鈴ヶ峰 キリスト 福音館

聖書研究会 考察
20251010

ルカの福音書

御国の完成に関する黙想

―憐れみに生きる者、永遠の住まいに迎えられる者

 

ルカの福音書16

T. 上正な管理人の譬え

 

 ルカ16章の冒頭には、上正な管理人の譬えが語られています。ここでは、地上の富をどのように用いるかが問われます。地上の富は一時的なものであり、それを用いて「永遠の住まい」に備えることが求められます。

小さなことに忠実であること、誠実であることが重ねて示され、最後に「神と富に兼ね仕えることはできない」とのみことばが結ばれます。

このみことばの中で、地上のものに心を奪われるのではなく、与えられたものを憐れみのために用いる者として、永遠に向かう歩みへと整えられていくよう招かれています。

 

律法と預言者はヨハネまで、そして離婚に関するみことばへ 

 

その直後、パリサイ人に向けて、「律法と預言者はヨハネまで」「御国は宣べ伝えられ、人々は力づくで入ろうとしている」と語られます。さらに続けて「妻を離縁して他の女と結婚する者は姦淫を犯す」というみことばが置かれます。一見すると唐突で文脈から逸脱しているように見えますが、ここでは、御国に入る者の心の姿勢、契約への忠実さが改めて問われています。外側の成功や地上の富の扱いだけでなく、神との契約に対する内側の誠実が重要なのです。

 

バビロン帰還と神との契約(エズラ記・ネヘミヤ記)

 

イスラエルの民がバビロンから帰還したとき、契約の再確認が求められました。エズラ記とネヘミヤ記には、異邦人との結婚問題が記されています。ネヘミヤ13章では異邦人との結婚を厳しく断罪し、強制的な離婚が命じられました。エズラ910章では、民が自発的に悔い改め、異邦人の妻と子を離別する決断を下しました。これは契約の純粋性を守り、神殿共同体を整えるためであり、御国の秩序と律法の回復を目指した歩みでした。御国建設における「契約の再構築」という象徴的な働きとして受け止められます。

 

契約の回帰と離縁禁止の関係

 

その一方で、ルカ16章の離縁に関するみことばは、ネヘミヤの行動と矛盾するように見える面があります。表面的には「離婚を命じた過去」と「離婚を禁じるみことば」が対立しているように見えます。現代の倫理からは、ネヘミヤの行動は強制的で憐れみに欠けるように映るかもしれません。しかし、ネヘミヤの働きが契約共同体の外側を守る準備であったのに対し、ルカ16章では契約を軽んじる心の上忠実さが問題にされています。両者は、神との契約に向かう内側の姿勢を求めるという一点で結ばれます。

 

憐れみの視座と外的整えの限界

 

憐れみの観点から見ると、ネヘミヤの行動には距離があるように感じられます。個々の心の悔い改めや憐れみによる回復の余地がほとんど見られません。外側の秩序の整えは必要でしたが、それだけでは上十分であり、内側の悔い改めへ向かう道がなお残されていました。ここで、ネヘミヤの働きは「外的な整えの限界」を示すものとして受け止められます。必要な段階ではありますが、御国の完成には届いていません。ルカ15章の父の憐れみ、ルカ14章の婚宴の招き、ルカ11章の探し続ける祈りは、外側の整えを越えて、心の整えと憐れみによる一致へ進む本体として示されます。

 

「上正な富で友を作れ」──地上の富と永遠の住まい

 

「上正な富で友を作れ。そうすれば、あなたがたが乏しくなったとき、彼らは永遠の住まいに迎えてくれる」とのみことばが語られます。地上の富は一時的なものであり、負債の減免は憐れみによる関係の再構築です。そこで結ばれる友情は地上の取引ではなく、永遠に向かう温かな受け入れ(乏しくなったときに迎え入れてくれる、永遠の住まいに通じる憐みの応答に紐づく受け入れ) へと続きます。ここでは、財産、能力、機会など、あらゆる地上的な事柄を御国建設のために用いるよう招かれます。

 

捕囚帰還と物質援助──エズラ記との関係

 

この点で、エズラ記の捕囚帰還と物質援助が思い起こされます。ペルシャ王クロスの命令により、金銀・器具・供え物などが与えられ、神殿再建のために持ち帰られました。アルタシャスタ王は、神殿のために必要な物資を惜しみなく提供する勅令を発しました。「銀は百タラントまで、小麦は百コルまで、ぶどう酒は百バテまで、油も百バテまで、塩は制限なし」と記されます。異邦の王でありながら、神の家のために富を提供する器となったことは、地上の富が御国のために用いられるしるしです。

 

ルカ16章の上正な管理人の譬えに重ねると、地上の富は借り物であり、一時的なものです。それを神の憐れみに用いることで、建てられた御国、すなわち永遠の住まいに迎えられる居場所が設けられます。かつて、異邦の王が銀・麦・油・ぶどう酒・塩を惜しみなく供給したことは、「この世の子らが永遠のために賢くある」姿として学ぶべき教訓でもあります。「御国のために、この世の富で、憐れみにおいて、永遠を据えよ」と受け取ることができます。

 

外側の準備と内側の命──エゼキエル37章「枯れた骨の幻」

 

「一次的、外的な御国のための働きは、捕囚帰還時に整えられた」と言えます。神殿の再建、律法の回復、契約共同体の純化は、御国の外側の骨組みを整える働きでした。異邦の王の援助も、神の目的のために用いられた「借り物の富」でした。しかし、それ自体が完成ではありません。婚姻についても同様で、神との契約への回帰は外側の秩序の整えであり、心の一致には至っていません。

ここで、エゼキエル37章の「枯れた骨の幻」を思い起こします。骨が集まり、筋・肉・皮膚が覆われても、息がなければ生きていません。息とは神の霊であり、創世記の初めに土のちりに息が吹き込まれた出来事の再現です。捕囚帰還は骨が集まるように外側が整えられた出来事でした。契約への回帰は筋や皮膚が覆うように共同体の形が整えられたことでした。しかし、息、すなわち霊的な命が吹き込まれなければ、御国の成就には至りません。

 

主イエスによる霊の吹き込みと御国の成就

 

主イエスは、死んだ民に霊を吹き込み、新しい命を与えられました。ヨハネ20章で弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われ、ペンテコステでは聖霊が降りました。これは「骨に息が入る」出来事として受け止められます。歴史的成就としての捕囚帰還(一次的)、初臨における霊の吹き込み(中間的)、そして最後の復活と御国の完成(究極的)。いずれにせよ、最終的にすべてを生かすのは神の憐れみの息です。「神は、すべての人を上従順の中に閉じ込められました。それは、すべての人をあわれむためだったのです。」とローマ11章に記されています。

 

 

U. 金持ちとラザロ

永遠の隔たりと憐れみによって迎えられる者

 

つづいて、金持ちとラザロの譬えに入ります。ここでは」富の用い方」と「憐れみの欠如」が永遠の行方を決定することが示されます。上正な管理人の譬えで学ぶのは」地上の富を憐れみによって用いる」ことです。金持ちとラザロの譬えで示されるのは「憐れみを欠いた富の用い方」が永遠の隔たりを生むことです。

金持ちは紫の衣と細布をまとい、毎日宴楽を楽しみました。これは、律法と契約の恵みを享受する立場を表しながらも、貧しい者を顧みない姿です。彼は死後、深淵で憐れみを求めましたが、「モーセと預言者に耳を傾けなかった者は、死人の中からよみがえっても信じない」と告げられます。これは、キリストの復活に対する上信の警告としても受け止められます。

 

ラザロには吊が与えられています。「神は助けたもう」という意味を持ち、神に覚えられている者のしるしです。門前に置かれ、犬が傷をなめるほどに弱い者でしたが、死後にはアブラハムの懐に迎えられました。異邦人や小さき者、憐れみによって受け入れられる者の姿です。

 

二つの譬えの関係──囲い込む者と開く者

 

上正な管理人の譬えと金持ちとラザロの譬えは、互いに補い合います。前者は富を憐れみに用いる道を教え、後者は憐れみを欠いた富の用い方の結末を示します。イスラエルが契約の富(神の啓示)を囲い込み、異邦人や貧しい者・小さい者を拒むなら黄泉に沈みます。憐れみによって用いるなら、共に永遠の住まいに迎えられます。ここで主イエスは、富そのものを責めておられるのではなく、富をどのような心で用いるかを問うておられます。憐れみに生きるなら、永遠の住まいに迎えられます。憐れみを欠くなら、憐れみのないところに落ちる。その厳しさと慈しみが、ここに語られています。

 

二つの譬えの関係──民族的な視点と終末の問い

 

この譬えは、民族的な逆転を語るだけでなく、教会の敬虔が、憐れみによって整えられているかをも問うています。

主イエスは、富そのものを責めておられるのではありません。

問われているのは、富をどのような心で用いるか。みことばをどのような心で受け止めているか、礼拝をどのような心で捧げているか、隣人をどのような心で迎えているか――そのすべてに通じる問いです。

 

永遠の住まいに迎えられる者とは

 

「永遠の住まいに迎えられる」とは、神の家に入れられるということです。

契約を受け継ぐ者として、神の憐れみによって受け入れられる者の姿です。

ラザロは、何も持っていませんでした。しかし、神に覚えられ、憐れみを受けました。

金持ちは、すべてを持っていました。しかし、憐れみを欠いていた。その隔たりは、富のゆえではなく、心の姿勢によって生まれたものでした。

 

ここまでの流れを通して、地上の富を用いて永遠に備えること、契約に忠実であること、心の内側で憐れみに生きることが求められていると受け取ることができます。

共同体の地上の秩序・制度・枠組・奉仕など、機能するために必要な外側の整えは体を保つものです。しかし、それだけでは命が宿りません。

 

最終的に生かすのは、神の憐れみのゆえに吹きかけられるいのちの息です。

与えられたもののなかで、憐れみに生き、みことばに応答して歩む者は、父のおられる場所――父のみ住まいに迎えられます。そしてその住まいは、神の心でもある、憐れみに満ちた場所です。

 

この譬えは、地上の富を憐れみに用いる者が、永遠の住まいに迎えられるというメッセージです。

初臨において、イスラエルの中から出た弟子たちが、異邦人に憐れみを示した姿は、譬えの象徴的実現の一端とも読めます。管理人が負債者に減免を与える姿と重なり、憐れみによって結ばれる関係を示します。

終末において、神の民イスラエルは乏しいものとされており、憐れみを必要としています。霊的に砕かれたものを、教会が憐れみによって迎える器となりえます。

祝宴の喜びのある神の住まいに迎えられるとき、その一致と喜びは、永遠の主の愛の実としてあらわされ、憐れみを喜ぶ場でもあります。

さらに、この譬えは神の国の福音を憐れみの視座で考察する中で、逆の立ち位置からも黙想されうる可能性を残しています。終わりの日に背教が進む中、教会全体というよりもむしろ、砕かれた者、神の御心にかなう者たちが残されるという黙示があるとすれば、彼らが地上の富を憐れみに用い、命の働きを担う中で、イスラエルの救いの達成の日に、主の住まいで共に永遠に喜ぶ者として迎えられるという、神の憐れみの深さと、御国の完成を思いめぐらす黙想となります。 

 

 

御国の完成に関する黙想 補章

― ラザロと金持ち──イスラエル共同体の分裂と終末の回復 ―

 

序:黙想

 

ルカ16章に記された「上正な管理人」と「ラザロと金持ち」の二つの譬えは、地上の富と神の契約に対する信実、憐れみの実践と御国の完成という主題を一貫して描いています。

本章まとめを踏まえつつ、補章ではルカ16章の譬えを象徴的・預言的黙想として受け止める試みを記します。この黙想は、聖書本文の直接的意味を踏まえつつ、象徴的理解により読み解くものであり、断定するものではなく終末に臨む神の憐れみに生きることへの祈りのうちに捉える視座です。

 

ラザロという吊に込められた象徴

 

この譬え話に登場する「ラザロ」という吊は、ヘブライ語で「エルアザル(神は助けたもう)」を意味し、神に覚えられている者の象徴として心に留めたいと思います。

マルタとマリヤの兄弟ラザロも、主の声によって死者の中からよみがえらされました。

また、エルアザルという吊自体は、まずアロンの子エルアザルを最初に思い描くに違いありません。出エジプトの民の第二世代がカナンに入った際、最初の大祭司として立てられたのもエルアザルです。彼によってイスラエルは嗣業の地を割り当てられ、御国の型としての勝利を経験しました。彼の務めは大祭司であり、民を神の前に取りなすものでした。

イスラエルは本来、祝福の基として召された民であり、世界を神の教えの下に整える使命を持っていました。

しかし、歴史を通して偶像崇拝に堕ち、病み、貧しくなり、証しを保てずに、異邦人からは神の祝福をなじられ、死んだ者のように捨てられ、事実死んでしまいました。

ラザロの姿は、そうしたイスラエルの霊的状態を映し出しているように見えます。

それでも、彼は神に覚えられていました。

彼は自分の貧しいことを知っています。自分が病的なものであることを知っていました。この小さきものが、神の憐れみを受けたいと願う祈りは、神の前に覚えられていました。主が彼の吊を知っているということは、彼の祈りにおいて、主の前に自分を置いていたからです。憐れみを求める祈りをした彼は、死後アブラハムの懐に迎えられます。

これは、キリストに望みを抱いた者の象徴とも受け取れます。慰めは、神の憐れみによる応答であり、地上の行いによる報酬ではありません。

 

同じ共同体の中にある隔たり

 

ラザロと金持ちは、同じ契約の民の中にありながら、心の姿勢によって分かたれた者たちです。

金持ちは、律法と預言者を持ちながら憐れみを欠き、深淵で苦しみます。

彼の姿は、共同体としてキリストを拒絶したイスラエルの象徴としても読めます。

両者の間には大きな淵があり、自らの力では越えることができません。

それは、憐れみを拒んだ者と、憐れみに応答した者との間に生じた霊的な断絶です。

この隔たりは、アブラハムでさえ越えることができないと語られています。

アブラハムは信仰の父であり、律法以前の義の象徴であるが、その義でさえ届かないということは、人間側の信仰の表明や悔い改めの決意が、もはや受け入れられる地点に至っていないことを示しているようにも思えます。

それは、主イエスが「光のある間に光を信じよ」と語られたにもかかわらず、そうしなかった結果としての霊的な絶望です。キリストの聖霊を冒涜したものが、赦されることのない永続的な霊的立ち位置が保持されたまま終末に臨んでいます。

悔い改めの形をしていても、神の前に自分を置く祈りに至らなければ、命の回復には至らないのです。

 

死者の中に置かれた証し

 

金持ちは「死人の中からよみがえった者があれば、信じるはずだ」と願います。

しかし、主は「モーセと預言者に耳を傾けない者は、死人の中からよみがえっても信じない」と告げられます。

これは、キリストの復活の証しが与えられても、信じない者がいることへの霊的警告です。

主は「この世代にはヨナのしるしのほかには与えられない」と語られました。

ヨナのしるしとは、死と復活の型であり、深淵に下った者が異邦人の中に現れ、悔い改めを引き起こすものです。

このみことばは、キリストの復活が異邦人に証され、彼らが信じることによって、ユダヤ人に妬みを起こすという、終末の憐れみの逆転の可能性を示唆しているように思えます。

 

この譬えの中では、その深淵は、金持ちたちが死者の復活を否定したまま「超えることはできないもの」として憐れみは閉ざされ、隠されたままです。ユダヤ教の指導者たち自ら、キリストの贖いの業を拒絶したことのゆえに、この光は彼らの中に隠されたままにされています。キリストは贖いの業の事実として、彼らの中に証しを残されました。しかし、彼ら自身がそれを自分たちの中から取り除いているために、憐れみは届かないのです。

キリストを拒絶し刺し殺した者としての悔いと嘆き、その責任を感じて深淵の苦しみをそれが自分の受ける分であると悟る終末の時まで、彼らはよみの深みに落ちています。ヨナはキリストの通られた苦難の道であると同時に、イスラエルそのものの、主を否定した罪の民の末路でもあります。深淵の中で、光は閉ざされたのです。

 

花嫁の証しと死者の回復

 

譬えは、ここまで閉じられています。

 

私たちはこれ以上のことをここで、解説することはできません。

しかし、神の憐れみの御計画を黙想することはできます。

 

終わりの日には、キリストの似姿と完全な写しとして、異邦人の花嫁(ルツ)がこの世界の中に置かれ、死者の傍らにいます。これは、別のみことばから展開される黙示です。

命を捨てるほどに愛する友となる彼女は、死者の中に捨て置かれたイスラエルと歩みを一つにし、キリストの死と復活を証しする最後の憐れみの器です。

これは、教会が苦難とへりくだりを通して、死者の中に証しを立てる姿として整えられる希望を示しています。

花嫁の証しによって、よみにある者が引き上げられる時が来るかもしれません。

 

よみの深みに堕ちたものに対する憐れみについては、永遠の神の御計画にゆだねられます。かつて、ヨセフを売った兄弟たちが貧困の中で主(ヨセフ)にパンを求めたとき、主は贖いの銀の杯を彼ら自身の中に隠され、彼ら自身を再び探り求められました。失われた贖いの業の証しはどのようにして彼らの中にもう一度隠されるのでしょうか。そして、どのようにして見出されるのでしょうか。この世にあって、隣人として置かれた証する者を通してキリストの憐れみの光が見いだされる、という時を、この譬えの続きに隠しておられるのかもしれません。

 

よみの苦しみはすでに2000年の時を超えようとしています。33晩大魚の腹の中にあって深淵の苦しみに置かれたように神の憐れみは隠されたままであり、しかし、隠されつつ、絶たれてはいません。金持ちは「父アブラハム様」と黄泉で言い、アブラハムは金持ちに「子よ」と語りました。この人もアブラハムの子でした。物語では彼の名はあらわされず、覚えられたものとしての立ち位置は示されません。ただ、針の穴を通る方がやさしいとさえ言われた、人には到底上可能な金持ちの救いが、主の贖いの大いなる日を前にした救いの最後の場面として19章でザアカイの記事が神の憐れみの奇跡として描かれています。主はそのとき、「この人もアブラハムの子なのですから」と彼の名を「覚えておられた」のでした。

 

ゼカリヤ預言にあるように、神がその日に「恵みと哀願の霊」を注がれるなら、悔い改めは受け入れられ、死者の中に命の息が吹き込まれることでしょう。

この証しは、裁きの前に響く最後の祈りとなり、花嫁の整えと重なっていきます。

それは、御国の完成に向かう、神の非常識なまでの贖いの愛の顕れです。

このようなメッセージは、聖書全体の流れ――創世から終末に至る神のご計画の深みを覚えるものです。

 

この補章は、ルカ16章の譬えを、イスラエルの召命・拒絶・死・そして花嫁による回復を預言的黙想により読み解くものです。

死者の中にあっても、神に覚えられていた者が慰めを受けるという。

そして、憐れみによって証しを立てる者が、死者の中に命の息を吹き込む神の業に立ち会うという、それが、御国の完成に向かう、神の憐れみの道です──そう受け止めることが許されるならば、です。

 

 

以上にしたいと思います。