― 終末の証し ―
主イエスがエルサレムに向かわれる旅路には、王となられる方が、主の日に憐れみを注がれる主の御性質が表される出来事が重ねられていました。
エリコでは盲人が「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫び、取税人ザアカイが主を慕い求めました。盲人(Ⅱサム5)や愚かな金持ち(Ⅱサム25)は、かつて油注がれた方を侮り、拒みました。
そのことのゆえに呪いを負う立場とされた者に、憐れみと希望が届くのは──柔和の王が近づかれるその日に起きる事柄です。
主イエスが入城されるにあたり、その旅路では、見捨てられた人々が主に心を向け、切実に救いを求め、主のまなざしを慕い求めました。その日、主はその叫びに立ち止まり、心を注がれ、見捨てられていた者は、神の御前に回復されたものとして立つ者とされました。
主はろばの子に乗ってエルサレムに入られます。群衆は「ダビデの子にホサナ」と叫び、衣を道に敷いて迎えました。
彼らの理解は不十分であり、メシアの働きを誤解していた面もありましたが、それでも主はその賛美を受け入れられました。
幼子や小さな者の口からの喜びの声を、主は退けられませんでした。
一方で、パリサイ人や祭司長たちはその賛美を快く思わず、主を拒みました。
ここに、主を待ち望み心から迎える者と、拒む者とが明らかになりました。
詩篇118篇の「捨てられた石が礎の石となる」というみことばの通り、人々から退けられたこの方こそ、救いの土台となられるのです。
群衆の賛美は、やがて祭壇の角へと至る行列を思わせます(詩篇118篇)。その先にあるのは贖いの十字架でした。
主は人々の誤解や未熟さを超えて、救いのためにご自身をささげられる道を全うされました。
こうして見ていくと、主の日に憐れみを受ける者とは、かつては拒む者としてありながらも、へりくだって主を慕い求める者である──その光景が、主のエルサレム入城の旅路に伏線として織り込まれていました。そして、入城の光景は、主がどのような方であるかを示すしるしでした。小さな者、罪深い者、弱い者に目を留められ、彼らの救いのためにご自身を与え、彼らの王となられる方。理解が不十分であっても、主はその求めを受け入れ、十字架へと進まれました。
主を待ち望み、心から迎える者と、主を拒む側に立つ者。エルサレム入城は、この世界に、主をどう迎えるかを迫る出来事として語りかけています。
ルカ20章では「権威の源」や「拒否と受け入れ」が示されています。
ヨハネの証から黙示録に至るまでの流れを黙想すると、終末の展開が一貫して「証と拒否、犠牲と贖い、そして完成」という筋で描かれていることが分かります。
ヨハネのバプテスマの権威について問われた場面では、神から遣わされた証しが与えられたにもかかわらず、人々はそれを拒みました。
この場面は、証しが与えられたとき、人はそれを受け入れるか拒むかという識別の分岐を示しています。
黙示録では、二人の証人が艱難の中で神の言葉を語りますが、彼らもまた拒否され、殺されます。
しかしその後、復活し、天に上げられることで証が完成します。
ヨハネの証と同じく、「与えられた証が拒否される」という現実と、それでも神によって証が全うされる流れが見えてきます。
艱難の裁きは、世にも宗教界の拒絶者にも及び、拒否する者を明らかにし、残りの者を守る働きをします。
イスラエルの残りの者は艱難の中で守られ、神の印を受けて証を保持します。
「選ばれた者」として、信じる者とされ、終末に救いへと至ります。子羊と共に立ち、新しい歌を歌う者として描かれます。
教会は花嫁として、艱難のただ中で整えられ(※艱難のただ中にある世のために、同時代に整えられ)、子羊の婚姻の時に天において迎えられ、最後には新しいエルサレムにおいて完成された姿を現します。
このように、ヨハネの証から始まった拒否と受け入れの問いかけは、終末に至るまで繰り返され、証と拒否、犠牲と贖いの流れは、終末において全うされます。
キリストの御国の拒絶は、ヨハネの証しの拒絶から始まり、黙示録の証人、残りの者、花嫁の完成へと続いていく一連の流れを示します。
そして、この識別の問いが、主イエスから彼らに為されているのです。
聖書には、神に捧げられ、地上から姿が見えなくなった人々が記されています。
彼らは消え去った存在ではなく、神に受け入れられた者たちでした。
共通しているのは、従順と献身、そして神の誓いに応答する生き方です。
その歩みは、雲や煙、昇るという象徴と結びついており、終わりの日に主に迎えられる出来事を示しています。
全焼の捧げものを表すヘブライ語 עֹלָה(オーラー)は「昇る」という意味を持ちます。
この語は動詞 עָלָה(アーラー)「上がる」「昇る」から派生しており、祭壇で焼き尽くされた捧げものが煙となって天に昇ることを意味します。
これは、献身が神に完全に受け入れられることを示すしるしです。
この象徴は、エノクの昇天、エフタの娘の献身、ルツの忠誠、教会の携挙、そしてキリストの昇天に共通しています。
エノクは神と共に歩み、神に取られて姿を見なくなりました。信仰による献身が天に移されたのです。
エフタの娘は父の誓いに応え、自らを差し出しました。山に登り、悼まれ、やがて世界からいなくなる存在となったその姿は、いけにえの煙のように神に昇る献身を思わせます。
ルツは死すべき者への忠誠を通してイスラエルに結びつき、ボアズとの結婚によってキリストの系譜に加えられました。
教会はキリストの誓願に応え、雲の中で主に迎えられる共同体です。
そしてキリストご自身も、十字架の献身の後に雲に包まれて昇り、神の右に座されました。これは献身と受け入れの完成を示す出来事です。
雲と煙は、神の臨在と受け入れのしるしです。
献身者が地上から姿を見なくなるとき、それは拒絶ではなく、神に迎えられる移行を意味します。
煙が天に届くように、雲は携挙の場であり、献身者が主に迎えられる場となります。
パウロは信仰者に向けて、「からだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と語り、
また「異邦人が聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるために」(ローマ15:16)と述べました。
さらに自らの歩みを「注ぎの供え物」と呼び(ピリピ2:17、Ⅱテモテ4:6)、殉教を神への献身の完成として受け止めました。
このパウロの言葉は、旧約から新約に至る献身の流れと一致しています。
エノク、エフタの娘、ルツ、教会、そしてキリストの昇天は、従順と献身から始まり、神の誓いに応答し、地上から上げられ、雲と煙の中で神に迎えられるという歩みを象徴的に共有しています。
この上げられる姿に、献身と従順、そして全焼のいけにえが象徴する「供え物」としての様を思い、パウロが語ったこの「供え物」の生き方は、この流れを神学的に言語化したものと受け止められます。
こうして彼らは、世界の贖いが完成する前に神に捧げられた「供え」として位置づけられ、御国の完成の働きに与る存在となります。
パウロの証しは、この霊的秩序を裏づけ、信仰者一人ひとりが主の日に同じ「供え物」としての召しに生きることを示しています。
創世記5:24は「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と記します。
エノクは死を経験せず、神に移されました。彼の生涯そのものが神への供え物であり、昇天はその献身の完成でした。
全焼のいけにえを表すヘブライ語 עֹלָה(オーラー)は「昇る」ことを意味しているように、祭壇で焼き尽くされた捧げものが煙となって天に昇るその象徴を踏まえると、エノクの昇天は、神に受け入れられた供え物としての献身の完成を示すものと黙想できます。
彼は地上から姿を消し、挙げられて神に受け入れられました。
「携挙された者」の型として覚えられると同時に、全焼のいけにえが示す「供え物」としての立ち位置を持っています。
エノクは65歳でメトシェラを生みました。
子の名は「彼が死ぬとき、それが送られる」という意味を持ち、洪水の到来を示す預言的しるしと理解されます。
エノクはその子を得た後、三百年にわたり神と共に歩みました。
子を産んだ時に与えられた啓示──裁きのしるし──を意識し、より深い献身に入ったことが示唆されます。
彼の昇天は、洪水という裁きに先立つ「供え物」としての意味を帯びています。
ユダ書14~15は、エノクが主の日の裁きについて「主が万民をさばくために来られる」と預言したと伝えます。
彼の昇天は、主の日の裁きと贖いに先立つしるしであり、神の計画における世の贖いのため──直接的にはノアの日のため──の「供え」として理解できます。
教会もまた、主の日の裁きに先立って「雲の中で主に迎えられる」とされます(Ⅰテサロニケ4:17)。
エノクが「子を生んだ後に神と共に歩み、裁きの前に取られた」ことは、教会が「贖いの完成に先立ち、供え物として携挙される」ことの型であると受け止められます。
パウロは「あなたがたのからだを、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)、異邦人が神に喜ばれる供え物となるために」(ローマ15:16)と語り、自らを「注ぎの供え物」と呼びました(ピリピ2:17、Ⅱテモテ4:6)。
エノクのあげられたことは、このパウロの証しと調和します。
彼の生涯は「生きた供え物」であり、昇天は「注ぎの供え物」として神に受け入れられた完成の姿であると黙想できます。
エノクのあげられたことは、個人の信仰の完成であると同時に、世に対する神の証しでもありました。
メトシェラの名が示す裁きの預言は、この世に対する証しそのものです。
エノクは神への献身者であり、つまり、神と共に歩んだ者でした。
主の御旨、御心、願いとされていたことに対して忠実でした。
「裁きの時を定められ、神はその長い期間忍耐を持って救いを望み、主の日の贖いの完成に与かるものとしての供え物として受け入れられる」歩みが、その地に、世のために備えられました。
エノクが「神に取られた」その姿は、雲に包まれて神に受け入れられる象徴として黙想することができます。
御旨に生きたあげられた姿は、世に向けられた証であり、教会の携挙、そしてパウロの証しと共に、神の救いの計画全体に結びつくものです。
エノクは、全焼の供え物の概念に合致する献身者として理解できます。
彼の子メトシェラの名は裁きの到来を示し、エノクはその預言を見据えて神と共に歩みました。
そしてあげられて神に受け入れられました。主の日の裁きと贖いに先立つ「供え」としての立ち位置を示し、教会の携挙の型でもあります。
さらに、パウロが語った「生きた供え物」「注ぎの供え物」という証しとも調和し、神が世に示される証しと贖いの主の御旨を映し出しています。
教会の携挙を、贖いの完成に先立つ霊的な「供え」として黙想することは、主の愛に応える花嫁の姿を映し出すものです。
キリストが罪のためにただ一度、ご自身を捧げられたように、終わりの日にも、主の愛に生きる者たちが、神の前にあげられ、受け入れられる「供え物」とされることがあるならば、主の教会の歩みはその証をどのように保つのでしょうか。
主の誓願の御旨──御国の完成について、何を識別するでしょうか。
主の愛を自分のものとして生きる献身のしもべは、世に残された証しとして立ち、残れる者の命──最後の救いのためのしるしとなります。
それは、裁きに先立って神が世に備えられた憐れみのしるしであり、証しでもあります。
この黙想は、神のご計画の流れを覚えつつ、キリストの終わりの日の言葉を識別し、その御旨に応答する者として、受け止めていくための視座を与えるものです。
ここに、ヨハネの証の拒絶から、キリストの拒絶へと至り、そこから主の苦難の先に花嫁の礎が据えられるという、御国の完成に関して神のみこころを成し遂げるしもべの選びに関する救済史の転換点が描かれています。
20章の冒頭で、主イエスは「ヨハネのバプテスマは天からか、人からか」と問いかけられます。証しが示されたとき、それを受け入れるか拒むかを人は問われます。
ヨハネは「悔い改めと主の救いの備え」を語る者であり、主の道を整える証人として神が遣わされた預言者です。
人々はその権威を認めず、識別せず、主への応答を拒みました。
この拒絶は、終末においても繰り返されるものです。
証し、拒否、裁き、残れる者の選び分けが語られてきました。
主が彼らに問いかけられたこの問いは、証しは応答を迫るものであり、霊的な分岐点であることを改めて示し、聞く耳のある者に問いかけます。
続く譬えの中で、主人の子が殺される場面が描かれます。これは明らかにキリストの十字架を指し示していますが、その結びに引用される詩篇118篇の言葉──「家を建てる者たちの捨てた石が、礎の石となった」──に、御国に関する主のみこころが示されます。
譬えでは「拒否された証し」が頂点に達し、「捨てられた石が礎となる」という預言が直接引用されます。この預言の引用は直近でも引用され、大切な御心があるはずです。
ぶどう園の主人は神です。
繰り返し遣わされたしもべたちは、旧約の預言者たちでした。
最後に遣わされた愛する子 は、キリストご自身です。
農夫たち(主人の子を殺す者)は、イスラエルの子らであり、宗教指導者たちです。
この譬えは、神の証しが拒否され続け、ついに御子までも殺されるというイスラエルが辿り、主が受けられた苦難の姿を示しています。
そして、主イエスは詩篇118篇を引用して
「家を建てる者たちの捨てた石が、礎の石となった」(ルカ20:17)と語られました。
「拒否されたキリストが礎となった」という事実に目を向けるだけでなく、誰が捨てたのか、なぜ捨てたのか、何の礎となったのか、ということに黙想します。
「家を建てる者たち」とは、神の家を建てるはずの者たちです。御国の御計画に対して神の働きに与かるはずだった者たちが、神の選びを拒否したというものです。
なぜ捨てたのか。石が「ふさわしくない」と見えたからです。キリストの姿が彼らの期待するメシア像とあまりに違っていました。花婿の姿が見えなくなることによる拒否でもあり、このくだりは、花婿を待ち望まない民、終末の背教者(「女王であり、私はやもめではない」)にも共通しています。
そして、何の礎となったのか。捨てられた石は礎となり、その上に主の家が立てられました。建てられたその家は新しい神の家(エペソ2:20、Ⅰペテロ2:4~6)、単に教会と読み替えるものではなく、その意味は花嫁の共同体の礎です。
捨てられた石が、花嫁の整えの土台となるという黙示的な理解が求められます。
「礎の石」とは、建築の比喩としての土台、最も大切な基盤としての意味だけでなく、神に受け入れられる供え物としての象徴でもあります。
ペテロは「人には捨てられたが、神に選ばれた尊い生ける石」としてキリストを語り、信仰者も「あなた方も生ける石として霊の家に築きあげられ、霊的ないけにえ(供え物)をささげる」よう述べます。
つまり、礎の石=キリストの犠牲=神に受け入れられた供え物であり、その上に立つ者もまた「供え物」として整えられる存在です。
キリストが拒否され、殺され、しかし神に受け入れられたように、終末においても、主の愛に生きる者たちが、人に拒否されながらも、神に捧げられる供え物として携えられるという御心が秘められているように思います。
キリストは贖い主であると同時に「拒否された証し人」であり、十字架にかかることで犠牲の供え物となられた方です。「捨てられた石」とは、人に拒否され、神に受け入れられた者の象徴であり、供え物としての霊的な位置を持っています。
エノク、エフタの娘、ルツ、パウロ──いずれも「供え物としての献身」を示す型でした。教会もまた、贖いの主の日に、裁きに先立ち、雲の中で主に迎えられる存在であり、ここには、「供え物」としての整え、神の世に備えた証しの御旨を悟る、それが先(第一部)の黙想でした。
それは、世に残された証しとして立ち、残れる者の命のためのしるしとなる存在です。
拒否された石が礎となり、花嫁の携挙と証しの完成にまで及ぶ御国の御計画に思いを馳せます。
キリストもまた、拒否され、殺され、雲に包まれて昇り、神の右に座された方です。
その姿は、供え物としての完成=礎の石として据えられた者の型のように見えます。
「礎の石」は、神の救いの家を築くために、犠牲として捧げられ、受け入れられた者を象徴し、霊的な供え物としての意味を帯びていると受け止められます。
「礎の石」は、人に拒まれ、神に受け入れられ、神の家の土台となった。終わりの日の最後の完成に向けて、その石の上に、世の証しのための主が備えた供えとして整えられる(天にあげられる)共同体が築かれる。
この黙想は、ペテロの手紙において主御自身の姿を模範として見分ける者にとって、聖書的にも霊的にも整合する深い意味を持つと信じます。
「拒否された石が、神の家の礎となる」という福音の深みに、神の憐みの御計画が秘められています。
この黙想は、第一部・第二部で取り上げた「拒否された証し」「供え物としての献身」「礎の石と花嫁の整え」の流れを受けて、ルカ20章後半に記された主イエスの言葉──復活と神の契約の完成──に目を留めるものです。
主はサドカイ人の問いに答えて言われました。
「この世の子らは、めとったり嫁いだりしますが、次の世に入るのにふさわしく、死者の中から復活するのにふさわしいとされる人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いたちと同じようであり、復活にあずかる者として神の子どもだからです」(ルカ20:34~36)
復活の現実を否定しようとするサドカイ人に対して、主が「復活とは神の契約の完成であり、地上の制度に縛られない新しい秩序である」と示された場面です。
この言葉は、復活が「この世の延長」ではなく、まったく新しい秩序であることを示しています。
この世では、結婚・出産・死が前提となっていますが、復活の後には死がなく、結婚制度もありません。
「死ぬことができない」とは、命が神の手に置かれ、もはや失われることのない状態にあることを示しています。
「御使いたちと同じようであり」とは、天的な存在としての性質を帯びることを意味し、
「神の子ども」とは、復活が神の子としての身分の完成であることを示しています。
復活とは、神の手の中に命が置かれる出来事です。復活は、完全に受け入れられた存在として神の手の中にある終末の義人が、拒否や裁きから解放されます。(参照:ローマ4:25)
全焼の供えは「すべてを神に捧げ、煙となって天に上る」献げ物であり、これは「命が神の手に置かれる」象徴です(レビ記1章参照)。
「挙げられる」出来事は、供え物としての霊的立ち位置と同時に、復活の型を示しており、義人の復活は「神に受け入れられた」存在の御手に置かれた命の表れです。
黙示録の二人の証人は、殺され、復活し、天に挙げられることで、証しの完成があると記されています(黙示録11:11~12)。
花嫁は、艱難の中で整えられ、婚姻の時に天で現れ、完全に受け入れられます(黙示録19:7~8)。
残りの者は、艱難の中で守られ、贖いに至ります(黙示録7:3~4)。彼らは神の手の只中にある命です。
復活は「神の手に置かれた命が完全に受け入れられる出来事」として、証し・犠牲・贖い・完成へと至るものです。
この型が実現したことを理解するために、モリヤの出来事を見ることができます。
イサクの全焼のささげ物は、アブラハムが独り子をささげる命令に従い、霊的に神の前に完全にささげたものであり、これは父なる神が御子を十字架に渡された型です。
これを神は「完全に受け入れられ」ました。そのとき、ヘブル人への手紙は「アブラハムは神が死人の中からでもイサクをよみがえらせることができると考えた」と証言しています(ヘブル11:19)。
実際には羊が代わりにささげられ、イサクは命を取り戻しました。父が完全にささげたのちに、命が返される出来事を通して、キリストの十字架と復活を示す型として示されたのです。
ルカ20章のサドカイ人との問答の中で示され、考察すべき主要な着目点は三つあります。
第一に、「契約の神」の契約の完成について。
第二に、神の御国の相続について──すなわち結婚制度との関係。
第三に、「生きている者の神」としての命の証しについてです。
まず「契約の神」としての信仰の応答は、モリヤの出来事においてアブラハムによって証されました。
次に「嗣業の相続」については、レビラート婚の制度とその限界を通して、地上の契約と御国の嗣業の違いが示されます。
そして「生きている者の神」としての命の証しは、族長たちの名に刻まれた復活の型によって明らかにされます。
これらは互いに関係し合いながら、調和して理解する必要があります。
主はこう語られました。
「モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死者の復活を示しました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。すべての人は神にあって生きているのです」(ルカ20:37~38)。
この族長たちの名によって神がご自身を証される理由の中心には、モリヤの出来事における信仰があります。
族長たちの名は、「神との契約と信仰の応答」を証しするものであり、その中心にあるのが、先に示したアブラハムの「モリヤの出来事」でした。
モリヤの出来事は、「全き従順のうちに神にささげ、上げられて、神の手に置かれた命が、神のうちに生きよみがえらされる」という光景です。
その事実の証しとして、ヘブル書は「イサクを死者の中から取り戻した」と語ります。
神の手に置かれた命は、神にはどんなこともできるという信仰によって支えられています。
アブラハムは、神の契約──すなわち約束された嗣業──を信じた復活の信仰によって、「アブラハムの神」と呼ばれるにふさわしい者とされました。
族長の名で神が証されるということは、「復活の型を信仰によって証した出来事」があったからです。
族長たちの名は、契約と復活の型を証しするものとして、神ご自身の御名と結びつけられ、復活の命の主であることをその御名に表しておられるのです。
主は、復活のいのちの状態について、「復活の時には、めとったり嫁いだりすることはない」と証しされました(ルカ20:35)。
サドカイ人が持ち出したレビラート婚の律法制度は、単なる婚姻関係の形式だけでなく、カナンの地の相続が御国の継承の型としてイスラエルに証しされてきたことを背景にしています。
律法は、神の民が嗣業を受け継ぐことを守るために命じられたものであり、嗣業の相続は、天の御国を受け継ぐことや、神の永遠の命をかたどる保証に関する型として示されてきました。
七人の子が与えられるという例は、地上的には嗣業の相続が途切れることのない、最も祝福された立場を示すものです。
この話題には、イスラエルの嗣業に関する神との契約関係が横たわっています。
イスラエルは「証しの民」として律法に従い、主の地(הָאָרֶץ ハ・アレツ)の相続を守るよう命じられてきました。
嫁入り・婿入り、レビラート婚などの制度は、神との永続的な「地の契約」を維持するための律法の秩序であり、これは「律法の枠組みの中での嗣業保持」であって、地上の契約に縛られているイスラエルの肉の子らの姿を表しています。
しかし、神の子とされる命、天の御国の嗣業については、その秩序に縛られることはありません。
イスラエルの、肉の死に対する抵抗や、死の支配に対して、地の契約によって克服しようとする相続ではなく、神の子として、神の与える賜物によって──すなわち御霊によって──嗣業を受け継ぐことになります。
サドカイ人は「七人の兄弟が妻を迎えたが、誰も子を残さなかった」という例を挙げ、復活を否定しようとしました(ルカ20:28~33)。
律法的制度(レビラート婚)に基づく「地上の嗣業の保証」の限界を突きつける例話を持ち出したのです。
この現実は、律法に忠実であっても、永遠の命の嗣業には至れないという霊的な限界を象徴しています。
主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と語られ、復活を「神との生ける関係」に基づく嗣業として示されました(ルカ20:38)。
「復活にふさわしい者」とは、律法を守った者ではなく、神のいのちに結ばれた者が受け継ぐ嗣業であると示されたのです。
以前学んだルツ記も参照することができます。
ルツ記4章15節には「七人の息子にまさる」という表現がありました。
七人の息子は「完成された地上の嗣業」の象徴ですが、それでも永遠の命の嗣業を保証することはできません。
それに勝る花嫁──つまり、この世の最大の祝福を超える霊的嗣業が示され、「信仰による新しい相続の道」、血肉による方法を超えた神の贖いに基づく嗣業が証しされました。
主が言われた「復活の時には、めとったり嫁いだりすることはない」という言葉は、この地上の制度──律法による相続──に縛られない新しい秩序であることを示しています(ルカ20:35)。
律法が示してきた秩序は型であり、復活は神の契約の完成の時、つまりその実現の時を表しています。
復活が「娶ったり嫁いだりではない」ということは、カナンの地の相続が御国の嗣業の型であったことを示しており、律法の秩序に縛られる地の契約ではなく、神の子としての嗣業の相続──御国を受け継ぐこと──が復活において完成することを証しています。
イサクの場面において、復活がアブラハムの嗣業──神の約束──の継承であるとき、復活は「神の子としての嗣業の完成(実現)」であり、御国の継承そのものを指し示しているのです。
主イエスが語られた「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。すべての者は神にあって生きているのです」(ルカ20:38)という言葉は、神に全き従順のうちにささげられ、挙げられて神の手に置かれた命が、神のうちに入り、よみがえらされることを示しています。
彼らは神のうちに生きているのです。御国の相続は、結婚によって地の嗣業を受け継ぐ制度によって守られるのではなく、復活の際には、めとったりとついだりするようなものではありません。復活は「神のうちにある命の顕現」なのです。
復活について、主が「もう死ぬことができない」と言われたとき、世では「死」が普遍的な支配者として人間を縛っていますが、復活においては、命が完全に神の手に置かれ、神のうちに生きるため、死の支配がもはや及ばないことを示しています。
「できないからです」という強い表現は、死がもはやないということを語っています。これは、黙示録21~22章に記された「死はもはやない」という光景として覚えることができます(黙示録21:4)。
神の手に置かれた命の復活は、神の契約の完成によるものであり、失われることのない命であることを示しています。
「死ぬことができない」とは、契約の完成として嗣業が完全に保証されていることの証しでもあります。嗣業は「神の命そのもの」であり、これは永遠に失われません。
このことは、ヨハネの福音書で主が語られた「彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできません」(ヨハネ10:28~29)という言葉に通じます。
契約が果たされた命は、すでに神の手の中にあり、完全に守られているのです。
そのとき、黙示録21~22章では、新しい天と地、新しいエルサレムが現れ、契約は完全に果たされ、嗣業は永遠に保証されます。
「神は彼らの目の涙をことごとくぬぐわれる。もはや死はなく、悲しみも叫びも苦しみもない」(黙示録21:4)と記されているように、死は滅ぼされ、命は完全に現されます。
花嫁は整えられ、神の子たちは嗣業を受けます。花嫁が整えられることは、嗣業を受ける共同体としての完成を意味します。(参照:エペソ5:26~27)
婚姻の時とは、契約の完成と嗣業の実現が一致する時です。
これは「誰も奪うことはできない」命の完成形です。
復活の命は、契約が果たされた中にあります。命は誰も奪うことのできない命として、神の手に置かれています。
ヨハネの福音書では、主が「わたしを信じる者は、決して死なない」「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と語られました。
また、「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできません」(ヨハネ10:28~29)とも語られています。
信じる今、この時に、命はキリストの手に置かれています。復活の命は、終わりの日に現れるものですが、信仰によって今すでに与えられている命でもあります。
それは、キリストとの結合において「すでに受けている命」であり、「契約の完成」として嗣業が永遠に保証される形をもって、復活の命が現されます。
キリストのうちにある者は死を見ません(ヨハネ8:51)。肉体は朽ちても、それは「死」ではなく「眠り」と呼ばれます(ヨハネ11:11、Ⅰテサロニケ4:13)。
命はキリストの手にあり、神のうちに保たれているからです。
アブラハムも肉においては死にましたが、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神の名が呼ばれ、復活の命が示されました。
彼らは神のうちに生きているからです。その復活の現れは、嗣業を受ける時、契約の完成の時、御子の来臨の時に現れます。
契約はアブラハムに与えられ、信仰による相続が約束されました。
キリストの血による贖いによって、新しい契約が与えられ、御霊によって保証される嗣業を受け継ぐ者とされました。
「この方にあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:13~14)。
この契約が完全に果たされ、約束された嗣業が永遠に確定する現れの時が、御国の完成の時です。
今は命がキリストのうちに隠されています。しかし、契約の完成の時に、眠った者の復活が起こり、命が現されます。これが終末の復活です。
パウロは、この時を「朽ちるものが朽ちないものに変えられる」と語りました(Ⅰコリント15章)。
復活の時は、御国の完成──契約の完成の時であり、主イエスが再び来られる時です。
その時、嗣業が確定します。また、その時は、花嫁にとって整えられた時であり、迎えの時です。
御霊による聖めと保証されたものの完成の時です。御霊は「保証」として今すでに与えられていますが(エペソ1:13~14、ローマ8:23)、保証が「実現」するのは来臨の時──契約の完成の時です。
地上の結婚制度は嗣業保持の型でしたが、終末の婚姻は「御霊による嗣業の完成」を示します。
それらは、待ち望む主の来臨の時の光景です。
主の愛のしもべのうちに、キリストの内に隠されている命が、キリスト御自身の命の輝きとして、存在そのものの本質として表れ、神の愛が――主の栄光として顕れるときを主が見届けておられることを黙想します。神の民の残りの者の悔い改め、命に預かることが神の民の復活であるなら、神の愛のしもべの復活の姿は、主の教会の中にキリストが完全に表れる栄光の輝きの中で見出すことができるものでもあります。御霊により保証された子としての姿の中に、証印のゆえに明らかとされていく愛の形も神の命の表れとして見られることになります。来臨の時の花嫁の完成を主御自身がどのようなビジョンで描いておられるかについて、黙想の内に、キリストご自身の復活の命の表れを求めることは、主の誓願の祈りに応える待ち望む信仰であると思います。
20章は以上にしたいと思います。