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聖書研究会・学び |
| ルカの福音書1章 御国の完成に関する黙想 ― 預言の成就と留保、沈黙と回復に見る終末の希望 ― 鈴ヶ峰キリスト福音館 ルカの福音書1章 ルカの福音書1章から瞑想したい。 御使いのことばとその成就・とどまり 御使いガブリエルの預言は、マラキ書4:5–6の成就を示し、終わりの日の悔い改めに関するものとして理解できる。 御使いはザカリヤに「あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」と告げました(ルカ1:13)。この預言は、しばらくして忠実に成就しました(1:57–63)。ザカリヤは疑いの中で応答しました。これによって、彼は口がきけなくなります(1:20)。この「沈黙」は罰としてではなく、神の言葉の重みと、信仰の応答の重要性を示す啓示的なものと思います。神の約束が果たされ、これに信仰によって応答するまで、その口に証しが封じられています。これは、終わりの日に神の業(預言の実際)が現れるまで神の救いの約束の証は沈黙が保たれ、その時が来れば明らかにされる預言の型とも読めます。 ザカリヤの沈黙の意味 ザカリヤの沈黙は、神の言葉に対する人間の戸惑いと不信の象徴であると同時に、神の恩寵の中で、み言葉を受けた神の民の、み言葉の成就を待つ者へと変えられる神の待たれる時を示しています。彼は沈黙の中で神のご計画を黙想し、やがて主の命じられた通り「ヨハネ」と名づけることで信仰を表明し、口が開かれます(1:64)。このことを通して、回復された信仰が、神の民のうちに主の言葉の回復をもたらす、神の哀れみを示します。 ヨハネに関する主の言葉と民の応答 主イエスは後に、「「女から生まれた者の中でヨハネよりもすぐれた者はいない。しかし、天の御国では最も小さい者も彼よりすぐれている。…彼こそ来るべきエリヤである(もしあなたがたがそれを受け入れるなら)」(ルカ7:28)と語られました。 しかし、民の多くは彼の証しを受け入れず、神の御心を拒みました(7:30)。これは、民の受け入れによって、その預言の「完成」に至ることを暗示しており、御使いの預言が完全に成就するには、民の悔い改めという応答が必要であることを示しています。御使いの預言が成就する過程で、人間の自由意志がどのように関与するかを示す重要な点です。 御使いの預言の行き先 御使いの預言は、ヨハネの誕生だけを告げるものではなく、神の救いの歴史の転換点を告げるものです。ザカリヤの沈黙から開かれた預言(ベネディクトゥス)には、「主の契約の憐れみ」「贖いの角」「光が死の陰に座す者たちを照らす」という終末的語彙が多く含まれています。 ヨハネは「主の前に先立って行き、その道を備える者」として、旧約と新約をつなぐ預言的存在です(1:17)。その預言は、やがて来られるメシアの道を整える使命へと向かっていきます。民が「悔い改め」を通してこの光を受け入れるかどうかが、預言の完成の時を決定する鍵となります。 この章は、神の言葉がどれほど確かでありながらも、人間の応答によってその現れ方が変わるという、神の主権と人間の応答の関係性を示しています。 マタイ11:14で主は語られました。「もしあなたがたが受け入れるなら、彼こそ来るべきエリヤである。」 この、「受け入れるなら」という条件がついているのはなぜでしょうか。 「預言は語られたが、受け入れられなかったため、その成就は保留された。」 預言の成就と人間の自由意志 神の預言は確かでありながら、その現れ方や時の満ち方には人間の応答が関与するという、聖書全体に流れる霊的な現実がここにあります。ヨハネは「エリヤの霊と力をもって」来た(ルカ1:17)とされており、実際にその使命を果たすために遣わされました。しかし、民が彼を受け入れなかったことにより、その働きは部分的にしかその時代には表されなかったとも言えます。 「受け入れるなら」は裁きと恵みの分岐点 この条件は、神の国の到来が人々の信仰と悔い改めにかかっていることを示しています。もしイスラエルがヨハネを「来るべきエリヤ」として受け入れていたなら、メシアの王国的支配がその時に始まっていた可能性も示唆されます。しかし、拒絶されたことにより、御民に対する神の国の成就は延期され、異邦人の道が開かれたとも言えます。しかし、主が否まれ、捨てられ、苦難を経て、救いが異邦人に及ぶという、神の時を主御自身が知られなかったわけではありません。それは、すべての人(救いを受ける人と拒む人)に語られる宣教のメッセージの本質と同義です。すべての人が救われることが主の御旨だからです。 終末的な再来の予兆 興味深いのは、黙示録11章に登場する「ふたりの証人」が、エリヤのような働きをする者として描かれている点です。これは、終わりの日に再び「エリヤ的な働き」が現れることを示唆しており、マラキの預言が最終的に完全に成就するのは、キリストの再臨に先立つ時であるとも解釈できます。 ヨハネの宣教の逆説 ヨハネはヘブライ語で神は恵み「ヨーハーナーン」です。 さらに、ヨハネの宣教の特徴には、エリヤ的な不思議な奇跡(カルメル山で火を呼び下すような奇跡)を起こしませんでした。彼の宣教には、超自然的現象はなく、ただひとつ「荒野で叫ぶ声」として、悔い改めと洗礼を通して人々の心を整える務めに徹しました。「エリヤの力と霊」として象徴されるような表層はありませんでした。 この逆説的な事柄 (パラドクス) についても注意が必要です。 ザカリヤの沈黙は、神の言葉が人間の不信によって一時的に封じられるという霊的現実を映し出しつつ、やがて「ヨハネ」と名づけることで信仰を表明し、口が開かれるという成就のしるしへと転じます。ここには、イスラエルの悔い改めが預言の成就に至らせるものであることを暗示しており、主イエスも「あなたがたが『主の御名によって来られる方に祝福あれ』と言う時まで、わたしを見ることはない」(マタイ23:39)と語られました。イスラエルの民の悔い改めが、メシアの来臨と預言の成就の完成を導くという終末の構図です。黙示録11章の「ふたりの証人」や、マラキ書の「大いなる恐るべき日」の前に遣わされるエリヤの預言は、ヨハネの使命が終末において再び現れることを示唆しています。つまり、御使いの預言は、初臨において成就し、なお一部がとどめられ、再臨において完全に成就するという二重構造を持っていると思います。 そのよう捉えるならば、ヨハネの宣教の「裁きのトーン」は、ザカリヤの沈黙と回復、ヨハネの名の意味とその働き、そしてイスラエルの応答の遅れ——これらすべてが、イスラエルの霊的状態、この時代とその時代への神の証とを啓示的に表現しているのではないでしょうか。 ヨハネは、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と証しした人物です(ヨハネ1:29)。それにもかかわらず、獄中で彼は問いを発します。「来るべき方はあなたですか、それとも他の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:3) イエスをメシアと知りながら、獄中でメシア像と現実のギャップに直面した義人の葛藤です。彼が理解していたのは、裁きと解放をもたらすメシア預言において知られている御姿であったかと思います。しかし、現実の主イエスの働きは、暴虐が増すばかりの世にさばきがなされないものでした。神の使命である働きが阻害され、何のための働きともいえぬ有様の中で、神の忠実なしもべが世をただすばかりか働きがとどめられ、沈黙させられている。 問うヨハネに対して、主の応答のことばは、苦難の下僕のキリストの預言の成就でした。主イエスとヨハネの場面は常に義人の苦難がこの世を贖う神の義の実現を指し示しました。主はイザヤの預言の成就を語られました(マタイ11:4–5)「目の見えない者が見え、足の不自由な者が歩き…貧しい者に福音が告げ知らされている。」(マタイ11:5)。これはイザヤ書の「苦難のしもべ」の預言(イザヤ35:5–6、61:1)の成就を示すものでした。 さらに、より深くはイザヤ53章——苦難のしもべの姿です。「彼は私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平和をもたらし、その打ち傷によって私たちは癒された。」(イザヤ53:5) 主イエスは、罪びとへの裁きではなく、自らが裂かれることによってこの世に神の義を示すとヨハネに告げておられたのです。 この場面は、ヨハネという義人が理解を超えた神の計らいに出会い、苦しみの中で啓示を受け取った瞬間でもあります。彼は、世を贖うのが世に対する「神の裁きの剣」ではなく、「苦しみを担う主の傷」であることを主ご自身のことばによって聴き取ったのです。 そして、それこそ、御霊によって証しされた「世の罪を除く神の小羊」の真の姿、バプテスマを受けられたことに対する主の言葉の元来の意味(すべての正しいことを実現することは私たちに相応しい)でした。 主が水から上がられたとき、天から「これはわたしの愛する子」との声を聴きました(マタイ3:17)。この表現は、創世記22章で神がアブラハムに語られた「あなたの愛しているひとり子イサク」とのフレーズで語られる原語的表現です。ヨハネはこの声を聴きました。そして、アブラハムの献げ物「神の備え(ヤーウェ・イルエ)」としての子羊が、今まさに彼の前で実現しようとしていることを、聖霊により預言して、証人として見届けたのです。そこに、「世の罪を取り除く神の小羊」を見出し、ご自身が苦しみを引き受ける贖いによって果たされる神の義の完成がありました。 主は、裁きを待ち望む預言者や聖なる国民の期待に、人の望んだように応えるのではなく、「苦しみを受けることによって義とされる」父のお示しになった贖いの道を選ばれました。 「彼は私たちのそむきのために刺し通され…その打ち傷によって、私たちは癒された」(イザヤ53:5) このヨハネが真理に至る経緯は、ザカリヤの沈黙の黙示やニコデモの問い(「イスラエルの新生を期待しつつも在りうべからざるユダヤ教の中で、どうして人は再び生まれうるか?」と問い、主から十字架の成就によって、人はただ人の子の苦難を経た業・神の御霊によって「上から生まれる」ことを示されたことにも通じます。)と重なり、神の義がどのように現れるかという福音の逆説の中心に立っています。 義人の苦難と神の義の啓示 ヨハネの苦難、主イエスの沈黙、そして十字架へと向かう歩みは、この世の不条理の中で神の義がどのように現れるかを示しています。義人が苦しむことは、神が不在であることの証ではなく、むしろ神の義がこの世の不義を贖うために働いているしるしでした。 パウロも「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)と語ります。義人の苦難は、神の義の実現の場であり、贖いの道筋でした。 この視点から見ると、ヨハネの問いは、神の義の深みに導かれるための問いであったとも言えます。そして、その記事が置かれたことのゆえに、信仰者である読者をも導いているのです。 この流れの中で、主が「わたしにつまずかない者は幸いである」と語られたことの意味を受け止め、神の業に与るものとなりますように。 「神は恵み」という名を冠しつつも、厳しい裁きの言葉(「斧はすでに木の根元に」や「焼き尽くされる」といった裁きの調子を帯びていた(ルカ3:9))を語ったヨハネ。そして、義人としてメシアの道を整える彼自身が、「来るべき方はあなたですか」と牢で問い直さねばならなかった——その出来事の背後にあるのは、まさに初臨のキリストの神のみ旨が人の理解を超えていたという事実です。悔い改めなければ恵みが開かれないという霊的宣教の使命を背負いながらも、語り手本人がその全貌をまだ知らない姿でもあります。 ヨハネの葛藤は、彼の混乱や弱さとして覚えるべきものではなく、神の御心の深遠さのゆえに、預言者自身がすべてを把握することができない逆説の黙示です。そのギャップの中に、神の義が人の思いを超えて展開していく神の御計画が示されていきます。 神のことばと人間の受けとめの間にある「啓示の深さと人の理解の限界」がありますが、その中に神の栄光(贖いの神の愛と神の義)が示されたのをヨハネは見ました。 ヨハネの問い(マタイ11:3)に対して、主はイザヤ53章の響きをもって答え、「裁きによる義」ではなく「小羊の苦難による贖い」が、神の義の現れであることを示されました。ヨハネはこの答えの中で、神のご計画の全容が見えていなかった自らに、神のご計画の深みに触れることになります。かつて、ザカリヤの沈黙は、信仰が整うまで語ることが封じられ、民の応答がないとき、預言は留保されました(マタイ11:17)。しかし、ザカリヤが「この子はヨハネ(神は恵み)」と名を記すとき、沈黙は解かれ、預言の実際が始まります。神の約束が公に証しされるとき、沈黙が破られるという終末的な啓示です。 ヨハネの名に込められた「神の恵み」が、応答の拒否 (「この時代の者たちを何にたとえようか。広場にすわって、仲間に呼びかけている子どもたちのようだ。『笛を吹いたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ったのに、悲しまなかった。』」マタイ11章16–17節) によって届かないまま、その時代はそのまま取り残されます。み使いの言葉は沈黙の中に置かれ、信仰による応答によってその証しが地に現れる時を待つものとなります。 ザカリヤもニコデモも、イスラエルの希望に身を置きつつ、神の語りかけに戸惑った義人でした。そして、両者に見られる「疑い」は不信仰というだけではなく、長年待ち望んだ救いが、自分の理解を超えたかたちで現れることへの驚きと不信であり、それは神の敬虔の奥義に関する無理解でした。 そのギャップが、ヨハネの名とその宣教の証においても現れ、その時代は、彼は受け入れられず、神の恵みが差し出されながらも、民の側が応じないことによって覆いが与えられなかった痛みの姿があります。(「エルサレムよ…めんどりが雛を羽の下に集めるように、わたしは何度、あなたの子らを集めようとしたことか。それなのに、あなたがたは応じようとしなかった。」ルカ13:34) この姿の中に、ヨハネがその名(恵み)のようにしてではなく、裁きのことばで宣教を語り、聞き入れなかったとするその時代となったことが証しされるように思います。その恵みの応答の拒否が、ザカリヤが語ることをとどめられたように証しの沈黙として表れ、主の日の完成を遅らせるものとなりました。 やがて、終末には、贖いの動機が「律法の義務」ではなく「余すことなき愛」によってなされたことを示す型である、神の教会・花嫁の行為によって、世が贖われる構図が描かれることになります。 ルツ記で学んだように、終わりの日に教会が贖いを待ち望むこの世と一体となり、贖われる者のうめきに自らを重ねて主の足元に伏す姿が現れる——それが迎え入れる花婿にとっての整えられた花嫁の応答であり、「その日まで杯を飲まない」主の誓願に応える道筋です。 ルカ1章は主の到来を告げる場面でありながら、キリストの誕生だけで読み切るには余白が残された章です。むしろ、そこにはイスラエルの救いの完成、終末的成就に向けた霊的な約束が随所に織り込まれていることを心にとめるものとなります。 ザカリヤの預言歌とヨハネの使命 続いて、ザカリヤの預言の賛歌(ルカ1:67–79)を手がかりに、ヨハネの使命とイスラエルの悔い改めとの関係を深めてみます。 ●ヨハネに関する預言の要点(76–79節) • 76節:「幼子よ、あなたは、いと高き方の預言者と呼ばれる」 → ヨハネはメシアに先立ち、その道を備える者。 ●預言の成就とイスラエルの応答 • ヨハネは「主の道を備える者」として遣わされたが、民の悔い改めは限定的だった(ルカ7:30)。 神のビジョンと応答の構造 ルカ1章における御使いの言葉を凝縮すると、次のような神のビジョンが浮かび上がります。 【御使いの言葉の核心】(ルカ1:13–17) 【要点】 1. 神の恵みの名をもって裁きを語る者 ヨハネという名は「神は恵み」。しかし彼の語る言葉は「悔い改めなければ斧が木の根元に置かれている」という裁きの響きを持つ。 → 神の恵みは、悔い改めを通してのみ開かれるという神の義の構造を示す。しかし、その悔い改めへの招きは、義人の苦難が先行するという神の側の証しが介入している。 2. 預言の成就は人の応答にかかっている 御使いの言葉は確かであるが、ザカリヤの不信によって一時的に「沈黙」が与えられた。 → 信仰の応答が預言の進展を解き放つ。 3. ヨハネの使命は、イスラエルの悔い改めを通してメシアの道を整えること
しかし民の多くは彼を受け入れず、預言の成就は部分的にとどまった。 → 預言は保留され、終末的成就へと向かう。 4. 神のビジョン:悔い改めを通して整えられた民に、救い主が訪れる 御使いの言葉は、神の訪れの準備としての悔い改めの必要性を告げている。 → 神のビジョンは、恵みと義が実現したキリストの御業の中でその臨在の場において、キリストに来る(受け入れる)者に光が差し込む。 応答の拒否と預言の保留 恵みに応答することに関して、主は、「笛を吹いてもあなたがたは踊らなかった」と語られました(マタイ11:16–19)。これは、バプテスマのヨハネとご自身の働きに対する民の応答のなさを、たとえによって責められた言葉です。 「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。
『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』」(マタイ11:16–17) このたとえは、神からの呼びかけに対して、民がどちらにも応答しなかったことを示しています。 このように、神の恵みの呼びかけに対する応答の欠如が、預言の成就を一時的にとどめるという構図が、ここでも示されています。 このたとえの中に、ヨハネの名に込められた「神の恵み」が、その時代、応答の拒否によって届かないまま残される痛みがにじんでいます。恵みであるところのヨハネの証(その名)が、裁きとして神の宣告をした姿として映されます。この逆説は、恵みが実現しないこの時代に対して、終末的な真の慰めの時を持ち越す啓示として読み取れます。その時、ヨハネの名は「神は恵み」として、悔い改めの中で知られるのではないでしょうか。ヨハネの存在が証となり、その時代と来るべき時への啓示となっています。 もう少しわかりやすく言えば、ザカリヤの「おし」のエピソードは、単なる個人的な罰ではなく、神の約束が終わりの日に神の民に明らかにされるという霊的な予型として読むことができます。 同じように、ヨハネ自身のその名による証は、終わりの日に整えられた(悔い改めた)神の民に受け入れられるものとなるのではないでしょうか。 ザカリヤの「沈黙」と「名づけ」の黙示的意味(※補足1) ●沈黙の意味:証しが封じられる時 ●沈黙の終わり:名を「ヨハネ」とする時 ●終わりの日の型としての黙示 終末的成就とイスラエルの悔い改め この視点は、終末において実現する御国の完成を見届ける視座です。 (※補足1) ヨハネという名は「神は恵み」を意味します。しかし、その時代において彼の存在は、その名の通りに「恵み」として受け入れられたわけではありませんでした。 ●ヨハネ自身の理解 ●民の応答 このことは、ヨハネが「神は恵み」という名をもって遣わされていたのにもかかわらず、その時代、その名の通りに現れさたのだろうかという逆説的な疑問を提示します。 すなわち、ヨハネの名がその時代に十分に顕れなかったのは、民の拒否と応答の欠如によるものでした。しかし、終末において民が「恵み」に応答する時、ザカリヤの沈黙が解かれたように、証しが回復され、名がその通りに現れる、というビジョンです。 |