架の苦しみのときは、暗闇の力(世界)に対する戦いのときであり、世の支配者が追い出されるときであり、死との戦い(死に対する勝利)のときである。
そして必ず訪れる主の栄光のときである。(ゲッセマネの祈りのときは、それを完全に実行に移す(明渡される)定めのときであろう。)

 そのときとは、すべての書簡と預言書が言っているように、聖徒が祈りによって主と共にいるべきときである。
目を覚ましていなさい。」 と主は語られた。
「主と一緒に目を覚ましていること」がどれほど重要な問題であるか。
確かにこれまで主が「目を覚ましていなさい」と警告されたとき、その主題はただ「神に祈るべきこと」をいっておられた。

 そして、私達は主のその警告が、どのようなときに対して特に言われたかを知っている。みことばは「終わりの日」「裁きの日」「贖いの日」について信徒に語られた光景のなかで、言われたのであった。終わりの時代にあって、「目を覚ましていなさい。目を覚まして祈っていなさい」とのことばは、暗闇の力(破壊・偽り・惑わし)に対する備えであると同時に神の贖い(栄光)に対面する心備えの姿勢でもある。イエス様の十字架の時は、それは終末においての終わりの光景と重なっているものが感じられる。

 終末の時代に特に求められているのは祈りであり、主(を見て)と共に目を覚ましているべきことである。
聖書が終末の世界を描くとき、その預言の成就は完全にキリストの十字架のときに成り立っていることである。永遠の裁きの身代わり・死に対する勝利・贖いの時とは、キリストの十字架のときである。そしてまた、来臨の栄光のときに成り立つものである。
イエス様が暗闇の力と戦われたとき、そして、神の栄光が現れるとき、主は弟子たちに目を覚まし祈ることを求められた。
さきほどの「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。」と語られていた詩篇の箇所は、主が敵をご自分の足台とされるときの情景を詠っていた。その敵の只中で、また暗闇のさなかで、主につくものは、主の苦しみを共にする立場・共有者であることが描かれている。それは、キリストと共に目を覚ましているものである。 

主は、弟子たちが肉体の弱さから眠りのまどろみの中にあることを「誘惑に陥っている」と表現された。
それは、主の苦しみに会われているそのような時が、祈るべきときであり、目を覚ましているべきときであるからにほかならない。
イエス様はかつて、悪魔の試みに合われたとき、御言葉の剣をもって立ち向かわれた。
そして今は、主と主のわざを待ち望むものは、主の時を祈りによって備えるのである。 

エペソ書には信仰者に勧められた言葉がある。

6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 

 暗闇の力が襲うことに対する心備えが無ければ、そのとき慌てふためくようになる。

主が「さあ、行こう」と言って、立たれた時、裏切る者ユダが兵士らを連れてやってきた。祈りと備えをしていなかった弟子たちは心備えが無かった。突然襲う危険に無防備であった。主はそうではなかったがしかし、弟子たちは我を失った。

Tテサロニケ5 : 4-6 には
「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

とあるが、このとき弟子たちは突然襲う迫害に対して無防備であった。この聖句は終末に対する教えではあるが、しかし、危険は弟子たちがまどろみの中にあるという霊的状態であって、襲う兵士たちのことではないのである。目を覚まし、主を待ち望むものは幸いである。

 イエス様が弟子たちに目を覚ましていなさい。と言われ、彼らが眠っていたことが誘惑に敗北していることであると示された。にもかかわらず、弟子たちが主につまずくことを主はご存知であった。それなら、なぜ主はそのように3度にわたりご自分とともに目を覚ますことを求められ、彼らが祈っていることを求められたのか。

その暗闇のときが、祈りが必要なときだからであるということがひとつの理由であっただろう。そして、このときが、弟子にとって誘惑に陥りやすいまどろみのときであるからではないだろうか。

 

--主の日--

そして、これはそのまま終末に生きる弟子たちに求められる事柄である。弟子たちは、主が「暗闇の支配に対する戦い」・「主の贖い」・そして「主の栄光」のときが、キリストの十字架の時であったように、終わりの日もまた、「暗闇との戦い」であり「贖いのとき」であり「栄光のとき」である。だから弟子たちに語られた注意と警告は、彼らのさまを通して、そのまま終末に生きる弟子たちがやがて訪れるときがどんなときであるかを心しなければならないのである。主の日のそのときの光景は重なっていると感じられる。

主は私と一緒に目を覚ましていなさい。しばしば私を見続けていよと語られた。そして、何度も目を覚まして祈っていなさいと。なぜこの日をそのようにいえるかというと、イエス様のカルバリで味わわれた苦しみ、ゲッセマネでの悲しみは、聖書が語る「産みの苦しみ」に符合するものだからである。キリストの十字架はイエス・キリストによって全ての信仰者が生かされるためのものであった。死が一人の人を通してきたように、死者の復活も一人の人・イエス・キリストを通してくると書いてある。

イザヤ書53:10には主のみ苦しみの先にあるものを次のように描いている。
53:10
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

とある。また、ヘブル12:2には

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

とある。また、ヨハネ12:23では

12:23 イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます

と。

イエス様の御苦しみは私たちを神の内に生かす命の種であり育みとなる。私たちの人類の罪により入ったエバの産みの苦しみ、そののろいにより大いに増し加えられた罪からの苦しみを主はご自分の身によって苦しみを背負われ、私たちを新しく生まれさせてくださった。それゆえ、主のみ苦しみは「産みの苦しみ」に符合する御苦しみであるということができる。
ところで、聖書には産みの苦しみとして描かれる苦しみが終わりの時代に対しても起こっている。

 マルコ13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい
13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。

 Tテサロニケ5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

  産みの苦しみは、新しい世界が作られるときに生じる、腐敗した世界への裁きである。世界は火によって裁かれきよめられなければならない。ところが霊的には、キリストの十字架によって、私たちが受けるべき新世界の創造に当たる神のみ怒りと裁きは私たちの上にではなく、ただひとり神の御子キリストの上に下ったのである。これがキリストの十字架の裁きである。

 

主が十字架におかかりになった時の異常な現象をマタイ伝は伝えている。

 まず、昼の十二時であるにもかかわらず全地が暗くなり、それが三時まで続いた。次に、キリストが息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。さらに、地震が起こって岩が裂け、墓が開き、死者が生き返った。

アモスは「その日が来る」と神の裁きの日を告げていた。「その日」は人類にとって嘆きの日である。そして、アモスの預言した「その日が来たのだ」とマタイ伝は私たちに告げるのである。神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変える苦悩に満ちた日が。しかし、地上に神の裁きが行われる主の日が到来したにもかかわらず、神に見捨てられてこの嘆きを口にしていたのは、現実にはただ一人、十字架の上のキリストだけであった。キリストだけが大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫び、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と嘆かれて、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びをあげておられた。人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどとは思ってはいなかった。本来神の裁きを受けるはずであった地のすべての人々は、まったく気づかないでいた。本来裁かれるはずのない罪なき方が、すべての人に代わって神の裁きを一身に受け、キリストは神のみ怒りを、受けるべき杯としてただ一人で飲み干しておられた。

こうしてただ一人苦難を受けられた主イエスは、最後に大声で叫び、息を引き取られた。それは、キリストがその生涯の目的を果たし終えられて、御自分の霊を父なる神にゆだねられた瞬間である。
その瞬間、この世界に決定的な何かが始まった瞬間であった。

聖書は語る。
まず「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」た。神と人間との間には存在する隔てであったが、キリストが息をひきとられた瞬間、神は自ら、垂れ幕を引き裂かれたのである。十字架の上で、たった一人で神の裁きを受けて死なれたキリストの犠牲によって、その瞬間、隔ての幕は引き裂かれ人間が神に近づく道が開かれた。
さらにこう書かれている。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
大地が揺り動かされるとき、私たちにとってもっとも不動のもの・死の支配に閉じ込められていた人々はキリストの死のその瞬間に打ち破られた。キリストの十字架は死の力を持つものに対する勝利のときである。私たちはどうしても抜け出ることも解決することもできない圧倒的な死の力の内にとらわれていた。しかし、もはや死は人間を閉じこめてはいない。あの瞬間、キリストが死なれたあの瞬間にそれは起こった。

キリストがただ一人神の裁きを受けられ、罪の贖いの犠牲となってくださった。人間と神との間にある垂れ幕は引き裂かれ、隔ては取り除かれた。それと共に、死は支配力を失った。

 

それが十字架のときの主の日であった。それは本来私たちが受ける罪の裁き、預言されていた恐るべきのろいが私たちの上にではなくキリストの上に下った日であった。私たちはこの福音によって恵みによって救われるものとされた。
これは驚くべき神の慈愛である。
主は私たちのために産みの苦しみをされた。霊的には新しい世界はすでに来ている。みよ、すべてが新しくなった。しかし、世界(からだ)(被造物)がすべてキリストの足下に服従しているのをいまだ見ていない。その贖い はやがて訪れるものである。その日は後の時代(すなわちこの時代)の、終わりの日である。

 だが後の時代には、その日には多くの人がつまずき、愛が冷め、信仰を失いやすくなり(わたしが来たとき果たして地上に信仰が見られだろうか)、弟子たちでさえもまどろみやすい時代になっている。もはや毒麦は成長しきっており、御使いの目には明らかな違いとして映っているようなさばきの直前のときである。偽りの教師が入り込み、できれば選民をも惑わそうとしている。僕仲間をうちたたき、食事時になっても食事(みことば)を与えない管理者が現れている。主の日はまだだと心の中で思っている暗闇の世の真夜中、主はそのようなときに突如としてこられる。さて、そのときとは終わりのときである。だから、その終わりの時代にいるものはまどろみの中で眠りこんでいてはならないのである。絶えず目を覚まし、祈っているべきであると。それが終末に生きる弟子たちにかけられる教えである。

その日は弟子たちにとって苦難の日である。なぜなら、夜明け前の不法が横行する世界だからである。それは単なる世の人からの迫害をさしてはいまい。そして、主のこられる時には、あらゆる偽り者にとって裁きの日となる。

主はご自分の聖徒に命をお与えになるとき、産みの苦しみをされたが、世の終わりのときも同様に苦しみの状況が起こされる。聖書は産みの苦しみとして描かれる苦しみが終わりの時代に対しても起こっていると告げていた。

Tテモテ
4:1
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
4:2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。

Uテサロニケ
2:3
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
2:8 その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 

(ユダの裏切りは終わりのことについて何かしらの示唆があるのではないかと感じられる。彼は真理の愛を受け入れなかった。その日、滅びの子に対する欺きにかかった彼は最後に裁かれるものとして描かれている)

これらは決して逃れられない苦しみである。そして、終わりの日の苦しみである。そして、眠っている者にとっては突如として襲ってくる種類のものである。黙示録12章にも、世界を牧する子を女が産むとき、激しい産みの苦しみがあることを物語っている。

イエスキリストが十字架によって私たちを購い苦しまれたのは、私たちに対する罪の刑罰であった。イエス様の福音は私たちののろいの身代わりであり、私たちへの救いの宣教であった。それは、最終の神の御怒りから逃れるものである。
最終の神のみ怒りを示すものは、イエス・キリストの十字架であり、また終末のさばきである。これらをあらわす聖書の型は各時代の終末期においてよくあらわされている。とくにそのことを示し、聖書が引き合いに出している型の箇所は、ノアの時代であろう。
神の最終の御怒りは、終末の裁きの型であるノアの時代の裁きの内にその性格を見ることができる。ノアの時代の世界の霊的な様相の内に私たちの罪の束縛と神に逆らった結末として受ける裁きの状態が示されているように思う。このような霊的状態にある私たちに解放と救いを持って訪れてくださったのが、主である。

Tペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

とある。詳細な解説や解釈をもっては理解の難しいところだが、霊的な様相をイメージするなら観念的には分かるのではないだろうか。
これは、キリストの救いに預かることの(バプテスマの)型であると聖書は言っている。
そして、ノアの時代の裁きは終末の裁きを警告する雛形である。主もこの時代の姿を通して、信仰者に目を覚ましていることを注意された。人々が食べたり飲んだりしているちょうどそのような時、滅びが突如としてやってきた。終わりの日に裁かれる者の命の状態がそこにある。私たち一人ひとりもすべからくそうである。最終のみ怒りを受けるべき子らであった。

(主の日により、解放されることを被造物は願っている。そしてこのことは、主の十字架によって霊的には実際に成就(完了)した。しかし地上的には(あるいは私たちの体においては)このことが完成しているのを未だ見ていない。
ローマ8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。)
 

 終末の裁きが教えている裁きの本質は永遠の裁きだと思う。私たちの一人ひとりの命と救いに関する霊的な事柄でもある。しかし、主はご自分が死の苦しみを受けられ、その苦しみを通して捕らわれの霊たちのところに言って解放してくださった。とペテロは解説している。

詩篇には関係がありそうな神妙な言葉がある。
詩篇
29:3
主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
29:4 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
29:5 主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
29:6 主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。
29:7 主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
29:8 主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
29:9 主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。
29:10 主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
(難解なのでそれ以上はこの聖句を掘り下げないが・・・)

 

--主の祈り--

主が3度にわたりご自分とともに目を覚ますことを求められ、彼らが祈っていることを求められた。その祈りが必要なときとは、弟子にとって誘惑に陥りやすいまどろみのときであった。主の再三の戒めは、弟子たちがこれからのち信仰の歩みをする上で必要なみ言葉であったと考えられる。主に習うものとされた弟子ペテロはペテロの手紙を見るなら、主の祈りをするものとなっていた。

しかし、このとき、主のみ思いを知ることができないでいたとき、弟子たちは主を見捨てて逃げ去ることになる。しかし、主は一人悲しみと苦しみでもだえられる。キリストがこの時代に捨てられなければならないことは聖書が前もって語っていることだった。主は捨てられ、苦しみを経なければならない。
「ルカ24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」

さて、それはキリストがただひとり受けられるものであるが、同時に主のみ苦しみはとりなし主である祭司としてのみ苦しみでもあったと聖書は伝える。そしてまた私たちの師として長子なる方としての苦しみである。イエス様は「ご自分の受けられる種類の杯」を弟子たちが飲むものとなることを示すのであった。

イエス様は弟子たちに「あなた方はわたしの飲もうとしている杯を飲むことができますか」と問われた。神の栄光に入る弟子への条件であった。主が見苦しみを経て栄光に入られるのと同様に弟子たちの栄光にはいる条件であるように聖書は示している。

主は答える弟子たちに「確かにあなた方は飲みはします」とお答えになるのであった。それゆえ、主はご自身が杯を受けられる苦しみの中にあるとき、弟子たちに目をさまし祈っていることを求められた意味が多少なりとも理解される。主は一人でその杯を飲み干されるが、弟子たちもまた主を学ばなければならなかった。彼らは終わりの(栄光の)ときに向かって心を覚まして祈っていなければならない。主は主が悲しみの中にあるとき、弟子たちがまどろみにあることをたしかに「誘惑に陥っている」と表現された。主の置かれているその状況の時に、弟子たちは目を覚まさなければならないことを学んだ。

初代教会時代、弟子たちは主にある迫害の中で次のように言って励ましあい勧めあって主に祈った。

使徒14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。

そしてペテロは、信仰者に語るのである。

Tペテロ
2:19
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 

 

 主の祈りも、弟子の祈りも、それは自分自身を全能の神の手にゆだねることにあった。善を行いながらも悲しみをこらえ、不当な苦しみを受けているとき、信仰者は神なる主に祈っている。

祈りは本来、私たちの内に無いものを求める性質がある。パンを求め、必要な力を求め、また他者への赦しと罪を犯すものの神へのとりなしを・・・。しかし、これらのことに中にあって最終的には、神の手にゆだねることが祈りではないだろうか。神の手に自分の思いをさえも預けられる祈りが苦難の中にはある。主は、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。神の御心にしたがってなお苦しみを受けられるとき、主はご自分の魂を御父の御手に完全に明け渡しお任せした。

その祈りの中で主が願われたことは「私の思いではなく父の御心のとおりがなされますように」というものであった。父の御心のとおりになることへご自分をゆだねられた祈りこそ、ほかでもなくゲッセマネの祈りであった。そして、ついに神の御心がなしとげられたとき主は「父よ、わが霊を御手にゆだねます」といってご自分の霊を完全に父のみ手にお渡しになった。

Tペテロ4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 主は確かに終わりのときにあたってご自分とともに目を覚まし、祈っているように語られた。弟子たちが主に倣う者とされたとき、祈りの内容が学ばせられる。