鈴ヶ峰 キリスト 福音館

聖書研究会 考察
20251026

ルカの福音書

御国の完成に関する黙想

― 神の義を祈り続ける終末のやもめと義の実現である愛の形  

 

 

ルカの福音書18

 

─やもめと不正な裁判官の譬え─

 ルカ18章のやもめと不正な裁判官の譬えでは、やもめの姿から「主が求められる祈りを保つ信仰」が教えられています。

終末において、「やもめ」の問題が取り上げられる世界が主の目に存在していると受け取ることができます。

 

「彼女は心の中で言う、『私は女王として座しており、やもめではない。悲しみを知らない』」(黙示録18:7

 

ここには、背教者の言葉、偽善の宗教体制が、自立・支配・繁栄を誇り、主への恵みと依存とは関係のないところで立脚している姿が描かれています。

「やもめではない」とは、花婿を待ち望む心を否定し、自らを完成した者とする霊的傲慢の象徴です。そこには背教と偽善が満ちています。

 

かつて学んだルツ記の女たちは、やもめとして主に依存し、恵みと憐れみを求めて応答した者たちでした。ルツは、夫を失ったやもめとして、ナオミと共にベツレヘムに帰り、ボアズとの婚約に至りました。ナオミも、夫を失い、苦しみの中で主に立ち返り、養われ、導かれていきました。

終末に祈る者・信仰を抱く者の姿の中に、「やもめ」の姿があります。エルサレムの慰められることを待ち望んでいた女預言者アンナもまた然りです。

 

主は、パリサイ人に「パリサイ人たちもヨハネの弟子たちも断食するのになぜあなた方はしないのか。(飲んだり食べたりするのか)」(ルカ5:33)と問われました。そして、「花婿が一緒にいるのにどうして断食するだろうか。人の子が取り去られたそのときには断食する」と語られました。

 

ここには、主を待ち望む者の霊的立場がやもめのものであることが象徴的に示されています。主を待ち望む者は、「やもめのように」、主の日に臨んで、世にあっては制度の外に呼び出される者として立ちます。

都にとどまる者としてではなく、家の中に入る者としてでもなく、その時には外に呼び出される者として、主に真の礼拝を捧げ、御国の完成を求め、主の顕れを望んで、祈り続ける者です。

初代教会時代の主のしもべたちも、ユダヤの裁きの時にそのように召されました。そしてまた、そのイスラエルを通してなされた証しを経て、世の贖いを前にした終末の教えが語られるのだと思います。

 

ルカ18章の「やもめの祈り」は、こうして主を待ち望む者の祈りのテーマとなります。

やもめが裁判で求めたものは、不正に対する「正しい裁き」でした。

 

「私の相手をさばいて、私を守ってください」(ルカ18:3

 

自分を苦しめる相手に対して「正しい裁き」を求め、不正な構造・抑圧・偽りに対する義の回復を叫びます。

世の終わりには、人々の愛が冷めていきます。宗教界も政治も冷えた制度・不法の増大による暴虐的なものとなります。主の日のユダヤの支配と世の暴虐・不義に対して、バプテスマのヨハネは訴えましたが、終末の義人も霊的訴えを為すのです。

 

やもめの祈りと叫びとは、義の実現、すなわち御国の正義の顕現を求めるものです。

物語では自己防衛を求めているように感じられるかもしれませんが、主が「失望してはならない」と教えられた祈りの信仰は、「義を行ってください」との訴えでした。神の国の義がこの地に現れることを求める祈りなのです。

やもめは、御国の義が現れることを、体制の外から不正な裁判官に、また上なる主の御支配を見上げて叫び求めています。

 

「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」(ルカ11:2)(マタイ6:10

 

主の教会は、「花婿を待つ花嫁」として描かれます(マタイ25章、黙示録19章)。

やもめは、夫(花婿)を失った者です。

不正な裁判官は「神を畏れず、人を人とも思わない」霊的にも倫理的にも死んだ制度の象徴かと思われます。しかし、宗教界または政治体制のこの現実に対して、なおも失望せずに叫び続けます。

不正に対する霊的訴えと、御国の義がこの地に現れることを求める祈り、花婿の表れと御支配を待ち望む花嫁の叫びでもあります。来臨を待ち望み、義をもって応答されることを求め続ける花嫁の霊的姿勢の学びがあるのだと思います。

 

「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ188節)

 

この「信仰」とは、信条や教義に基づく告白ではなく、神の国を求める霊的姿勢としての信仰、すなわち主への信頼のうちに、義の実現をあきらめずに祈り続ける信仰を指していると受け取ることができます。

「見いだされる信仰」とは何か。ルカ17章からの流れも受けています。「人の子が来るとき」「その日」に応答する者は、主を知り、主に知られ、整えられつつ、祈り続けていた者です。神の義の実現をあきらめずに求め続ける者がいるかという問いです。人々の愛が冷める終末には、義の回復も、世の贖いも、暴虐と不義の力により、期待する信仰がなくなり、祈りがむなしく感じられるかもしれません。しかし、祈りつつ失望に見舞われる終末の義人に対して、主は「私につまずかない(腹を立てない)ものは幸いです」(ルカ7:23)と御自身をお示しになられる方でした。

 

主を知る者の識別をもって終わりの日に臨み、神の国の到来を信じ、祈り、待ち望む信仰が求められています。だから、終末における信仰の希薄化と、それでもなお残される「からし種ほどの信仰」の力を深く結びつけ、この信仰の力を指して、「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があれば」御国に至らせる命の道を妨げる桑が「黄泉の底に投げ込まれる」と信じるなら、それは叶うのだ(ルカ17:6)、と示されたのだと思います。

やもめが「相手をさばいてください」と求めた祈りとその結果とは、そのような霊的象徴であると受け取ることができます。

終わりの日の愛の冷めた世界の中で、なお祈り、主の誠実を信じ、憐れみに応答する(いのちの回復を求める)者によって実現する、御国に至る命の道が開かれる神の力(救い)の表れです。

 

主は、「昼も夜も叫び求める選ばれた者たちのために、神は義を行われないでいられるだろうか」(ルカ18:7と語られました。

 

この「選ばれた者」=「選民」とも訳されています。原語の意味は、「選ばれた者たち κλεκτν(エクレクトン)」です。

ルカ18章では、「昼も夜も叫び求める者たち」に対して使われているため、制度的な民族的選びのことではなく、前後関係から祈りによって識別された者たち=花嫁の型、特に終末において義を信じて祈り続ける者たちの象徴と黙想することができます。

訳語で「選民」とされると、伝統的には民族的選びを指す理解に陥ります。

選ばれた者の語源構造は、「κ(外へ)」+「λέγω(呼ぶ・選ぶ)」=呼び出された者です。

教会・集会を κκλησία(エクレシア)といいますが、この場合、「κ(外へ)」+「καλέω(呼ぶ)」=呼び出された者たちの集まりとなります。

今回の「κλεκτός」は、エクレシア(召された者)の中でも、識別され応答した者=選ばれた者たちです。神の選びによって識別された者たちという意味です。このことが意味しているのは、終末において義を信じて祈り続ける者たちという意味であると受け止められます。霊的識別と召しにおいて洞察するなら、花婿の義に応答する花嫁の型――外に呼び出され、識別し、主の御声に応答する者たちです。

 

「多くの者が召されるが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14

この選ばれる者たちです。

κκλησία (エクレシア)」は、制度的教会を含みますが、終末においては眠る者と目覚める者が分かれます(マタイ25章)。

κλεκτός (エクレクトス)」は、目覚めて応答し、祈り続ける者=花嫁として整えられる者です。

 

そして、「昼も夜も叫び求める選ばれた者たちのために、神は義を行われる」(ルカ18:7

キリストが世に来て、バプテスマを受けられた道と通じるものがあります。

キリストの義は、世に義がない中で、裁きを御自身に負う苦難のしもべの道でした。御父が示された義の道筋です。それが花婿なる方の義の実現への祈りです。

義のないこの世界に対して、またユダヤに対して主は訴えられました。神の御国を説いて。

 

ルカ18章の盲人の癒し(3543節)は、癒しの奇跡・哀れみの記録としてだけではなく、終末において識別し、整えられた者が花婿の義の道に従う黙想的型として受け取ることができます。

「ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください」と、憐れみを呼び求め続ける祈りをしました。盲人は、制度の周縁に置かれながらも、主の通過を識別し、憐れみを叫び続けました。主の日の終わりに臨んでメシアの憐れみの裁きを信じて祈る者でした。

主は「何をしてほしいか」と問われ、盲人は「見えるようになりたい」と答えました。回復を求める祈りです。主は「あなたの【信仰】があなたを救った」と語られました。「彼はイエスに従った」。そして花婿の義の道へと与ります。その道は、エルサレムへの上り道、ゴルゴタへの道です。

 

憐れみによって目が見える者とされたことは、整えられた者としての花嫁の道です。その先には、キリストの十字架の御姿、贖いを仰ぎます。彼の歩みの先、憐れみを求める者、義を求める者の祈りの先に、目が開かれて見上げるキリストの御姿は、十字架の主――贖いの愛の御姿でした。

 

終末の祈りの向かう先に見えるキリストの御姿とは、似姿とされる主の教会である花嫁の行き着くところの愛の形を示すものです。これがルツ記の学びでした。

 

キリストが十字架で示された愛は、痛みと犠牲を伴う贖いの愛であり、裁きを身に負う義の実現でした。

 

ヨハネから受けられたバプテスマは、罪を身に負い、裁きをその身に受けて、神の義を実現する、義の道の始まりでした。

この世が罪深く、神の裁きに耐えられないために、義のない世界に対して御自身が裁きを身に負い、贖いの道を開かれる「花婿」の始動が、キリストが通られたヨハネのバプテスマでした。

そして、花嫁(主の教会)は、キリストの憐れみに応答し、御国の完成を求めて、この世に対する義を叫び続け、義の実現を祈り続け、キリストの贖いの愛の御姿と同じかたちを帯びる者として整えられていきます。

それは、義のない世界に対して祈り、主の憐れみを、それを受ける資格のないものと共に受け取り、憐れみを反映する愛のかたちとなって、花嫁のうちに主を顕すことです。

 

主を待つ終末のやもめは、暴虐と不義の世界で、なお、罪の世の贖いの祈りを、主の義の実現を信じる信仰によって訴えつづける、いつまでも廃れない信仰と希望と愛の人です。

 

 

 

 

 

§.補完

 

終末の御国の完成を求める祈りは、主の花嫁の整え――兄弟を愛する互いの愛のうちに、主のからだのひとりの人の完成を求める祈りとまったく同質の同一地点の信仰です。主の贖いの完成の時を示すからです。

 

 

ルカ18章には、このやもめの祈りと同じ視点で、もう一つの祈りの型として、パリサイ人と取税人の譬えに描かれているのをみることができます。

取税人は「神よ、罪人の私をあわれんでください」と祈り、自分の義に頼ることはできず、憐れみにすがる者として主に応答しました。これは、律法の外にある者が、主の義を信じて(義とされる願いをもって)祈る姿勢として、やもめの祈りと似た御国を求める者の姿があります。

 

また、幼子を祝福する場面では、「神の国はこのような者のものです」と語られました。

幼子のように主に依存し、信頼する者が、御国に入る者だからです。

やもめの祈りと同様に、宗教制度の外に(取るに足らないものとみなされて)置かれながらも、主にすがる(慈しみを受けたいとする)者の姿がここにも描かれています。

 

一方で、金持ちの役人は、すべてを捨てて従うことができませんでした。

財産にしがみつく姿は、制度の中に安住する者の象徴です。

これに対し、やもめは神ご自身から与えられる――すなわち尊い(善なる)主からの賜物としての裁定を叫び続け、主の義を求めます。

この義の実現を、主は「神にはできる」と語られ、義は人の力で果たされるものではなく、主の憐れみによって上から与えられる(神の良さからくる、すなわち憐れみによる)ものであることが示されています。