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| ルカの福音書2章 御国の完成に関する黙想 ― 御父のうちに生きる御子、エルサレムの贖いの完成への希望 ― ― 鈴ヶ峰キリスト福音館 ルカの福音書2章 「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存知なかったのですか」
この言葉は、少年イエス様が「神の子」としてのアイデンティティを自覚された最初の証であり、神との関係が人間の家族関係を超えて優先されることを示しています。 少年イエス様が神殿で教師たちと語り合っていた場面(ルカ2:46)は、律法と預言に関する深い探求の場でした。教師たちとの対話は、律法を巡る知識の交換以上に、御国の探求・御国の実現に関する応答の場であったと考えられます。教師たちは、そこで神の国の到来やメシアの約束について議論していた可能性が高く、その中心に座して、主イエスは「聞き、問いかけていた」と記されています。 これは、少年イエス様がすでに御国の本質を探り、神の計画に自らを置かれていたことを示唆します。 マリヤは「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19, 2:51)という記述があります。少年イエス様が「父のものの中にいる」と語った場面において、マリヤの反応は単なる母親の驚きではなく、神の啓示を沈黙のうちに受け止める信仰者の姿勢として描かれています。 理解できずとも「心に納めた」マリヤの姿には、贖いを希求して待ち望む民の象徴が見えます。 そして、イスラエルの礼拝が、神の意志に応答して整えられるその「日のため」に向かって進んでいく完成の時(神の約束がまだ成就していなくても、それを信じて待つ信仰の姿)を啓示します。 マリヤが「心に納めた」姿勢と、アンナが「エルサレムの贖いを待ち望んでいた」姿勢は、贖いの完成を希求する同質の霊的な応答です。 アンナ(ルカ2:36–38)は、アシェル族の女預言者として、神殿にとどまり、昼も夜も断食と祈りをもって神に仕えていました。補足(※c) 彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々に幼子のことを語った」と記されています。神殿にとどまり続ける祈りの人として、贖いの完成を待ち望みました。彼女の姿は、イスラエルの残りの者の代表として、神の約束に希望を置く者の象徴です。 マリヤ(ルカ2:51)は、イエスの言葉を理解できなかったにもかかわらず、「これらのことをすべて心に納めていた」とあります。これは、神の約束がまだ目に見える形で成就していなくても、それを信じて受け止める姿勢です。彼女の「心に納める」姿勢は、贖いの御計画の証しを内に宿し、時が満ちるまで信仰を保つ者の姿です。彼女は律法に従うユダヤ人として、神の約束に応答しました。彼女は、イスラエルの希望を胎に宿し、十字架の痛みをもってその完成を見届けました。
この二人の女性は、異なる立場にありながら、神の贖いの計画に対する霊的な応答者として描かれています。アンナは公に語り、マリヤは沈黙のうちに思い巡らしています。 さて、なぜ、ここで、贖いの対象として、イスラエルではなく「エルサレムの贖い」と書かれたのか。この問いは、贖いの神学と終末預言の核心に触れる洞察です。聖書において「エルサレム」が贖いの対象として語られる理由には、象徴的・霊的・歴史的な意味が重層的に込められています。 エルサレムが贖いの対象となる理由 1. 神の名が置かれた場所としての選び •エルサレムは、神が「とこしえにわたしの名を置く」と言われた都(Ⅱ歴代誌7:16)。 2. 神の民の霊的状態を映す象徴としてのエルサレム •預言者たちは、エルサレムの偶像礼拝や不義を「神の妻の不貞」として描きました(イザヤ1章、エレミヤ3章)。 3. 終末における神の国の首都 •黙示録では、地上のエルサレムが裁かれた後、「新しいエルサレム」が天から降りて来ると記されています(黙示録21章)。 4. イスラエル全体の霊的回復の象徴 •「イスラエル」全体は民族的・地理的に広がりがありますが、「エルサレム」はその中心であり、神との契約の場です。 このように、「エルサレム」が贖いの対象として語られるとき、真の礼拝と御国の秩序が整えられること、つまり神の臨在が回復される礼拝の中心地の再建(御国の到来)を示します。 エルサレムは、贖いの歴史を綴る霊的地であり、神の臨在と契約の象徴、また、神の臨在と契約の中心地であり、礼拝、贖い、裁き、そして回復、これら神の業を啓示する霊的中心地として、イスラエル全体の贖いを象徴します。エルサレムが贖われるとは、礼拝が回復され、神の臨在が住まわれる秩序(神の家)が真の意味で私たちとのかかわりの中で整えられる(迎えられる)ことです。民の内面の悔い改めの先に置かれた、「神の前に仕える場=神殿」の整えを重視した視座がそこにはあります。そして、このことは、初めからのテーマである御国の成就と関係します。 御国の完成とは、神の意志が地において完全に実現されること。それは、イスラエルの回復と、すべての民が神を霊と真理によって礼拝する時の到来です。 このことは、羊飼いたちに証しされたことや、ザカリヤの預言のことばにも通じています。 ベツレヘムは神殿で献げられる犠牲の羊が育てられていた地域と言われています。羊飼いたちは、社会的には卑しい者とされていましたが、形式だけでなく真の贖いを希求する者として啓示を受けています。神が最初に知らせたのは王宮でも律法学者でもなく、贖いの羊と共に過ごす者たちでした。真の贖いを待つ者たちへ、まことの贖い主=罪を取り除く神の小羊の生誕を告げ知らせました。 いずれも沈黙の時代に祈り続けた者として、成就の時に証言する器にされています。ここに、「証しは、待ち望む者の中から現れる」という神の霊的な働きかけが映しだされています。 2章は以上です。 補足(※a) 似たような主と弟子たちの対話の中に「だれでもわたしに仕えようとするなら、その人はわたしについて来なさい。わたしのいるところに、わたしに仕える者もいるべきです。」(ヨハネ12:26)と語られた言葉があります。 ルカ2:49との比較 両者とも「いるべきである」という存在の必然性(「存在が使命の中に置かれていること」)を語っていますが、文法構造と語彙は異なっています。ルカでは「δεῖ
εἶναί με(わたしは~にいるべきである)」という神的使命の必然性が強調され、ヨハネでは「εἰμὶ...ἔσται(わたしがいる...そこに僕もいる)」という従属と一致の関係が描かれています。
アンナがアシェル族の出身であるという記述(ルカ2:36)は、単なる系譜情報ではなく、神の贖いの計画における象徴的な意味を帯びています。これは、失われたイスラエルの回復と、全イスラエルの贖いを暗示する深い神学的メッセージを含んでいます。 アシェル族の象徴性とアンナの登場 預言的背景と部族の祝福 贖いの完成と全イスラエルの回復 アンナの登場は、神の贖いが「見える者」「残された者」「沈黙の中で待ち望む者」によって証しされることを示しています。そして彼女の部族的背景は、神が歴史の裂け目にある者をも回復の器として用いられるという希望のしるしです。 補足(※c) 彼女の断食は、形式的な儀式ではなく、贖いの完成を希求する霊的な飢え渇きでした。 |