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聖書研究会 考察 |
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ルカの福音書 ―憐れみに照らされ、失われた最後のものを見出す花嫁の整え ― ルカの福音書15章 「女と十枚の銀貨」 1.
たとえの位置づけ ルカ15章は「失われた羊」「失われた銀貨」「放蕩息子」という三つのたとえで構成されています。その中心テーマは、「罪びとの一人が悔い改めるなら、天に大きな喜びがある」という主のみこころです。 「女と十枚の銀貨」のたとえは短いながらも、神の喜び・花嫁の整え・終末の完成を同時に映し出す黙示を含んでいると思います。 2.
文化的背景 ― 花嫁の飾り 古代ユダヤの婚姻文化では、花嫁は十枚の銀貨を飾りとして額に結び、花婿を迎える準備を整えていたと、言われています。 すると、この「十枚の銀貨を持っていた女」とは、花婿を迎える花嫁の姿を暗示しています。一枚を失うことは、花嫁の飾りが欠け、整えが不完全な状態であることを意味します。 3.
灯をともす ― 神の心を映す光 女は銀貨を失ったとき、まず「灯をともす」と記されています。 灯は、ルカ8章の「ともしびを隠さない」教えと同様、御霊の油によって燃える光であり、神の心を映す光です。それは「罪びとが悔い改めることを喜ばれる神の憐れみの心」を照らし出す光です。 この光に照らされて初めて、失われたものを探し出すことができます。 4.
家を掃く ― 憐れみによるきよめ 次に女は「家を掃き、注意深く探す」と語られます。 「掃く」とは、憐れみを妨げるものを取り除くきよめを意味します。家の中を掃除するたとえでも、悪霊を締め出されました。主イエスが宮を「強盗の巣」と呼ばれたときも、その働きを追い散らしました。神の家の中で、神の憐れみを阻害する者たち・強奪者が座を占めていたからです。 ルカ11章でパリサイ人に「内側は強奪と邪悪で満ちている」と語られ、「内にあるものを施しなさい。そうすればすべてが清い」と命じられたこととも通じます。 「いけにえよりも憐れみを好まれる」と語られた神の御心に従うとき、家は清められ、憐れみを阻害する心が神の御旨に整えられ、失われたものを探す場となります。 5.
女と銀貨の象徴 女=花嫁 この舞台となっている女は、花婿を迎えるために整えられる存在と考えられます。 十枚の銀貨とは、文化的な背景で読むと、花嫁の飾りと考えられます。これは、神の民の完全な姿、神の所有と嗣業を象徴したものとして捉えることもできます。 失われた一枚を、悔い改めを待つ魂――つまり失われた子(神の民イスラエル又は信仰から迷い出た者)の救いを求める熱心として。 一人の罪びとが悔い改めることを神は喜ばれる。 終末に関して捉えるなら、花嫁の整えの完成と、神の民の贖いとが結びついています。 6.
見つけた喜び ― 天と地の喜び 女が銀貨を見つけたとき、友人や近所の女たちを呼んで喜びます。 これは、悔い改めた一人の罪びとをめぐる天の喜びを映しています。 同時に、花嫁の飾りが整えられた喜び=終末の婚宴の前触れでもあります。 神の喜びと花嫁の完成は、同じ一点で結ばれています。 7.
終末的視座の統合 このたとえは二重の意味を同時に含みます。 ・純福音の視座 一人の罪びとが悔い改めるとき、天に大きな喜びがある。 神はその一人を見つけるまで探し続けられる。 ・終末の視座 花嫁の飾りが欠けなく整えられるまで、完成は訪れない。 失われた一枚は、イスラエルの回復をも象徴し、異邦人と共に「一人の新しい人」とされるとき、花嫁は完成する。 「失われた一枚を探し出す」ことは、個々の魂の救いの喜びであると同時に、終末における神の民全体の完成の喜びでもあるというものです。 「女と十枚の銀貨」のたとえは、神が罪びとの一人が悔い改めることをどれほど喜ばれるかというみこころを示しています。同時に、終末における花嫁の整えとイスラエルの回復という完成のビジョンを黙示しています。神の憐れみの光に照らされ、憐れみを妨げるものを取り除き、失われた一人が見出されるとき、天に大きな喜びがあり、花嫁は整えられ、救い(世の贖い)は完成へと至る、そのようなビジョンです。 この視座において、失われた羊 ―― 群れの完成を待つ愛も読み取れます。 羊飼いは百匹の羊のうち一匹を失うと、九十九匹を野に残してでも探しに行き、見つけると喜んで担いで帰ります。 この姿は、神が一人の罪びとを見捨てず、見つけ出すまで探し続けられる愛を示しています。 同時に、百という完全数の群れが一匹を欠いては完成しないように、神の民の完成は最後の一人が見出されるまで待たれていることを黙示しています。 兄息子に対しても、父の、憐れみに生きよ。との語りかけは、終末に響く主のみこころです。 このことに対する拒絶は、自己の義と報いを計算する者にとって、つまり、その心に強奪の霊を据えているものにとっては、困難なものです。主の心を心とするしもべは、そうであってはなりません。終わりの日に「さきのものがあとになり、あとのものがさきになる」という逆転の警告を主は肉において支配する座を望む弟子たちにしばしば語られました。 主イエスが罪びとや取税人を受け入れられたことに対して、パリサイ人や律法学者がつぶやいた。そのことに対して、主はそのつぶやきに応えるように、三つの物語を通して、「罪びとの一人が悔い改めるなら、天に大きな喜びがある」という神の心を示されました。 ・神は失われた一人を探し出し、悔い改めを喜ばれる。 ・その喜びに共に加わる心こそ、神の愛と憐れみを受け入れる心であり、父の家に入る者の姿である。 ・招きは、ただ神の憐れみであり、悔い改めとは憐れみを受けとること。神の民の失われたいのちに対して、神の憐れみに立ち会い、その喜びに共に生きること。 ――それこそが父の家に入る者の姿であり、終末に花婿を迎える花嫁の整えなのです。 以上にしたいと思います。 |