鈴ヶ峰 キリスト 福音館

聖書研究会 考察
20251019

ルカの福音書

御国の完成に関する黙想

― 初臨から終末へ、御国の識別と応答 ―

 

ルカの福音書17

 

 

T. 神の国の本質──見える形では来ない

 

 ルカ17章に記された終末のみことばは、主の訪れを識別し、応答する者がどのように整えられていくか──その霊的姿勢を黙想のうちに受け止めたいと思います。

 

神の国は、目に見える外側の制度や地理的な領域として先立つ顕れではなく、霊的な識別によって主御自身の臨在にあるその御支配を御国の顕れとして受けとめるものです。

キリストの初臨の時、神の国はすでに「あなたがたの間に」来ていました。これは、主の臨在そのものとして来ていたことを示しています。キリストが彼らの間に立っていたにもかかわらず、ユダヤ教としてのイスラエル、つまりイスラエルの指導者たちの間では識別されませんでした。

 

このことは、いくつものみことばによって示されています。

 

ザカリヤは、バプテスマのヨハネ誕生の際に、神の国の到来を預言的に受け止めました。「主はその民を顧みて、贖いをなし…我らの足を平和の道に導く」(ルカ1:6879)と語り、「暗闇と死の陰に座していた者たちに光が差す」と宣言しました。これは、神の支配が始まる兆しとして、神の国がすでに胎動し、近づいていたことを示しています。

 

また、バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(ルカ3:26)と宣教し、「すべての者が神の救いを見る」(ルカ3:6)と語りました。これはイザヤ書40章からの引用であり、神の国の顕現が始まることを宣言するものでした。しかし、主の臨在はすでに始まっていたにもかかわらず、識別されなければ見えないものでした。

 

さらに、キリストは「エルサレムよ…私は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを集めようとしたことか」(ルカ13:34)と語られました。これは、神の国の憐れみと愛をもって民を集めようとされたにもかかわらず、彼らがそれを拒んだことを示しています。神の国は来ていたのに、拒絶された臨在であったのです。

 

また、キリストはナザレの会堂で「主の霊がわたしの上にある…貧しい人に福音を告げ知らせるために…今日、この聖書の言葉は、あなたがたが聞いたとおりに実現した」(ルカ4:1821)と宣言されました。これは、神の国の福音が今ここに実現したことを示しており、神の国は主のみことばと業の中で始まっていたことを意味します。

 

ヨハネの問いに対して、キリストは「目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き…貧しい人に福音が告げ知らされている」(ルカ7:22)と答えられました。これは、神の国のしるしがすでに現れていることを示しており、メシアの業によって神の国の臨在を証されたものです。

 

さらに、「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)と語られました。キリストの働きそのものが、神の国の力と支配の現れとなり、「神の指」すなわち神の直接的な介入と権威をもって主が働かれていたことを示しています。これは、神の国がすでに彼らの間に臨在していたことの証明です。

 

このように、キリストの初臨において、神の国は「神の指」「主のみことば(ダバル)」「憐れみの働き」によってすでに来ていました。しかし、それはへりくだった者・憐れみを求める者には見え、高ぶる者・強奪する者には隠された臨在でした。

 

キリストの初臨にユダヤに起こったことは、終末の「その日」においても同様です。その日にも、識別した者にだけ主の表れは明確に現れます。制度の中にいながら主の訪れを識別できない者と、制度の外に自らを置き主の招きに応答する者とが分かたれるのです

 

U. 弟子に対する学び──赦し・信仰・奉仕・憐れみ・感謝・識別

 

ルカ17章の前半では、報酬を求めない奉仕と、憐れみに応答する主に仕える者の姿勢が語られています。

「役に立たないしもべです。すべきことをしただけです」(17:10)というみことばは、一見すると厳しく響きますが、これは主が弟子たちの心の姿勢を整えるために語られた、憐れみの諭しです。

 

主は、報いを否定されているのではなく、報いを主に委ねる者として整えておられます。自己の義によって報いを得ようとする者は、他者を押しのけ、憐れみを退ける危険をはらみます。しかし、主の憐れみに応答し、主のみこころに従って仕える者は、報酬を引き換えにせず、主の徳を受け入れる器として整えられていきます。

これは、ルカ14章で主が語られた「末席に座る者が引き上げられる」学びで覚えました。

主の祝宴において、憐れみに応答する者が席を与えられ、報いは主の御旨によって与えられるのです。「こう言いなさい」と命じられたのは、心の姿勢を主の憐れみと一つとする仕える忠実な下部の霊性であり、この訓練は、終末に臨んで花嫁として整えられる者の備えでもあります。

 

「感謝して戻るサマリア人」(ルカ17:1119)は、象徴的な位置にある人物です。彼は神殿の制度の外にいた者であり、サマリア人として異端・混血・礼拝の中心から外れた存在でした。それにもかかわらず、主のみことばと憐れみに応答し、「戻ってくる」者、すなわち礼拝者として主に認められた者の象徴となっています。

他の9人は癒されたにもかかわらず、制度的義務(祭司に見せる)に従って進み続けました。しかし、サマリア人だけが、癒しの本質である主の憐れみに気づき、感謝して戻りました。彼は主の業(ダバル・みことば)を識別し、応答した者の象徴です。

主は彼に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ17:19)と語られました。サマリア人だけが、癒しの奥にある主の臨在と御支配に気付き、信仰によって応答したのです。これは、終末において識別された者にだけ語られる「その日」の姿と一致しています。

 

制度の中にいた者たちは、主のみことばに応答せず、識別しませんでした。これは、終末において「畑に行った者」「牛を試す者」「婚宴を拒んだ者」と同じ態度でもあります。真に迎える者、宴に応じる者は、制度の中にではなく、主の終末の言葉に応答する者たちです。

この内容は、ルカ17章全体にわたって、主の花嫁の態度として表れています。

 

V. 終末的識別──「その日」に備える者

 

「その日」まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりし、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりしていました(ルカ17:27, 28)。この表現に使われている単語は、御国の活動領域で語られる言葉でもあります。また、王の祝宴の招きを無視した者たちの活動に酷似しています。

 

「畑へ」「商売へ」「牛を買ったので」「結婚したので」──それらはいずれも大切にすべき事柄ですが、王の言葉・招きに応じない理由となってしまっています。霊的識別において、畑はこの世界であり、宣教活動の舞台でもあります。商売も、銀の売買を為す贖いのなされる場面です。五くびきの牛を買ったのを見に行かねばならないというのも、制度と運営秩序のための責任を象徴しています。妻を迎えたことも、家庭の事情であり、組織的つながりを理由として招きに応じられないことを示しています。

 

これらはすべて、宗教的に正当化された「招きの拒絶」の象徴です。外的には整えられた制度の中に身を置きながら、信仰的に見える者たちが、実は招きを拒む構造が露わになっています。「畑」「牛」「結婚」などは、宗教的務め・教会的責任・制度的正しさの象徴でもあります。しかし、それらが主の御旨への応答を妨げ、拒絶するなら、それは偽善と背教の舞台となってしまいます。

 

「彼らは神を知っていると言いながら、行いでは否定している」(テトス1:16

「敬虔の形はあるが、その実を否定している」(2テモテ3:5

 

真に応答する者は、「通りや小道」にいた者たちです(マタイ22:9、ルカ14:21)。彼らは制度の外にいた者たちであり、ちょうどルカ17章の「感謝して戻ったサマリア人」のような存在です。

 

「稲妻のように現れる」主の顕現は、霊的に備えられた者にだけ見えるものです。「後ろを振り返るな」「屋上から降りるな」という言葉には、即時の識別と応答が描かれています。

 

「一人は取られ、一人は残される」(ルカ17:3436)という言葉は、識別の有無による分離が起こることを示しています。同様の御言葉は、「婚宴に入った者と、外に追い出された者」(マタイ22章)、「油を備えた者と、備えなかった者」(マタイ25章)にも表れています。識別と応答によって、終末に明確な分離が起こることが示されているのです。

 

W. 宗教界の構造と花嫁の整え

 

キリストの初臨の時、ユダヤは制度の中で主の訪れを見失い、主の訪れを拒んだ宗教界の象徴でした。彼らは外的には整っていましたが、霊的には識別できず、神の命の息が流れていませんでした。神殿は壮麗に建てられ、律法は守られ、祭司制度は機能していました。しかし、主の訪れを識別できず、主の憐れみを拒絶したのです(ヨハネ1:11、ルカ19:44)。

 

ユダヤの宗教界は、主のことばを拒み、裁きの対象となりました。「白く塗った墓」「蛇の子」「神の国を閉ざす者たち」(マタイ23章)という言葉は、主が制度の中にいた者たちに向けて語られた厳しい警告です。

 

一方で、主のみことばに応答したのは、宗教的中心から遠く離れた場所にいた者たちでした──羊飼い、サマリア人、アンナ、シメオン、東方の博士。彼らは制度の外にありながら、霊的識別によって主に応答した者たちです。終末において「山に逃れる者」「小道にいた者」「眠らず備えていた者」の象徴でもあります。また憐れみによって迎えられたのは、取税人、罪びと、遊女、病人、悪霊につかれた者、貧しい者、漁師たち、取るに足りないと見下されていた女や子供たちでした。

 

終末の宗教界としての教会も、地上に愛が見られるか問われる時代の中で、愛が冷え、制度の中で眠ってしまう霊的状態を再演することになります。黙示録の最後の教会であるラオデキヤ教会は、「熱くも冷たくもない」状態で、主に「吐き出す」と言われる存在となっています(黙示録3:16)。外的秩序にとどまっていた教会が自己の満たしのみを尊び、「愛の冷めた世界」の一部となってしまっているのです。

 

しかし、その中にも、主のみことばに応答する者たちがいます。真の花嫁は、制度の外──すなわち山(主の臨在とみことばに応答する場所であり、真の神を礼拝する場所)に逃れ、主の忠実な愛に応答して整えられる者たちです。彼らはいつでも祈りのうちに待ち望む者であり、制度の中に安心を見出すのではなく、主の御旨に応答する者です。

 

ユダヤにいる人々は、宗教的制度・伝統・秩序や人間的正しさに依存する人たちです。終末においては、制度や見える秩序にとどまることに安心を見出す者は、霊的危機を招くことになります。

 

このことは、歴史的・民族的警告として語られたものとしても軽んじられるべきではありません。しかし、主の御言葉の本意は、キリストにあるすべての人に語られた終末のメッセージとして受け止めるべきであることは疑いようがありません。

時代区分的な読み方において、イスラエル民族に限定された歴史的・地理的メッセージを主軸として捉える傾向がありますが、主の御言葉の本意を退けないよう、真っ直ぐに主の言葉に聞かなければなりません。

花嫁は、自らを整え、白い衣(義の行い)を着ている存在です(黙示録19:78)。これは、識別・応答・奉仕・憐れみ・感謝によって整えられた者たちの象徴です。

 

その日には、制度の中と外、眠る者と目覚めた者、拒絶と応答が明確に分かれる時となります。そのとき、キリストの顕現の時は、眠った者には識別されません。しかし、「花嫁は用意ができていた」(黙示録19:7)、「新しいエルサレムが、花嫁のように整えられて降りてきた」(黙示録21:2)とあるように、識別した者たちは主の忠実な愛によって整えられ、御国の完成に与る終わりの時を迎えるのです。

 

X. 統合・分離・完成の地点

 

終末とは、初臨・教会時代・そして世の贖いの最終段階が結ばれる時であり、そのすべてが、主の訪れを見分け、応答する者によって完成に至る地点です。

 

この終末の中で、主に知られる者と、知られない者、主を認識する者と、認識しない者とが分離されます。そして、主に応答した者は、迎えられる花嫁として整えられ、完成に至ります。

初臨から続いてきた、御国に対する拒絶と応答という霊的な流れは、終末において歴史的にも霊的にも一つに結ばれます。

神の国の成就と花嫁の整えへと至るその時──それが憐れみによって結ばれる完成の時、終末の祈りが向かう地点であると受け止められます。

 

以上にしたいと思います。