鈴ヶ峰 キリスト 福音館

聖書研究会 考察
20251031

ルカの福音書

御国の完成に関する黙想

―忠実な商いと都市の統治、終末の報いとさばきの光景―  

 

 

ルカの福音書19

─ミナのたとえ─

 ルカ19章の「ミナのたとえ」は、王位拒否と商売の命令が同時に語られることで、拒む者たちの裁きというユダヤで起きた出来事と終末の出来事とが多重的に浮かび上がります。そして、終末における主の王権と、しもべである主の教会の応答(忠実な商い)を霊的に示す教えとなっています。箴言31章に登場する商売する賢い女との関連性において、み言葉を覚えると、このしもべは終末の花嫁の型として黙想することとなります。

王位拒否(19:14)にある民の「この人が王になるのをわれわれは望まない」という言葉は、終末においてキリストの王権を拒む者たち、偽善と背教の霊的姦淫の女の象徴です。

商売命令(19:13)にある「これで商売をしなさい」という言葉は、花婿が人として地上に不在の間、花嫁(主の教会)が忠実に委ねられたものを用いて働く使命を帯びていることを示しています。王の不在期間とは、終末の教会時代において「拒む者たちの世界で、忠実に商いを続ける者」として描かれます。

箴言31章の「賢い女」は、夫の不在時に忠実に働き、家を整え、王の名誉を支える花嫁の型です。彼女は畑を買い、ぶどう園を設け、商人のように遠くから自由に出入りして食糧を運びます(31:1624)。家族を養い、灯を絶やさず(31:18)、夫は町の門で尊敬されます(31:23)。これは、ルカ19章の忠実な僕たちの姿と重なります。

この視座でルカ19章を黙想すると、忠実さの教訓だけではなく、終末における王権・拒絶・忠実・報いの学びであると受け止められます。

マタイ22章の王の披露宴の譬えでは、招かれていた者たちが拒みました。彼らは「畑に行き、商売に出かけた」(22:5)と記されています。これは、第一次ユダヤ宗教界における霊的拒否の姿です。「商売」とは、贖いの銀のやり取りをする場であり、救いや贖いを神の定められた時(主が来られる時まで)になす宣教の働きです。しかし、それを強盗の巣にして、神の招きよりも自分の営利のために売買をする偽善者も存在します。主が来られても主の御声に応じない背教の姿もあります。

それは、第一次のユダヤの舞台の出来事でした。初臨のユダヤでは、御国の鍵を持った者たちが、自分の畑として宗教的安定を優先し、独占した利得、そして強奪によって偽善と背教の姿がありました。

同時に終末の主の日にも、買ったり売ったりという商売の光景が描かれます。その時、主を認めない者は、主の招集に応じません。黙示録18章では、バビロンにおける商売の光景が描かれています。商人たちは地の大いなる者たちであり、彼女との売買によって富を得た(18:3)と記されています。これは、宗教・政治・経済が混合した終末の背教の世界の出来事です。そこでの「商売」で売買されているものには、人身の取引がなされ、売買のしるしとして魂の帰属が問われる、霊的売買が示されています。かつて、ローマ教会は救いを免罪符で売買し、聖書を独占し、祈りを置き換え、ユダヤにおける霊的偽善と強奪が、教会史において再び現れました。神の義の否定、主なる花婿の迎えを拒否する構造があります。「やもめではない」と言い張る淫婦バビロンは、花婿を拒む存在です。

しかし、主はこのたとえで、忠実に商売することをしもべに求められます。真逆の応答として、商売することが求められているのです。この売買とは、主の委託に応答する宣教的働きとして受け止められます。「これで商売をしなさい」(19:13)という命令への忠実は、主が王位を受けるために旅立つ間、忠実に働く主の花嫁の型です。

ここで、民が王となってほしくないという姿は何を示しているのでしょうか。しもべに求められたこの商売による体制、支配には旨味がない(快楽)という民の否定が表明されています。主の忠実なしもべは清い衣を着る存在です。しかし、否定する民は、背教体制が提供する快楽・安定・自己防衛に対して、罪の楽しみを選びます。主の委託によってなされた商い(いのちの福音)が“魅力的でない”と見なされるのです。そこに、姦淫の者たちは、肉の快楽の得られない欲を満たすことのない王権に対して、霊的拒否の姿勢を鮮明にします。

かつて王の招きを拒んだ民が行った「商売」も、神の名を用いながら神の義を否定する主の栄光ではなく、自らの繁栄を目的とした宗教的活動であり、主の招きに背を向ける霊的姿勢を表しました。

黙示録18章のバビロンでは、「商人たちが地の大いなる者となり、富を得た」と記されています。宗教的な形を取りながらも、快楽と罪の支配の中で民は「彼女の贅沢を共にした」ことで、霊的腐敗に陥ります。

民の否定の本質は、自らに繁栄と栄光を帰させない、快楽を与えない王に従いたくなかったのだと思います。しもべたちの「商売」によって主の証しがなされています。しかし、その証の中に、主の義の支配、憐れみの支配、愛の犠牲、契約への忠実さ、神の徳、罪の悔い改めが語られても、心を動かされることはなく、自分の築き上げた肉の財産、この世の塵だけが宝なのです。民は、贖いの愛よりも、即時的な快楽・安定・支配を好みます。これは、終末における識別の場──誰が花婿の義に応答するか──を私たちに示しています。背教の罪の闇(快楽)に留まるか、花婿の義(悔い改めと赦し)に応答するかです。

しもべが終末の世界でなされる経済活動は、箴言31章の「しっかりした女」「賢い女」のように、忠実な商いによって世界を開拓し、獲得し、主の支配権のもとに治めるような、敵の門を勝ち取る御国の戦いです。これは、主ご自身の宣教の業であり、霊的カナンの獲得を示す戦いです。

箴言31章の賢い女は、花嫁の型です。彼女は畑を考えて買い、ぶどう畑を設けます(31:16)。商人のように遠くから食糧を運び(31:14)、力と尊厳を身にまとい、後の日を笑っており(31:25)、夫は町の門で尊敬されています(31:23)。これは、夫(主)の王権を支える花嫁の忠実ないのちの宣教と御国の勝利の型です。彼女は、切り開き、獲得し、主の支配のもとに治める者となります。

ルカ19章のミナの譬えもまた、委託された商いです。「これで商売をしなさい」(19:13)という言葉は、主が王位を受けるために旅立つ間、忠実に命の働きをする者の型です。これは、御国の戦いであり、霊的領域の獲得と支配に関する事柄です。

御国の戦いは、敵の門を勝ち取る主の業です。アブラハムへの約束に「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」(創世記22:17)とあります。カナンの戦いは、約束の地の獲得であり、御国の支配権の実現をかたどるものでした。このたとえでは、花婿の義による支配の地を、主の教会が広げていきます。

箴言3110節の「しっかりした女」は、ヘブライ語で「エシェット・ハイル(אֵשֶׁת חַיִל)」と表される特別な語です。これはルツ記にも登場し、ルツやボアズに対して用いられた、霊的・道徳的・戦略的な力を備えた者を指す表現です。

「エシェット」は「女性・妻」、「ハイル」は「力・勇気・資産・軍勢・威厳・戦略的能力」などを含む多義語です。したがって「エシェット・ハイル」は、「力ある女」「勇敢な妻」「戦略的に整えられた花嫁」として理解されます。

ルツ記3:11では、ボアズがルツに「あなたはエシェット・ハイル(しっかりした女)として知られている」と語っています。これは、ルツが箴言31章の女の型であることを明示する言葉です。ルツ記2:1では、ボアズについても「ハイルのある人(イシュ・ハイル)」と記されています。つまり、花婿もまた力と義を備えた者として描かれています。この語は、花婿と花嫁の両方に用いられる霊的・戦略的整えの象徴語です。

箴言31章の女は、商売をし、家を整え、夫の名誉を支える者です。ルツは、モアブの女であったが契約の恵みを信じ、花婿の憐れみに与る者です。ボアズは、贖いの権利を持ち、契約に誠実で、憐れみと義をもって花嫁を迎える者です。

「エシェット・ハイル」は、終末において、夫にふさわしく整えられ、花婿のことば(業)に応答する花嫁の型を示す特別な表現です。これは、終末の宣教的働きを担う者の象徴語であり、「眠る教会」と「目覚めた花嫁」を分ける識別のことばです。終末的理解の鍵ともなる語です。
彼女は、残れる者の命の回復のために、自らの命を尽くして救いの働きを担います。すなわち、御国の戦いに参与し、敵の門を勝ち取る花嫁の型です。

王位を拒む民(19:14)と、商売を命じられた僕たち(19:13)が同時に描かれることで、花婿の王権に応答する花嫁の忠実さと、拒む者たちとの終末の分離について、教えられていることが明確となりました。

「商売」することは、主から委ねられた宣教の場であり、いのちの贖いをかたどる銀の売買をする、いのちの買取であると受け止められます。この働きは、王の性質・栄光に基づく働きであり、マタイ22章・ルカ17章・黙示録18章・箴言31章をみることで、宗教界・背教世界の中での売買と、花嫁の忠実な商いとがその世界で為されていることがわかります。

箴言に出てくる世界で商売をする女は、賢い女です。「エシェット・ハイル」の語源とルツ記との考察により、終末において整えられた花嫁の型とは、賢く、戦略的に働く者であると黙想されます。

贖いに関して、商売して利益を上げることは、敵の門を勝ち取る御国の戦いを示しています。イスラエルでは、カナンの戦い、アブラハム預言においては、創世記22章の約束の場面を覚えるものとなります。

では、『都市を治める』(19:17)とは、どのような霊的報いを指すのでしょうか。

10ミナをもうけた者に10の都市を治めさせる」という言葉は、御国の統治に参与することを示しています。これは、花嫁の王権の共有を示す霊的報いであり、黙示録20:4「彼らは王とともに千年の間支配した」とも関係しています。

この報いは、忠実なしもべが宣教によって御国の主の統治を拡げる働きに応じて、その統治に与かる者とされる性質を示しています。

では、御国の統治とは何でしょうか。

ルカ18章では、やもめ・盲人・取税人など、受ける資格のなかった小さき者たちが憐れみを叫び、それに答えられた主の憐れみに応答する信仰が示されました。彼らは、キリストの憐れみによって臨在の中で主を識別し、整えられた選ばれた者の型です。その完成は、主の教会が十字架の愛のかたちを帯びることでした。

ミナの譬えでの商売による収益、御国の勝ち取り、統治を考えるなら、ミナは終末のしもべ全員に等しく与えられたものでした。これは、主から出た性質のものであることを示しています。銀であるなら、贖いの賜物と関係すると考えられます。

神の贖いは、すべて上からの恵みであり、等しくすべての人が、主の憐れみだけを理由として救いに与りました。銀を任せられた時、神の赦しまたは憐れみの本質をゆだねられたと考えられます。その主の命の種・命の機会をもって、この世界に福音が委ねられました。

忠実に商いをした者は、神の憐れみに真実に応え、花婿の義を体現した者です。ただ宣教の証しをするという意味だけにとどまらず、神の愛に生きた、赦しに生きた、憐れみに生きたというキリストの贖いの恵みの賜物が人々の中に輝く存在として、しもべを終末の世界で生かしたのです。

ミナの譬えは、「憐れみを受けた者が、神のその赦し・憐れみの特権を自分の所有としてどのように用い、主にあってこの世界に応答したか」ということであると受け止められます。

10の都市を治めなさい」(19:17)という言葉は、社会構造的な統治ではなく、花婿の義と憐れみを地に体現する者としての統治を意味しています。これは、黙示録20章の「王とともに支配する」場面とも関連します。

この統治とは、キリストご自身が「あなた方の間で偉くなりたいものは、皆に仕える者になりなさい。わたしが贖いの代価として人々の命のためにご自身の命を捧げるのと同様です」と語られたように、主の憐れみの御性質において、いのちを勝ち取った御国の勝利です。

神の命の商売の利益が王の前で認められ、その命の救いを、主の憐れみ(愛)のかたちを帯びた者が、御国の秩序を担うことになります。

ルカ19章の「都市を治める」という報いは、世的な理解での支配権の授与ではなく、その地において花婿の義と憐れみが実現する、すなわち御国の秩序が顕れることを意味しています。これは、主の祈りにある「御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)の具現です。

統治とは、御心が地に実現することであり、御国の秩序とは、憐れみ・義・真実・神の契約の実現を意味します。そして、忠実にミナを用いた者は、その主の憐れみに応答した花嫁が担う役割であり、ついにその地において「御心が地にもなる」ことが実現される場面を描いています。

弟子たちは、御国がすぐにでも来ると思っていましたが、その時、主はこのたとえを語られました。以前、主は「御国はあなた方のただ中にある」(ルカ17:21)と語られ、この場面では「王位を受けて帰ってくる」(ルカ19:12)時だと言われました。

一見、異なる概念のように見えますが、神の時間軸と霊的な領域について黙想するなら、ルカ17:21の「御国はあなたがたのただ中にある」は、キリストが地上におられる時、臨在のゆえに憐れみと義の実際が人々の間に在ったことを示しています。これは、花婿である主の義が憐れみとして現れていた時代(初臨)であり、贖いのための働きの初めです。

王位を受けて帰るその日は、終末におけるキリストの統治の顕われです。ルカ19:12の「遠い国に行って王位を受けて帰ってくる」という時は、キリストの昇天と来臨を覚える時です。この間、地上では花嫁が忠実に商いをし、整えられる存在です。主の日に、王としての支配が地に顕れ、統治の日が到来します。ここに、御国の完成が描かれています。

その統治とは、商売においてなされることを先に示したように、憐れみの実際が実るキリストのご支配です。ですから、御国はキリストの日以来すでに始まっており、そしてまたこの世界の中で、しもべの忠実な応答によって整えられ、王の帰還によって地に顕れた結果に対して裁きと報いがある、統治の日が来るという姿が浮き彫りになります。

主の来臨は、ルカ19章では、王が帰還して報いと裁きを行う光景として描かれています。これは、花婿が戻り、花嫁を整えられた者、ご自身にふさわしい者として統治を委ねる姿であり、箴言の賢い妻の完成された姿です。

来臨の日は、憐れみ、すなわち主の愛に応答した者が整えられ、完成に至るその時を映しています。報いと裁きの場であると同時に、花嫁の完成と迎えの場でもあります。そして、神の憐れみ(愛、赦し)の秩序が地に顕れる、贖いの時でもあります。

「都市の統治」は、憐れみの秩序が地に実現することを意味し、来臨は、天の秩序が地に下る、すなわち「御心が地にもなる」時です。それは、花婿の義と憐れみが地に満ちる瞬間です。

やもめ・盲人・取税人・ミナの僕たち──これらすべては、憐れみに応答し整えられた者たちでした。それは、十字架の愛のかたちが地に顕れる時でもあります。キリストは、初臨において憐れみと義を体現する者として来られました。終末の主の日は、その義が完成のかたちで地に顕れる時であると黙想されます。

義の完成者としての主のご本質(人格)が、花嫁の整えにおいて、あるいは整えの時に、義の王の姿をもって来られる時です。この王こそ、十字架において憐れみの契約を結ばれた花婿であり、ご自身の心を地に、花嫁を通して備えられた方ご自身です。

主の日は、識別された者のうちに隠されることなく、全地に明らかにされる光であることが示されています。「人の子は、その日には、稲妻がひらめいて天の端から端まで輝くようになる」(ルカ17:24)とあります。

ノアとロトの時代のように「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったりしていたが、その日、滅ぼされた」(ルカ17:2630)と記されているように、その日には「識別と分離」をもたらす転換点が訪れます。

憐れみに応答した者とそうでない者とは、その祝福・喜び・神の宴会・父の家の迎えにおいて分かたれます。その日には、「二人が一つの床に寝ていて、一人は取られ、一人は残される」(ルカ17:3435)とあり、「契約がまさに成就し、迎えられる者が識別される」時です。

「人の子が栄光の座に着くとき、羊と山羊を分けるように分ける」(マタイ25:3146)と語られているように、王の統治が始まることが明確に示されています。

「都市を治める=御国の秩序の顕現」とは、神の小さな者たちへの憐れみの実際の中で、主の御心が行われた愛の応答が識別された結果です。

裁きは「識別の場」です。黙示録20:12では、「死人はそのしわざに応じて裁かれた」と記されています。神の愛(憐れみ)に応答した者と拒んだ者を分ける終末的裁きです。

同じルカの福音書の譬えの前に、ザアカイの救いの記事が置かれています。このザアカイは、信仰者・選ばれた者の立場(イスラエル)からすると、「救われなくてもよい者の代表格」のように思われます。

十字架の道への最後の場面、すなわち贖いの主の日の直前に、キリストご自身が「救われなくても当然」と考えられる者の隣人となられた光景は象徴的です。ここに、主の日の花嫁の模範があります。

主の憐れみ、福音は、またこれこそ主の最後の日の出来事の象徴のように描かれていると感じます。ルツ記で学んだ終末の花嫁の使命を思い起こします。

贖いの主の日の直前における隣人となられた主の姿は、花嫁が倣うべき模範として黙想されます。主は、救われなくても当然と見なされた者、最も救いから遠いと見なされる金持ちを訪問されました。ザアカイ(取税人)、盲人、罪人の女、十字架上の犯罪人──彼らは、制度的にも宗教的にも「救われるに値しない」と見なされていた者たちでした。しかし、主は彼らの隣人となられ、憐れみをもって(最後の時の憐れみが現れる場として)訪問されました。

この訪問は、花婿が憐れみに応答する者を迎える前触れであり、主の愛のしもべはこの救いの物語を識別します。

主は、自ら彼の家に入り、彼の声にならない魂のうめきに応答し、彼の心の苦しみに触れられました。主は「救われるに値しない者」と共に時を過ごされ、食事をし、同じ存在として扱われる立場を共有されました。愛によって主が彼の隣人となられたのです。このことは、主の十字架が、彼のために命を捨てる者であることを示しています。それは、贖いの直前の光景でした。そしてその訪問は「人にはできない、しかし神にはどんなこともできる」(ルカ18:27)というあわれみに基づく救いの力をもって、彼の内に入られる主の愛のかたちでした。

終末において、主の贖いの日を前にして、キリストご自身のみこころの顕現として、花嫁が整えられ、世の痛みを担い、罪の世のために立場を一つとして、主の憐れみと慰めを懇願するその姿は、花嫁の整えの型として黙想されます。このことは、ルツ記で学びました。

主が訪問されたとき、ザアカイは依然として、その時まだ罪人のままでした。良い人のところに来られたのではなく、整えられた者のところに来られたのでもなく、罪深いままの、しかし憐れみを必要とした者のもとに来られたのでした。彼もまた失われた者――アブラハムの子として覚えられていました。

主が来てくださったときに、救いを求める者に憐れみが顕れました。ザアカイは木に登り、盲人は叫び、罪人の女は涙を流しました。彼らは、主が来られた時に、憐れみを求めたのです。その求めに、主は彼らの罪・痛みを負う方として隣人となられ、愛を示されました。

花嫁が主を模範とするのは、愛です。神の憐れみを求め、神の憐れみに応答するキリストの心を、主は求めておられます。主の赦しと愛を、兄弟に──そしてすべての憐れみを求める者に──求められましたそれは、すべて、その人が主から受けた賜物でした。

整えられた忠実なしもべとは、神ご自身の愛と赦し、憐れみを求める心において自身のうちにキリストが現れることを求める存在でもあります。そして、その委託を、主は遣わされるしもべにお与えになりました。「あなたが地上で解くなら解かれる。あなたが赦すなら赦される」。異邦人の支配者のように人を支配する者としてではなく、ご自身のように仕えるしもべの姿勢をもって、愛によって人々に仕えなさいと語られました。

キリストの御国の統治とは、そのようなものです。

 

§. エルサレム入城:黙示的考察

主は「ろばの子」に乗って入城されました(ルカ19:30)。これは、柔和な王としての現れです。弟子たちが道を備え、群衆が賛美する中で、主が「通られる道」は、憐れみに応答する者たちの備えによって開かれる道です。

その道を備えるために、ヨハネは叫びました。でこぼこ道をまっすぐにするとき、主のしもべの心は、神の憐れみを受ける十字架へとつながる救いの道を整えさせられます。

王の入城は、直前のミナの譬えで王位を受けて戻られる主の終末のひな型を指し示しています。群衆は「主の御名によって来られる王に祝福あれ」と叫びました(ルカ19:38)。パリサイ人は「弟子たちを黙らせよ」と言いました(19:39)。これは、王であることを望まない裁かれる民の姿です。

群衆は「主の御名によって来られる王に祝福あれ」と叫び、主を王として迎えました。しかし、真の王の入城の祝いは、仮庵の祭りにおいて来臨の時になされるものです。ルカの場面で主が民の迎えを受けられたことは、終わりの日において、憐れみを待ち望む者に王として再び来られることを示す預言的な光景と受け取れます。

以上にしたいと思います。