聖書研究会・学び

ルカの福音書2章

御国の完成に関する黙想
― 御父のうちに生きる御子、エルサレムの贖いの完成への希望 ― ―

鈴ヶ峰キリスト福音館
聖書研究会 考察
2025.7.4

ルカの福音書2章 

「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存知なかったのですか」
ルカによる福音書2章49節の主イエスのこの言葉の、父の「家」は、注釈には「業」とかいてあります。

•ギリシャ語原文では
 「ἐν τοῖς τοῦ πατρός μου εἶναι」とあり、直訳すると「わたしは、わたしの父のものの中に、いるべきである」という表現です。補足(※a)
 「ἐν τοῖς」=空間や事柄の中にある
 「τοῦ πατρός μου」=わたしの父に属するもの
 「δεῖ」=~する必要がある、~であるべき
•これが「父の家」と訳される場合、物理的な神殿を指すと同時に、神の臨在と働きの場を意味します。
•一方、「父の業」と訳すと、神の使命、神の働き、神の意志に従うことを指す霊的な意味合いが強くなります。

「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存知なかったのですか」
ルカによる福音書2章49節の主イエスのこの言葉の、父の「家」は、注釈には「業」とかいてあります。

 原文のまま読むとき、「父に属する領域の中に生きること」が自分にとって不可欠な召しであると語っていることがわかります。この語調には、場所的な「神殿」よりも、神の意志・業・ご計画そのものに属する者であるという霊的宣言が読み取れます。

 •神殿=父の家:少年イエス様が神殿に留まり、教師たちと語り合っていたことは、神の言葉に親しみ、神の計画に自らを置いていたことを示しています。ここでの神殿は単に空間や「宗教的所属」ではなく、神の臨在と啓示の場としての神殿です。父なる神の計画の場に自らを置いているという霊的立ち位置の自己認識です。
•父の業=神の使命:少年イエス様が「父の業に携わる」ことを当然としたのは、すでに12歳の時点で自らのメシア的使命を意識していたことを明らかにしています。ヨハネによる福音書5章17節の「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」との言葉もともに覚えます。

この言葉は、少年イエス様が「神の子」としてのアイデンティティを自覚された最初の証であり、神との関係が人間の家族関係を超えて優先されることを示しています。

少年イエス様が神殿で教師たちと語り合っていた場面(ルカ2:46)は、律法と預言に関する深い探求の場でした。教師たちとの対話は、律法を巡る知識の交換以上に、御国の探求・御国の実現に関する応答の場であったと考えられます。教師たちは、そこで神の国の到来やメシアの約束について議論していた可能性が高く、その中心に座して、主イエスは「聞き、問いかけていた」と記されています。

これは、少年イエス様がすでに御国の本質を探り、神の計画に自らを置かれていたことを示唆します。
「父の家にいる」ことは、神の臨在の中に生きること、神の言葉に耳を傾け、神の業に参与することです。
少年イエス様は、自分の存在が「父のもの」の中にあることを当然とし、「そこにいなければならない」と語ります。これは、すでに贖いの働きに身を置く者として、自覚的な参与を始めていることの証しです。私たちにとっても、「父の家」とは教会や祈りの場だけでなく、神の意志に従って生きる日常そのものでもあります。
さらに、突き詰めて考えると、主が身を置かれた「家」=「父のもの」とは、イスラエルに与えられた律法・契約・贖い・神殿の礼拝の祭儀とも関係します。その中に置かれていた者たちが、贖いの完成に向けて整えられるべき存在でありながら、長く散らされてきた現実があります。少年イエス様は、この律法の場に現れて、「父に属する領域=神の国の働き」に自らを置くものであることを自覚し、神の国の到来がそこに注がれることを告げる証しとなったとも読み取れます。
教師たちの議論の中心に、成就の者として語る方がすでに立っておられたからです。

両親の驚きと理解の限界:マリアとヨセフは少年イエス様の言葉を理解できなかったと記されています。これは、神の子としての少年イエス様の自己認識が、人間的な親の理解を超えていたことを示します。 

マリヤは「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19, 2:51)という記述があります。少年イエス様が「父のものの中にいる」と語った場面において、マリヤの反応は単なる母親の驚きではなく、神の啓示を沈黙のうちに受け止める信仰者の姿勢として描かれています。

理解できずとも「心に納めた」マリヤの姿には、贖いを希求して待ち望む民の象徴が見えます。

そして、イスラエルの礼拝が、神の意志に応答して整えられるその「日のため」に向かって進んでいく完成の時(神の約束がまだ成就していなくても、それを信じて待つ信仰の姿)を啓示します。 

マリヤが「心に納めた」姿勢と、アンナが「エルサレムの贖いを待ち望んでいた」姿勢は、贖いの完成を希求する同質の霊的な応答です。 

アンナ(ルカ2:36–38)は、アシェル族の女預言者として、神殿にとどまり、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていました。補足(※c)

彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々に幼子のことを語った」と記されています。神殿にとどまり続ける祈りの人として、贖いの完成を待ち望みました。彼女の姿は、イスラエルの残りの者の代表として、神の約束に希望を置く者の象徴です。

マリヤ(ルカ2:51)は、イエスの言葉を理解できなかったにもかかわらず、「これらのことをすべて心に納めていた」とあります。これは、神の約束がまだ目に見える形で成就していなくても、それを信じて受け止める姿勢です。彼女の「心に納める」姿勢は、贖いの御計画の証しを内に宿し、時が満ちるまで信仰を保つ者の姿です。彼女は律法に従うユダヤ人として、神の約束に応答しました。彼女は、イスラエルの希望を胎に宿し、十字架の痛みをもってその完成を見届けました。 


贖いの希求としての一致

この二人の女性は、異なる立場にありながら、神の贖いの計画に対する霊的な応答者として描かれています。アンナは公に語り、マリヤは沈黙のうちに思い巡らしています。
この結びつきは、さらに、アンナがアシェル族の出身であることも、失われたイスラエルの回復という預言的文脈に光が当てられます。 補足(※b) 

さて、なぜ、ここで、贖いの対象として、イスラエルではなく「エルサレムの贖い」と書かれたのか。この問いは、贖いの神学と終末預言の核心に触れる洞察です。聖書において「エルサレム」が贖いの対象として語られる理由には、象徴的・霊的・歴史的な意味が重層的に込められています。 

エルサレムが贖いの対象となる理由

1. 神の名が置かれた場所としての選び

•エルサレムは、神が「とこしえにわたしの名を置く」と言われた都(Ⅱ歴代誌7:16)。
•アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山、神殿が建てられた場所、そして主イエスが十字架にかけられた地でもあります。
•つまり、神の臨在と契約の中心地として、イスラエル全体を代表する象徴的な都市です。

2. 神の民の霊的状態を映す象徴としてのエルサレム

•預言者たちは、エルサレムの偶像礼拝や不義を「神の妻の不貞」として描きました(イザヤ1章、エレミヤ3章)。
•その堕落ゆえに、エルサレムは「大バビロン」と呼ばれ、裁きの対象となります。
•しかし同時に、神は「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」と語り、贖いと回復の約束を与えています(イザヤ54:8)。

3. 終末における神の国の首都

•黙示録では、地上のエルサレムが裁かれた後、「新しいエルサレム」が天から降りて来ると記されています(黙示録21章)。
•この新しい都は「小羊の花嫁」と呼ばれ、贖われた民の永遠の住まいとなります。
•エルサレムの贖いは、神の国の完成と神の民の回復を象徴するものとして描かれます。

4. イスラエル全体の霊的回復の象徴

•「イスラエル」全体は民族的・地理的に広がりがありますが、「エルサレム」はその中心であり、神との契約の場です。
•ゼカリヤ書では、「エルサレムの贖いを待ち望む者たち」が登場し、神が「恵みと哀願の霊」を注ぐと預言されています(ゼカリヤ12:10)。
•これは、民族的回心と贖いの実現がエルサレムを舞台に起こることを示しています。

 

このように、「エルサレム」が贖いの対象として語られるとき、真の礼拝と御国の秩序が整えられること、つまり神の臨在が回復される礼拝の中心地の再建(御国の到来)を示します。

エルサレムは、贖いの歴史を綴る霊的地であり、神の臨在と契約の象徴、また、神の臨在と契約の中心地であり、礼拝、贖い、裁き、そして回復、これら神の業を啓示する霊的中心地として、イスラエル全体の贖いを象徴します。エルサレムが贖われるとは、礼拝が回復され、神の臨在が住まわれる秩序(神の家)が真の意味で私たちとのかかわりの中で整えられる(迎えられる)ことです。民の内面の悔い改めの先に置かれた、「神の前に仕える場=神殿」の整えを重視した視座がそこにはあります。そして、このことは、初めからのテーマである御国の成就と関係します。 

御国の完成とは、神の意志が地において完全に実現されること。それは、イスラエルの回復と、すべての民が神を霊と真理によって礼拝する時の到来です。 

このことは、羊飼いたちに証しされたことや、ザカリヤの預言のことばにも通じています。

ベツレヘムは神殿で献げられる犠牲の羊が育てられていた地域と言われています。羊飼いたちは、社会的には卑しい者とされていましたが、形式だけでなく真の贖いを希求する者として啓示を受けています。神が最初に知らせたのは王宮でも律法学者でもなく、贖いの羊と共に過ごす者たちでした。真の贖いを待つ者たちへ、まことの贖い主=罪を取り除く神の小羊の生誕を告げ知らせました。 
シメオンもまた、「主のキリストを見るまでは死なない」と告げられ、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。
アンナは「エルサレムの贖いを待ち望む者たち」に語りかけました。

いずれも沈黙の時代に祈り続けた者として、成就の時に証言する器にされています。ここに、「証しは、待ち望む者の中から現れる」という神の霊的な働きかけが映しだされています。 

2章は以上です。 

 

補足(※a)

似たような主と弟子たちの対話の中に「だれでもわたしに仕えようとするなら、その人はわたしについて来なさい。わたしのいるところに、わたしに仕える者もいるべきです。」(ヨハネ12:26)と語られた言葉があります。 

ルカ2:49との比較
•ルカ2:49では「ἐν τοῖς τοῦ πατρός μου δεῖ εἶναί με(わたしの父のものの中にいるべきである)」という構文が使われています。
•ヨハネ12:26では「ὅπου εἰμὶ ἐγώ, ἐκεῖ καὶ ὁ διάκονος ὁ ἐμὸς ἔσται(わたしがいるところに、わたしの僕もいるであろう)」という構文です。

両者とも「いるべきである」という存在の必然性(「存在が使命の中に置かれていること」)を語っていますが、文法構造と語彙は異なっています。ルカでは「δεῖ εἶναί με(わたしは~にいるべきである)」という神的使命の必然性が強調され、ヨハネでは「εἰμὶ...ἔσται(わたしがいる...そこに僕もいる)」という従属と一致の関係が描かれています。  


補足(※b)

アンナがアシェル族の出身であるという記述(ルカ2:36)は、単なる系譜情報ではなく、神の贖いの計画における象徴的な意味を帯びています。これは、失われたイスラエルの回復と、全イスラエルの贖いを暗示する深い神学的メッセージを含んでいます。

アシェル族の象徴性とアンナの登場
•アシェル族は北イスラエルの十部族の一つであり、アッシリアによる捕囚以降、歴史的には「失われた部族」とされてきました。
•その中からアンナが登場することは、神が失われた者をも顧み、贖いの計画に参与させることの象徴です。
•彼女は神殿にとどまり、昼も夜も祈りと断食をもって神に仕えていた人物であり、霊的に目覚めた「残りの者」として描かれています。

預言的背景と部族の祝福
•創世記49:20では、ヤコブがアシェルに「王のごちそうを作り出す」と祝福しています。これは、神に喜ばれる霊的な奉仕者としての性質を暗示します。
•申命記33:24–25では、モーセがアシェルを「兄弟たちに愛され、足を油の中に浸す者」と祝福しています。これは、豊かさと神の恵みに満ちた者としての象徴です。

贖いの完成と全イスラエルの回復
•アンナが「エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々に幼子のことを語った」(ルカ2:38)という記述は、贖いの完成が始まったことを宣言する預言的行為です。
•彼女がアシェル族であることは、北イスラエルの回復と、ユダとイスラエルの一致による全イスラエルの贖いを象徴するものと解釈できます。
•これはエレミヤ書31章の「イスラエルの家とユダの家に新しい契約を結ぶ」という預言とも関連します。

アンナの登場は、神の贖いが「見える者」「残された者」「沈黙の中で待ち望む者」によって証しされることを示しています。そして彼女の部族的背景は、神が歴史の裂け目にある者をも回復の器として用いられるという希望のしるしです。 
 

補足(※c)

彼女の断食は、形式的な儀式ではなく、贖いの完成を希求する霊的な飢え渇きでした。
主イエスは弟子たちに、「花婿が取り去られる時が来る。その時には断食する」と語られました(マタイ9:15)。御国の完成を求める視座の中でこの断食を捉えると、「花婿が取り去られる」という出来事には悲しみが伴いますが、断食の本質は悲しみの表現ではなく、花婿を慕い求める花嫁の飢え渇きです。
つまり、主イエスの不在の時代において、弟子たちはアンナのように、贖いの完成と再臨を待ち望む者としての霊的集中を求められているのです。そして、主の誓願に応えて、神のみこころの成るときを切実に求めているということになります。それは、花嫁の整えに関する事項であり、花婿の迎えに関することであり、世の終わりの、この世の贖いに参与するクライマックスの時を捉えています。