― 聖餐 ―
主イエスは、最後の晩餐の時、語られました。
「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(ルカ22:16~18)
主は、杯を取り、皆で互いに分けて飲むように弟子たちに示されました。
それから、パンを取り、割いて与え、そのパンが「あなたがたのために与えられる、わたしのからだである」こと、食事の後、杯も「この杯が、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である」と示されました。
ルカの福音書だけが、過ぎ越しの食事の前に「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」と語られたことを記しています。杯の前に語られた、「今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とのみ言葉は全ての共観福音書が記しました。
共観福音書には次のように記されています。
それから、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイ26:27-30)
また、杯を取り、感謝の祈りを捧げた後、彼らに与えられ、彼らは皆その杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」(マルコ14:23-26)
過ぎ越しの食事は、主イエスご自身が過ぎ越しの子羊の本体であり、イスラエルに神が永遠の定めとして主の贖いの約束をイスラエルの中に証を保つよう命じられたものです。出エジプトの霊的本体としてキリストご自身の時を示したものでした。奴隷の地エジプトから連れ出されるとき、子羊の血によって裁きを免れ、初子の贖いとなりました。(出エジプト記12章)
この「今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とのみ言葉について、心に留めたいと思います。
神の国で過ぎ越しが成就する日とは、何を指すのでしょうか。過ぎ越しは、出エジプトの脱出の場面ですから、主の十字架の死によって、罪と死の解放を受け、キリストに導かれる場面として、十字架の時、死と復活の初臨の主の完了された業の中に、神の国の過ぎ越しを見ることができます。
そのため、ルカの福音書の最初の言葉は、主の十字架の死と復活後において、その時は来ていると理解することも可能かもしれません。しかし、杯の時は、「神の国が来る時までは」と言われました。神の国について、弟子たちは復活後の主に「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と尋ねました。(使徒1:6)
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒1:7)
「神の国が来る時」である「その日」は、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」(マタイ26:29)であり、「神の国で新しく飲むその日」(マルコ14:25)です。
そして、共通している言葉は「ぶどうの実から作られたものを飲まない」です。ぶどう酒を断つことは、誓願を思わせます。この言葉はナジル人の誓願に関することばとして黙想できます。主は御国の完成まで、ぶどうの実を口にしないと誓われました。御国が来るまでぶどうの実でつくったものを二度と飲まないという約束は、主ご自身の差し迫った贖いの犠牲に心を注いでおられる証拠です。犠牲の子羊としての使命を果たすための主の全き献身への表明でもあります。
主のみことばに、どのような御心が秘められているのでしょうか。「ぶどうの実を口にしない」という誓願のフレーズは、士師記13章のサムソンの記事に関するマノアの誓願の場面において最も一致した特徴を思い起こすことができます。
「ぶどうの木からできる物はいっさい食べてはならない。」(士師記13:14)
マノアは御使いの言葉を受け、子(サムソン)が「ナジル人」として生まれることを誓願しました。彼は「子が生まれるなら、どう育てるべきか」と問い、御使いは誓願の内容について示しました。マノアが主に捧げものを願ったとき、主は「主に捧げる全焼の犠牲をささげよ」と導きます。全焼の犠牲は、誓願の保証として置かれました。その時、主(御使い)は炎の中に天に昇って行かれ、マノアは「主を見た」と恐れました。
この出来事が何を黙示するものであるかについて、御国を求める士師達の時代の信仰の出来事を通して終末的なメッセージをとらえたいと思います。御使いの証と姿の中に、込められているメッセージは何か。御使いはなぜ全焼の生贄を通して、炎の中で天に昇る主の姿として示されるのか。士師サムソンのペリシテからイスラエルを救う歴史は神の永遠のご計画に対して何を啓示するものであるのかを。
サムソンは、神の聖別によってイスラエルを救うものとして遣わされ、メシアの型のようでもあり、一方で肉の人のようでした。このように不完全なキリストの似姿は、未完成のまだ肉の人のようであるかのような主のしもべを思わせます。しかし、彼はイスラエルを救う遣わされた者です。キリストの似姿であり、人の肉の強さ(霊的弱さ)と神からの力(御霊の強さ)を併せ持っていました。彼は、自分の思うように生きているように見える面がありましたが、救いのためにはいつも死に物狂いで全力でした。最後には盲目のものとなり、自分の命と引き換えに敵を道連れにして滅ぼし、イスラエルに敵の支配からの救いをもたらしました。
士師記はカナン征服の場面で描かれる信仰の歩みであるため、サムソンはキリストご自身の型というよりも、御国の完成に関する終末の救い・御国の戦いに関する教会の型のように見えます。そして、ナジル人の誓願が彼にかかわっていました。その誓願の中に保たれているときにのみ神の霊と力がありました。主は、誓願の保証としてマノアに現れられた時、主の姿を全焼のいけにえの天に昇る炎の中にご自身の姿を示されました。これは、誓願の持っている誓いの行く先が、神のかたちとしてどのように表れるのかを示唆します。
先に黙想した携挙と全焼のいけにえ、世の贖いのための供えとなる姿がここにも表れています。整えられた愛の主のしもべの献身、世の救いのための祈りの内実をもって、全き従順のうちに神に全焼のいけにえが(いけにえとして)ささげられ、天に上げられる主の教会は、(挙げられた炎の中で)贖いの愛の主と同じ姿をあらわすものとされている、そのような光景を主の使いのしるしの中に誓願の保証として見ることができます。
サムソンとは、カナンの地での敵からの解放、民の安息のために遣わされた士師です。つまり霊的には御国の完成のためのこの世における主ご自身(主の教会)の働きを悟らせる物語です。サムソンは最終的には整えられ、イスラエルの敵を滅ぼす、神の国の勝利のために犠牲をもって完遂しました。はじめは肉に属するかのような者でしたが最後には盲目の者として霊の目が開かれています。
このようにサムソンを教会の型としてみたとき、はじめて、彼が誓願の子であることの意味――全焼のいけにえに炎の中に昇られる主の御姿、また誓願の子サムソンの犠牲とイスラエルの救いの物語の中に、主御自身の御国を求められた誓いと神のしもべである主の花嫁なる教会が誓願の子として祈られている世の証しの意味とを黙想することができるのではないでしょうか。
誓願について、同じ士師記に、御国(の完成)を求める信仰の勇者エフタの記事がありました。士師記11章で、エフタの娘は父の誓願のために自らをささげ、山々を巡って嘆きました。山は聖書で「神の国の中心」「主の臨在の場」を象徴します。嘆きは「肉の終わり」として世の栄光を退け、この世界に身を置くものとして生きるのではなく、誓願の完成へと備える歩みです。その姿は、神と共に生きる祈りの人の像を映し出しています。
この姿は、挙げられた7代目のエノクの歩みにも象徴的類似点があると受け止められます。またこれは、終末に臨む、目を覚ます祈りとも関係します。
この誓願は父エフタにとって、イスラエルの救いのために必要とされた犠牲でした。そのとき救いと同時に大いなる嘆きがイスラエル(エフタ)に起こりました。エフタの娘もまた、花嫁の完成の型、自らを犠牲として誓願を全うする姿は、教会が花嫁として整えられる型とも黙想できます。
ここで思い起こされるのは、ヘブル人への手紙がエフタを「信仰の勇者」と呼んでいることです。人身犠牲を否まれる主ご自身が、彼を信仰の勇者として扱うのには本来違和感があります。しかしそれは、ヘブル人への手紙が、彼の失敗に目を留めないこととして扱っているのではなく、不完全な人間を通して終末的救いの型を示す神の啓示として、深い意味が関連付けられているからなのではないかと受け止められます。
エフタの娘は処女であり婚期を控えた女でした。しかし、彼女の夫となるべく者は地上には定められていませんでした。娘の全焼の犠牲は、主の花嫁の型として御国の完成を待ち望む教会に残された黙示とも考えられ、エフタの不完全さの行為の先に「終末的教会の型」が隠されているように思われます。彼は愛する娘を捧げる嘆きの人でしたが、その行為の背後には、信仰によって御国の完成に関する残れる者の救いのために、神が備えた供えが啓示されていたのではないでしょうか。「娘の犠牲=花嫁の型」「誓願=終末的完成」と捉えるなら、不完全な人間を通して終末的救いの型が示されたことの深い意味と、私たちがこの物語から受け取るべき真理が、今もなお私たちに残されているように思います。
彼女は全焼のいけにえとなり、神のみ前に捧げられたのでした。
携挙は「誓願の答え」として、花嫁が主に迎えられる時として、また、全焼の炎に登る主の姿は、花嫁の携挙の黙示的型として重ねられます。
これらの神のしるし、そしてナジル人の誓願に「ぶどうの実でつくったものをのまない」というフレーズがあることを思えば、晩餐の席で主が語られたみ言葉の思いの中に、天の御国の完成を待たれる主ご自身の誓願としてとらえることができます。ナジル人とは、「聖別する」「分離する」という原語 נָזַר(ナーザル)による、「聖別された者」「ささげられた者」という意味の言葉です。
この誓願の祈りと花嫁の整えについては、すでにルツ記の学びの中で黙想しました。ルツがボアズに迎えられる場面は、花嫁が整えられ、御国の婚宴に招かれる型として示されています。ここで改めて、その学びを重ね合わせたいと思います。
主のことばは、私たちの罪の赦し、贖いのためキリストが私たちのいのちをご自身のものと一つとするために、全身全霊で、ご自身を捧げておらたことの御姿を示すものでもあります。主は御父のみ旨に全き従順を示され、命を捨てるまでに罪の世 (初子である弟子たち) の贖いのために犠牲となられます。ご自身をお与えになることへの完全な表明、決定、また、完成に至る救いの礎の証であり、主はご自身をきよめ別たれたのです。それは、すべてのキリストの成し遂げられる御業が、贖いを通して成就されることを示します。この世界の贖いの完成、御国が来ることは、キリストの十字架の御業に人が与ることをすべてとする、その到達地点を示しています。
さらに、主の言葉は、主ご自身が御国の完成を待ち望んでおられるという、誓願にかたどられる表明として受け止められます。パンと杯は、地上における神の国の写しとして、教会が主の来臨まで記念し続ける証しとして与えられました。主が「わたしを覚えてこれを行いなさい」との証を「主が来られるまで」保ちます。(Ⅰコリント11:23~26)
この誓願の祈りと並んで心に留めたいのは、ヨハネ17章で主が祈られた「彼らを真理によって聖別してください。あなたの言葉は真理です」という祈りです。
主は十字架に向かう直前に、弟子たちが世に遣わされつつも神に属する者として整えられるように祈られました。ここでの「聖別」とは、罪から離れることというより、神の目的のために分けて用いられることを意味します。主ご自身も「彼らのために自分を聖別する」と祈られました。十字架の献身そのものが聖別の中心であり、誓願の完成の姿なのです。主はご自身を全焼のいけにえのように父にささげ、炎の中に昇る御姿を示された士師記のしるしを成就されました。弟子たちもまた、真理によって聖別され、遣わされた者・主に結ばれる花嫁として整えられる道を歩むように祈られたのです。
誓願と聖別、十字架と花嫁の整えは同じ霊的な領域です。主の誓願は御国の完成を待つものであると同時に、主の教会が真理によって聖別され、花嫁として備えられることを求める祈りでもあると受け止められます。
「主が来られるまで」とは終末の来臨です。終わりの日に向かって花嫁なる教会の応答について何が求められているのか考えさせられます。
主ご自身は「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証しされ、それから終わりが来ます。」(マタイ24:14)と示されました。終末の到来は、主の愛において福音が全世界に宣べ伝えられることによって成就するのです。この福音を全世界に証しする使命こそ、花嫁なる教会に委ねられています。
そしてその宣教は、パウロが「注ぎの供え物」と語ったように、キリストの全焼のいけにえに根ざした犠牲の証しです。特に、終末の完成においては、花嫁なる教会がキリストに倣い、その似姿として栄光を完全に反映する存在となり、世の命のための献身をもって雲の中に携え上げられるのです。それは、全焼の煙が天に立ち上り誓願の保証として神の姿を現したように、教会が雲の中に上げられ、神に受け入れられる終局的な贖いの場面です。
黙示録19章では、「花嫁は整えられた」とあり、教会は受動的な救いの時を待つのではなく、愛によって自らを捧げる応答的な贖いの働きに与かることを意味します。
愛によって応答する主のしもべが、神の愛においてキリストと同じ御姿とされる一人の完成した人としての共有の完成を待っておられるともいえます。その共有は主と私たちとの共有であると同時に、主の愛における兄弟姉妹とのいのち(愛)の共有、究極的には残れる者を愛する主のみ旨に従って罪の世とのいのちの共有(へりくだり)の姿において、キリストご自身の姿を反映します。
御国が来るときは、花婿にとって、完全に清く美しい者、花婿にふさわしい者として、傷なく立たせられ、整えられた存在として、待ち望まれた花嫁を、完成の迎えの時とされることが分かっています(エペソ 5:25~27、コロサイ 1:22、黙示録 19:7~8、黙示録 21:2)。
終わりの日、教会は花嫁として整えられ、主の愛に応答して自らを世に捧げる者となる――自分の十字架を負って私についてくるものでなければ、私の弟子になることはできない。と主は言われました。
主はご自身をお与えになり贖いとなられるときに、ゲッセマネの園で祈られました。主は弟子たちに「わたしと一緒に祈っていなさい」と求められました。三度もです。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」主の祈りは、贖いのためにご自身を捧げられるようとする中でその「終わりの日の祈り」をしておられ、主はいつも、弟子たちに「終わりの日には目を覚まして祈る」ことを求められました。
その祈りが何に向かうものであるかはキリストご自身の御姿に学びます。
「私をあなたの右に」と求めたとき、「私の受けるバプテスマを受け、私の飲む杯を飲めるか」と問われました。神の命の交わりを前にして、兄弟の汚れを帯びたその足を洗う愛は贖いを前にした主のとられた態度でした。そして、それは、私たちに求められた主の模範です。
人の権利としては、罪の隣人、罪の兄弟との共有・赦しを選ばないことも主張できます。しかし、「わたしはそのために来た」といって、ご自分を与えて、その愛の交わりに私たちを迎えられたのでした。
私たちは私たちに罪を表す者、役に立たないもの、負債を負わせる者に対して、その者を拒む権利を有していると考えがちです(マタイ18:23~35、マタイ20:1~16、ルカ15:11~32、ルカ23:39~43)。しかし、この世はいかにして贖われるでしょうか。救われ得ない者がどうして救われるのでしょうか。キリストがご自分をお捨てになったのでなければ、私たちは救われないのです。
罪人を受け入れる、弱いものと共有することは、自分自身を損なうことになるではないか、と、ルツ記では、名もない親戚がルツの贖いを拒みました(ルツ記4章1~8節)。私たちがまだ罪びとであったとき、主は罪の世にある私たちに神の愛を示されました(ローマ人への手紙 5章8節、ヨハネの手紙Ⅰ4:9~10)。私たちを受け入れてご自身をお捧げ下さるのでなかったら、私たちは救われないのです。
主の祈りを祈るその応答の先に、主が待ち望んでおられる「その日」――「御国の完成」と、「共に杯を新しく飲む日」が主御自身によって置かれています。キリストが愛によって贖いを成し遂げたように、終わりの日には教会が愛によって応答し、みこころが完成するのだと信じます。
「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)
この「主が来られるときまで」という言葉は、教会が花嫁として整えられ、主に迎えられるその日を定めており、その時まで、忠実に待ち望む姿勢を表しています。パンと杯の証は、キリストの真実を証しし、主の祈りに基づいてそれをアーメンであると告白する者の「誓い」と「待望」のしるしといえるものです。主の杯は、「その日まで」主がご自身を父の右の御座で控えておられる中での誓願であり、教会はその誓願に応答して、忠実に、愛をもって整えられていくのです。
黙示録22章の「花嫁と御霊が言う、『来てください』」という祈りと重ねてみると、主の誓願の杯と教会の応答が、どれほど深く結ばれているかが見えてきます。
花嫁を主が迎えられるその日。なぜ、御国のその日はいまなお到来していないのでしょうか。今にいたるまで、贖われた者たち(神の教会)のそのいのちが、神の光を完全に映し出す程にはきよめられていないために、主がいまなお誓願なさるほどに、私たちに神の愛の心の全うを待っておられるのでしょうか。その日が遅く感じられるのは、贖われた者たちのいのちが、まだ神の光を完全に映すほど整えられていないからなのでしょうか。
黙示録19:7には 「小羊の婚宴が来て、花嫁は用意ができた。」とあります。婚宴は「花嫁が整えられた」そのときに始まっています。主は「その日」を誓願の祈りのうちに、花嫁なる教会が神の愛に応答して整えられるのを待っておられます。
神の光を映すには足りない私たちに、なおも慈しみ深く「整えられる時」を与えておられる (サムソンの記事を思います)ように思います。愛のかたちのあらわれを主は待ち望まれています。そして、今、私たちは地上で主を待ち望んでいる。これらは、まだ整えられていないことの嘆きであると同時に、整えの只中を歩んでいる証でもあります。待ち望みつつ整えられるのです。
主は、「その日」を知りつつも、私たちの歩みの先に、その日を忍耐して見出しておられるのです。「神の光を完全に反映するほどには清められていない」現実は、教会の告白すべき悔い改めであると同時に、希望のかたちをした祈りと言えます。主は私たちにその完全さを不完全な心のままで強いてはおられず、愛による応答の成熟を、花婿として誓願の祈りをもって待っておられるからです。このことは、教会が一人の成熟した人として主の姿に似せられ形作られていくビジョン、完成を主が待ち望まれているビジョン、また御国の完成のビジョンとも同義です。そして、この完成の鍵こそ愛です。
「エルサレムの娘たちよ、お願いです。愛が目覚めたいと思う時までは、それを呼び起こしたり、かき立てたりしないでください。」- 雅歌8:4
同様に雅歌2:7、3:5と繰り返されます。愛は強制されるものではなく、自由な応答として目覚めるべきものであるという主のみ旨があらわされており、主が愛する者の愛を待っておられます。終末の読み方においては、主が愛する者のうちに主の愛の内実が呼び覚まされること・整えられることを待っておられるともいえると思います。
雅歌5:2では、花婿が戸を叩くが花嫁がすぐに応じないという描写があり、今に至るまで、教会は、そのようにして主に「愛の応答を待たれて」います。
整えられた花嫁を主が迎えられるその日、主の杯は新しく飲まれ、いのちの水は尽きることなく流れ、光を反射する都のように、贖われた者たちが神の顔を映す存在となる。キリストの愛の御姿は花嫁と一つとされているからです。
パンと杯。主の誓願のなかに宿る深い愛と、今なお整えられていく花嫁の道が、私たちの地上の歩みのただ中にあります。主が「その日まで」と誓願されたぶどうの実の杯について、御国の完成を待っているという現実があります。しかし、一方で、主の集会のまじわりの中では、その日を先取りするように、パンと杯が御国のものとして味わわれている ―― この逆説のように感じられる構図の中で、私たちは主の思いを受け止めます。
主が語られた「新しく飲むその日まで」は、教会を花嫁として迎える婚宴の完成の時を指しています。しかし、教会は神の愛の成就の場として、また、互いに赦しあい、神の贖われたいのちの中に互いを負い合う御国の交わりとして、主の杯を「空のまま」記念するのではなく、神の国のしるしとして、あなた方の罪を赦すために流されたキリストの血を新しい契約として覚えつつ、いのちの交わりのうちに味わっているのです。
兄弟姉妹が愛において一つとなるとき、その交わりの場には、天の御国の光景が映し出され、そこには、キリストの(贖いの愛の)栄光があるのです。主の愛がその場に淀みなく、濁りなく、すきとおって、私たちの命として流れるとき、人々はパンと杯の交わりを証しする主のしもべたちのうちにキリストの姿を見るようになります。
世は、彼らの交わりのうちにキリストの栄光を見る。これはまさに、主が弟子たちに残した祈りの成就です。
「彼らが完全に一つとなるためです。そうすれば、あなたがわたしを遣わされたことを世が知るようになります」(ヨハネ17:23)。
交わりの家が、主の杯を分かち合いながらも、時に痛みや断絶を経験してしまうことを、主は誰よりもご存知です。罪人であるがゆえに、汚れた足のものが愛の交わりの食卓に着こうとします。あの兄弟あの姉妹だけではなく、私自身を含めてそうなのです。私たちはそこに、罪びとを咎める生まれながらの性質を有しており、汚れに触れたくない清い自負心があります。キリストと同じ愛となっていない私たちの心のうちに、すでに私たちの穢れがあらわになっているにもかかわらずです。その交わりは主の命の表れではありません。
しかし、はじめから、主の唯一のみこころは私たちに与えられています。主が私たちに何を求められたかは、ただ、一つのことでした。そして、私たちが一つのものとされるとき、教会はその証を世に保ち、神の愛が世に対して実行されます。神が愛しておられる世が救われるためです。キリストが御国の完成を待ち望まれたように、世が贖われる主の日を主は定めておられ、私たちが整えられる日を待っておられます。
主は天の御座で、私たちとの新たに飲むその日までは杯を飲まずに、愛の完成を、待たれます。交わりの場に注ぎ出されるご自身のいのちのすきとおる純真さ、透明さを、待っておられるのだと思います。
聖餐とは、キリストの愛と赦しを中心にして交わり直し続けることの営みであり、そのたびに、主がご自身の誓願を思い起こしてくださっているのだとすれば、主の心を知るが故に悔い改めて、主の足元にひれ伏すよりほかありません。
この黙想を深めていくと、礼拝行為としての聖餐の先に、神の教会の共同体そのものが、主の杯に応答する「生ける場」であるという神のみ旨が、示されていくように思います。