聖書研究会・学び

ルツ記

御国の完成に関する黙想
― 贖いと花嫁の整えに示された終末の希望と証し ―

鈴ヶ峰キリスト福音館
聖書研究会 考察
2025.6.1~6.21

ルツ記1章

 ルツ記は、異邦人の女性ルツの結婚の物語を通して、ナオミをイスラエルに重ね合わせながら、贖いの物語として読むことができます。ルツを迎え入れるボアズを通して、買い戻された相続地を受け継ぐ子が与えられることにより、ナオミ=イスラエルが贖いを受けるのです。
ボアズは、純真で従順な娘、「しっかりとした女」として認められたルツの姿を見て――ルツの、主の律法の言葉に基づく哀れみを信じ、ナオミの言葉「あなたの言われることはみな致します」に表れるような献身の姿を見て――彼女を愛する者として迎え入れます。ルツもまた、ボアズの誠実さ(神の約束の真実)を愛し、彼の真実と好意に身をゆだねます。
 その結果、死者のための祝福となる、「死の道」を歩んだイスラエルの贖いが成し遂げられるというテーマが、物語の根底に横たわっています。この物語における二人の愛の結実は、情愛的なドラマというよりも、主のご計画とみ言葉の約束による祝福が中心に据えられており、それによって実現する贖いの物語です。

 

しっかりとした女・しっかりした方

「しっかりとした女」はルツに用いられた表現であり、「しっかりとした方」はボアズに用いられた表現です。この特別な原語的な表現は、以前、箴言を学んだとき、キリストにある新しい世界の宣教的な意味合いにおいて、贖いを完成させる、神の国を待ち望む地上での働きを示唆していたことを思い出します。終末的考察において、この言葉が関連付けられていました。
 地上の主の教会は、主に仕える時、苦虫をつぶすようにいやいや働くのではなく、命の働きとして落ち穂を拾い(残りの者のための救いの完成を求めて)、神の働きに与るのです。集会のあかしも、義務感によってではなく、霊的に死の道を歩んでいる死者の救いのために、救霊のための命の誓いを伴う献身によって、主からもたらされる命の贖いが及んだとき、喜びと共に、主の御性質において贖いが全うされたときに完成される美しさをその献身の姿のうちに見い出します。死者の道を行っていた隣人を自身の愛する友とし、友のために命を捨てるという愛によって生きる誓いの中に完全へと至る愛の人(ひとりの人)の美しさ(キリストの似姿)が見られます。
ルツが美しいのは、ナオミに自分自身を捧げて尽くした姿から生じる神への信仰によって、主から受け取る、主の業が、主の慈しみに満ちた形をもって実現するところにあります。
 このことが、私たちに地上で置かれている花嫁としての「婚姻を迎える前の姿」として描かれます。この地での、寄り添う者(福音者)の宣教の心の励ましとなるに違いありません。

ベツレヘムの出来事

 エフラテ・ベツレヘムは、ヤコブが愛したラケル――偶像所持者であり、肉において最も愛されたユダヤ人の妻――が埋葬された場所です。彼女からは、長子の権利を持つヨセフが生まれました。ベツレヘムはダビデの町、王が出る町であり、キリストの誕生の地でもあります。そこでは、イスラエルの復活と慰めに関する預言が語られました。
「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。」
これは、ルツがナオミと離れない決意を表したときの言葉です。この「埋葬」という表現には、死者の復活を意識したみことばの響きがあると考えられます。死者の復活は、御国の相続とも深く関係しています。そして、キリストの贖いは、復活の命に預かることを示しているのです。
キリストの命の祝福こそが、福音の中心です。こうしたテーマがルツ記全体に流れていることを確認しながら読むことは、非常に意義深いと思います。

象徴的黙示

ルツ記の考察においては、以下のような重要なポイントがあります。

・ ナオミの歩みとイスラエルの霊的状態
「死者の道」を行ったナオミの歩みと、それがイスラエルの霊的状態と一致していること。異国の地での祝福の欠如、神の相続地から離れたところにある逃れえぬ苦難。

・ 贖いの完成と神の祝福
パンの飢饉は霊的な飢えであり、いのちのみ言葉である主御自身を捨てた結果を象徴し、最終的な回復が「金を払わずに食べよ」という恵みの福音によりもたらされる姿。

・ 主の日の贖い預言したエルサレム回復の預言であるイザヤ書54章とルツ記の関係性
イザヤ書に見られる「夫に捨てられた女」と表現される預言の原意と、それがルツ記と照らし合わせたときの霊的な解釈。

・ 贖いと慰めのテーマ
荒廃した女(夫を亡くした者)の慰めと復活の経験を、イスラエルの救いに重ね合わせる視点。特に「主の日の贖い」としての預言的意味。

・ ルツとナオミの関係
ルツの信仰とその告白が、イスラエルの悔い改めに対応するものであり、「とりなし」の役割を果たしていること。

・ 復活と嗣業の祝福
死者の名を遺すこと、嗣業を受け継ぐことが霊的な意味で何を象徴しているか。そして、それがキリストを通して成されること。

象徴的黙示 子を産まない不妊の女イザヤ54:1-10 (終末のエルサセレム回復預言)

イザヤ54:1-10 (終末のエルサセレム回復預言)】

54:1 「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」と【主】は仰せられる。
54:4 恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
54:5 あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の【主】。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。
54:6 【主】は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。


 イザヤ預言での「夫に捨てられた」とされる表現は、文脈上、神とイスラエルの関係を示す解釈として妥当であると言えます。しかし、原語を直読する場合、必ずしもそのように限定される必要はありません。
「捨てられた」という言葉は、「離れた」「離別した」と訳すことも可能です。また、「夫」という語は、1節にも6節にも直接的には登場していません。むしろ、直接的な原語としては、「離れた=荒廃した女」と「所有された女」という対比が描かれています。
このことにより、この預言は、ルツ記1章に照らし合わせて読むことができるものとなります。

主の日の贖い

 贖いをテーマとして、夫を亡くした状態から慰め――すなわち復活――を体験し、相続地において死んだ者の名を残す嗣業の祝福を思うことができます。
イザヤ書は、キリストによって慰めを受けるイスラエルの救いを指し示した預言の言葉であり、特に第54章9節には「主の日の贖い」が示されています。子を産めなくなった女が、どのようにして子を得て、復活の命を相続し、御国を受け継ぐのか――この問いは、イスラエルの新生に関するテーマです。
復活の命(特にイスラエルの新生)について、ラビであるニコデモは、主イエス様に対して「人はどのようにして、もう一度新しく生まれることができるでしょうか」と問いました。これは、ナオミが、「死んだ者のゆえに、あなた方のためにあなた方のための夫となる息子を生む(嗣業を回復する)ことができましょうか。) と語った言葉と重なります。

その応えは、主の教え(律法)を受けたモアブの女ルツを通して示されます。
主(ボアズ)は「安心しなさい、あなたの望むことは何でもしてあげよう」と。
主が彼女の受け継ぐ相続分として、買い戻しを得させて相続の所有者となる子を生まれさせました。死んだ者のためにです。
究極的には、神のイスラエルが再び慰められるためには、すなわち、その「死者の命を恵まれる(ルツ2:22)」ためには、愛されて娶られるモアブの女ルツが示したように、主の花嫁(教会)が完全な従順をもって、神のイスラエル(ナオミ)に対する共に生きる愛、へりくだり、生かす御霊の思いをもって歩むことが求められます。そしてそれは、主(ボアズ)の御住まいである地――イスラエルの地――において、花婿である主への愛と従順のへりくだりを表すことで結実するのです。

ナオミを愛したあの言葉「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(1:16-17)」は、背信のイスラエルが本来、神に対してへりくだって悔い改めを告白すべき言葉の質のものです。
その種の祈り、懇願を、ルツがナオミに対して、主を上に置いて告白していると見ることができます。究極的な意味ではこれは「とりなし」でもあります。

「エレ31:18(主の日の預言) 私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ。あなたは私の神だからです。』。
 

 ナオミは死の道に歩みました。神の国の相続地を離れた姿は、律法に照らすと、主を捨てた者の姿であり、神の国――特に「パンの家」であるベツレヘム――にパンの飢饉が起こるということは、主の呪いのもとにある飢饉の条件を満たしていることを意味します。これは、「死んだ者の道」なのです。
命のパンはキリストご自身です。
主のカナン、ベツレヘムを離れ、受け継ぐべき相続地を売って、再び買い取るつもりで異国の地へ向かいましたが、その地には望んだ祝福はありませんでした。命を増し加えることはできませんでした。主がともにおられないからです。
これは主イエスキリストを捨てた神の民の道です。現在の霊的状況に通じるものです。
しかし、その異国の世界 = 異邦人の世界にあって、ナオミはルツを息子の嫁として得ているのです。この異国の世界には、共に歩む者として傍らに彼女がいます。
ルツは自分たちの神々を捨てて、イスラエルの神を主として生きる「新しい人」です。
ナオミにとって、ルツとの関係性は、神が彼女を慰めるために備えたこの地上での祝福の術(すべ)です。

 ルツ記は贖い=ゴーエールという言葉を多く用いる物語です。同時に、死者と生ける者とのヤーウェ(生ける主)の取り扱いを告白しており、復活のテーマがおかれています。
「パンの家」であるベツレヘムに起こった飢饉は、主の言葉を聞くことの飢饉です。神の相続地から離れるという霊的状態は、命のパンである主の言葉を失った結果であり、ユダヤの地ではもはや生きることができなくなった神の民の歩みを描いています。
異国のモアブの地では、夫と息子が次々と死に、彼女は苦難と嘆きの中で、「これは主から私が受けた分である」と告白します。
しかし、イスラエルの地では、慰めが始まりました。主の地において、神は再びパンを与え始められたのです。金を払わないで食べよ(イザヤ55)、との福音がささやかれ始めたのを聞いたのです。

エレミヤ31章の贖いのテーマの預言

そこでも関係している。

31:1 「その時、──【主】の御告げ──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
31:7 まことに【主】はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『【主】よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』
31:8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
31:9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」
31:10 諸国の民よ。【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。
31:11 【主】はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。
31:15 【主】はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」
31:16 【主】はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】の御告げ──彼らは敵の国から帰って来る。
31:17 あなたの将来には望みがある。──【主】の御告げ──あなたの子らは自分の国に帰って来る。
31:18 わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ。あなたは私の神だからです。
31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 

ルツ記2章

麦の刈り入れ(ルツ記1章)

 麦に関する〈キリストと神の国の実現、そして復活〉のみことばは、主キリストの「ひとつぶの麦が落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉を、復活の命のテーマとして心にとどめることができます。

ヨハネの福音書 12:24
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

コリント人への手紙 第一 15:20
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」

大麦の刈り入れの頃(ルツ記1章)

聖書に記された復活の記事との関連を心に留めておきます。
• 大麦の初穂は、過ぎ越しの祭りから七日目の安息日に捧げられ、キリストの復活を象徴する主の例祭である「初穂の祭り」と結びついています。
• 初穂の祭りでは、大麦の初穂が捧げられます。
• 民が食べるという御国の宣教的な観点からは、五千人に大麦のパンを与えた給食(ユダヤ人)における奇跡も思い起こされます。
• 大麦のパンにまつわるメシアを思わせる救いの物語は、ギデオンの記録にも見られます。

小麦の刈り入れ(ルツ記1章)

小麦の刈り入れに関する聖書の復活の記事との関連は、地上のキリストの御体である花嫁となる主の教会の誕生(地上でのキリストの復活の体)と深く結びついています。

七週の祭り(過ぎ越しから49日)
七週の祭りには、小麦の初穂が捧げられます。
民が食べるという御国の観点では、四千人の給食(異邦人)と結びついています。

大麦と小麦の刈り入れまで(ルツ記2章)

 ルツの落穂拾いは続きました。
「大麦と小麦の刈り入れまで」――この表現は、二つのものが一つとなる時を象徴的に示しています。これは天の御国の完成と関係しており、神の祝福と贖いの完成に至る時の始まりであり、キリストと花嫁との婚姻の時がいよいよ近づいていることを表しています。

キリストの教会が誕生したとき、パウロは奥義としての天の御国の実現(異邦人の救いと花嫁なる教会)を示しながら、隔ての壁(敵意・律法)は十字架によって取り除かれたことを明らかにしました。隔ての壁が取り除かれるときというビジョンの結実は、神の民ユダヤ人イスラエル(残りの者)と異邦人キリスト者の一体を指す時です。

二つのものは、まったく異なる性質を持っています。
生まれも、考えも異なり、聖さも選びも、特権も祝福の約束も――何一つ相いれないというのが、それぞれの正当な主張として相応しいのです。事実、キリストが十字架によって敵意を廃棄されたにもかかわらず、初代教会の時代からこのことは成熟したキリストの真理に達することなく、人間の肉の思いがくすぶり続けてきました。

ナオミが死の道を歩み、モアブの地で夫と息子たちの死を経験し、呪いの結末を受け取ったとき、そしてそこから歩むべき道の向きを変えて主の地に戻ろうとしたとき、モアブの女ルツは彼女と一体であることを懇願しました。ルツには、そうしないでいる権利が当然認められていました。ルツがナオミと共にありたいと懇願した理由について、聖書はナオミの信仰の良さを解説しているわけではありません。ただ、ルツの応答があまりにも美しく心を打つため、その素晴らしい応答のゆえに、ナオミの信仰の程度を想像しているにすぎません。
その意味で、学ぶべき事柄としては、ナオミの態度に対するよりも、やはりルツの姿に着目したいと思います。

パンの家である主のおられる地から離れ、異国に向かい、呪いともとれる嘆きの道を行く――死の道を行くその者に、復活のいのちの贖いを得させるために、ルツの完全な従順がボアズ(主)との子、つまりナオミの嗣業として受け継ぐべき子を生まれさせた結果を見れば、この証の中に、神がどれほど天の御国の完成を求めておられるかが分かります。
それは、教会と神の民の一体、教会が完全にキリストの心を得て、キリストの似姿において全き従順に至るところから始まる神の業があるのです。
そして、それは、主ご自身の忍耐によって、地上の証人たち――キリストの似姿である者たち――に対して、ずっと待望されてきた主ご自身のビジョンです。

これは、神の民イスラエルと異邦人の教会との関係性だけを証しているわけではありません。
教会の真理について考えてみても、同じビジョンが存在します。

一つの体を求めるとき、そこには、相いれない存在・考え・失敗・非合理・そして批判など、隔ての壁があり、当然主張されて当然な権利が存在しています。ルツがナオミから離れる権利を有していたように、一体となりえない、「死の道を行く者」と混同できない状態があるのです。ある場合には、罪の呪いとして、一体となるべきでない裁くべき事象さえ存在します。
教会の歴史は、幾世代にわたってその一致を失ったままであり、成熟に至っていませんでした。一つの側面だけを見ても、それは明らかです。教会と選民イスラエルとの関係において、なお神の御国がこの地で実現せず、天の御国が到来していないという事実が、それを証しています。そうであるならば、キリストの御体である教会自身の中に、そのような姿があったはずです。主の日の「一人の完全な人」として、成熟していないのです。

しかし、神の心は明らかです。

もし「神の目に、完全な恵みを得る」のであれば、死者の復活がどのようになされるかは、「キリストの道」によって明らかになります。キリストは、御父に対して全き謙遜と従順をもって、全き純真であられました。
もし、ルツのように神の人がその心をもって、死すべき体の一部(ここでは、受け継ぐべき相続地から離れたナオミを取り戻すための彼女の生涯)を、受け継ぐべき嗣業の願い(御国の命を求める)をもって主に求めるなら、主はそれを愛されます。一つとなった運命の人として、愛すべき失われた者を生かし、養うために、自分の権利を捨て、卑しくして母に仕える(神への)奉仕――落穂拾いをすることは、終わりの日に主が求められ、待ち望まれていた事柄であり、主の愛する者の姿なのです。

モアブの女ルツに対して、主(ボアズ)が「安心しなさい。あなたの望むことは何でもしてあげよう」と語りかけたように、神は死んだ者たち(死んだもの=神の道から離れてしまった者)を前にして、全く異なっている人のために一つとなって神に望みを抱く人――しばらくしてキリストに結ばれることとなる花嫁となる人――の嗣業の回復を約束されます。

これは、主が買い戻しを実行し、相続の所有者として立てられる子を、彼女によって生み出されることを示しています。死んだ者のために――究極的には、神のイスラエルが慰めを受けるためには、愛して娶られたモアブの女ルツのように、主の花嫁(教会)――神を愛する主のしもべ――が、完全な従順を持つことが必要なのです。

そのへりくだりの先には、人間的な功績を得ることはできません。しかし、ただ主だけが、それを尊ばれるのです。キリストご自身が、そのようにして罪と死の支配の中にあった私たちの救いとなられ、贖いを全うされたように。
 

ルツ記 3~4章 贖いの主の道

ルツ記の贖いのテーマをつづけて考察します。

【考察の要約】

・ナオミの友人達がルツを7人の息子に勝ると表現した。この言葉に啓示的なメッセージが隠されていると信じます。
・サドカイ人と主イエスとの復活論争に7人の兄弟の話がある。嗣業に関するレビレート婚について論じ復活について論じた。この話も御国の相続を真に受け継ぐということが、上からのいのちによる、という観点が示されていると思われる。人の手による方法ではなく、贖い主によってであるということ。
・ルツ記に照らして、異邦の娘ルツの自己犠牲的な愛と忠実さが、彼女自身の行動の中に主の贖いの型が描かれ、ルツがキリストの贖いの道を踏むことによって、終末における世界の完成がなされる」という教会の参与的・終末的贖いの道としての聖書全体を貫く救済史の流れが存在している。
・主の贖いのとき、花嫁となるべく女の行動とこの世界(ナオミ)が一体となって描かれている。
・キリストによって実現した贖いが、律法という名のない友である近親者ではなく、愛する動機によって捧げてくださる主によってなされた。同じことが、終わりの日に、主の愛の動機によって自らを捧げる花嫁を通して、この世界に対してみこころは果たされる。つまり、律法にとどまらず、愛によって捧げられる贖いと、その道を終わりの日に花嫁なる教会が踏みしめるという視点
・終末論的な意味合いで、主の日の完成、つまり、主が再びこられるまで、神の国の地上での写しとして、パンと杯がおぼえられるとき、イエスご自身も神の国であなたがたと飲むその日まで、と、御国の完成を主の誓願のようにして、待たれていた。この視点で、ルツ記の物語には同様の神のビジョンが置かれている。
・ボアズとの関係により生けるものである、ルツが贖われるゆえに、また贖いの愛がルツを通してナオミに向けられるゆえに、ナオミが死の中から引き上げられて、ルツと主と共に、永遠のいのち、ナオミにとっては復活の命にあずかり、死すべきものであったものと(神の命の民と神の贖いの民と) が一つのものとされて完成する、というビジョン。
・キリストはどのようにしてこられたのか。ペレツの名には、「裂けでる者」の意味が込められている。ユダがタマルによって、キリストの系図を残したのは、人の手、人間的なあるべき道を超えた神の介入・神の愛の動機を覚える。
 

復活の型

 信仰の核心に触れるテーマとして、ルツ記における贖いの物語を、単なるダビデの家系の保存や律法の履行にとどまらず、神の国の相続と永遠のいのちの啓示に及ぶ神学的ビジョンを確認していきたいと思います。
ナオミは「私は満ちて出て行きましたが、主は私を空にして帰らせました」(ルツ1:21)と語りました。夫と二人の息子を失い、彼女の名(ナオミ=喜び)は「マラ=苦しみ」に変わりました。これは、死の中にある者の象徴的な姿です。彼女は社会的にも、家系的にも、霊的にも「死んだ者」としてベツレヘムに戻ってきたのです。
しかし、ルツがナオミを愛し、共に帰還し、ボアズのもとに身を伏せ、贖いを求めたことによって、ナオミの「死」は反転し、いのちへと引き上げられます。
ルツ記4:15では、近隣の女たちが言いました。「彼(オベデ)はあなたの魂を生き返らせ、あなたの老いを支えるでしょう。あなたを愛する嫁が彼を産んだのです。その嫁はあなたにとって七人の息子にまさるのです。」
ここで「魂を生き返らせる」という表現は、ナオミが死の中から引き上げられたことを明確に示しています。これは単なる慰めではなく、復活の型です。
 

サドカイ人との論争との接点

マタイ22章やルカ20章に、復活を否定するサドカイ人たちは、イエス様に対してこう問いかけました: 「七人の兄弟がいて、長男が結婚したが子がないまま死に、次々に弟たちがその妻を迎えたが、誰も子を残さずに死んだ。復活の時、その女は誰の妻になるのか」。

 息子は家系の継承者であり、ユダヤでは社会的保障の象徴でした。特に「七人の息子」は、詩篇113:9やⅠサムエル2:5などに見られるように、神の祝福の完成形として描かれます。これは、この世における最も保証された嗣業の象徴です。それにも関わらず復活の論争理論では、この制度の元では、復活の際に正しい相続関係を得ることができないではないか、という表明でした。

 七人の兄弟は皆、律法に忠実に従い、兄の名を残すために妻を迎えましたが、誰一人としていのちを残すことができなかった。このたとえは、律法による相続の限界を突き付けた話でもあります。
この話は、そのまま、永遠の命の嗣業について思いめぐらせます。サドカイ人から出た理論とはいえ、律法の行いによっては永遠の嗣業に至ることができないという、霊的現実を象徴しているように思えます。

しかし、主イエスは復活について、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と語り、復活=永遠のいのちの嗣業は、律法制度ではなく、神との生ける関係の中で受け継がれること、律法ではなく神のいのちによって与えられることを明らかにされました。「復活にふさわしい者たち」のことを、律法を守った者たちとしてではなく、神のいのちに結ばれた者たちについてそのように言われました。

ルツ記4:15で語られる「七人の息子にまさる」という言葉は、この世の祝福を超える霊的な嗣業を受けたことを示しています。
この世の制度での最大の祝福のかたちをもってしても、永遠の命の嗣業を確約することはできません。「7人の息子」の限界を象徴しており、それに対してルツの物語は、信仰による新しい相続の道を示しています。
つまり、「七人の子にまさる」という表現は、この世の血肉による方法を超えた神の贖いに基づく命の嗣業を受け継ぐことの特権を表しています。

ボアズは「ゴーエール(贖い人)」として、ナオミとルツの失われた相続を回復しました。ここに、人間の力ではどうにもならない状況に、贖い主が介入するという福音があります。ルツ自身は自分を贖う力を持たず、ただ信仰と忠実さによってボアズの憐れみに身を委ねました。これは、ただキリストの恵みによって神の国を受け継ぐという真理を示しています。さらに、ルツは、ボアズとの結婚を通してオベデを産み、ダビデ王の系譜に連なりました。
 

ナオミを愛して捧げたルツの姿:贖いの型

 ルツは、ナオミのために自らの将来をささげ、イスラエルの神に従う道を選び、異邦の地からイスラエルへと帰還しました。彼女の選択は、血統や制度ではなく、信仰と愛によって神の国を受け継ぐ道を示しています。この姿は、永遠のいのちを受け継ぐ者の姿です。ルツは、目に見える嗣業を求めたのではなく、信仰によって受け継ぐ神のいのちに連なる嗣業を求めたのです。そればかりか、自らをして、他者を生かすために捧げる愛(アガペー)を表したことは、「自分のいのちを捨てるほどの愛」(ヨハネ15:13)を体現しています。彼女の行動のうちに、贖いの道を歩まれるキリストに似た者が、終わりの日にあらわす贖いの主の御姿の反映を待ち望む型として、神ご自身の、主の花嫁である教会へのビジョンを覚えて、ルツ記を学ぶことになります。

ルツの行為は、人は自らを救えず、ただキリストの恵みによって贖われるという福音の真理を象徴します。ボアズは神の律法に従い、ルツを贖い、彼女を妻として迎えました。この行為は、キリストが花嫁なる教会を贖い、愛をもって迎え入れるという新約の成就を描いてもいます。ルツの忠実さとボアズの贖いによって結ばれて生まれたオベデは、ダビデの父となり、やがてメシア・キリストへとつながる系譜が築かれました。

エペソ1:11では、「私たちはキリストにあって御国を受け継ぐ者とされた」と語られています。これは、キリストの贖いによって与えられる永遠の嗣業を意味します。
ルツは、ボアズの贖いによって相続の回復に参与しましたが、単なる土地や名の保存ではなく、メシアの系譜に連なるという永遠の計画への参与、永遠のいのちの系譜を担う者となったのです。

さらに言えば、ルツを教会の姿としてなぞらえたとき、終わりの日のこの世界の贖いは、主が愛されるしもべのキリストに倣う贖いの道を踏むとき実現する神の御計画が秘められているように思います。

ルツは異邦人でありながら、ナオミ(イスラエル)に従い、イスラエルの神を選び、律法に従って生きます。ここに、異邦人を含む教会がイスラエルの神を信じるものとされ、御言葉に従って歩むものとなった姿を象徴します。彼女の「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民」(ルツ1:16)という告白は、異邦人教会が霊的イスラエルに接ぎ木される(ローマ11章)ことの型とも言えるでしょう。

ルツは、ナオミのために自らを捧げ、ボアズのもとに身を伏せ、贖いを求めました。教会がキリストのもとにへりくだり、贖いの完成を待ち望む姿と重なります。ルツがボアズの「覆いの裾」を求めたように(ルツ3:9)、教会もキリストの権威と恵みの覆いの下に入って求めるのです。

ナオミは、パンを求めて帰還したイスラエルの姿を象徴します。ルツの忠実さとボアズの贖いによって、ナオミの失われた相続は回復されましたが、この世の終わりに臨んで、教会の忠実さを通して、神の民の回復と神の国の完成がなされるという預言的構図に重なります。

ルツの歩みは、キリストの花嫁としての教会が、終末において贖いの完成に至る場面を象徴的に描いているように思います。彼女の忠実、へりくだり、そして信仰による応答は、主の日に終末の教会が歩むべき道そのものです。ルツ記は終末の教会の姿を映し出す預言的な鏡として、ルツの道に、キリストの贖いの道を共に歩む教会の姿を啓示しています。

名のない近親者 : 律法の無力さ

 ルツ記4章で登場する「名のない近親者」は、律法に従えば贖う資格を持っていたにもかかわらず、自らの嗣業を損なうことを恐れて贖いを辞退しました。彼は律法の枠内にとどまり、愛によって自らを捧げることはしなかったのです。これは、律法が持つ権利と限界を象徴しています。彼の行動は正義の範疇かもしれませんが、愛によって自らを捧げることはないために、神のビジョンに到達しません。

この「名のない者」は、まさに律法の無力さと匿名性を象徴しており、いのちの書に名を記されない者という暗示すら感じさせます。
それに対してボアズは、律法の枠を超えて、愛の動機によって贖いを引き受けた者です。彼はルツの願いによりナオミの相続地を「買い取る」だけでなく、ルツを「迎え入れる」ことを選びました。これは、律法ではなく、愛によって贖いが成就するという神の国の原則を映し出しています。キリストが律法の要求を満たすだけでなく、愛によってご自身を捧げられたという福音の核心と重なります(ヨハネ10:18「わたしは自分のいのちを捨てる」)。

この視点に立つと、「名のない近親者」も「七人の兄弟の物語」も、真のいのちの相続は、愛によって捧げられる贖いを通してのみ実現するという、終末的な福音の型として浮かび上がってきます。

誓願の祈り : 整えられた花嫁と御国の完成

 主イエスは最後の晩餐でこう語られました。 「わたしは、今から神の国であなたがたと新しく飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを決して飲むことはない」(マタイ26:29)

これは、主ご自身が御国の完成を待ち望んでおられるという、誓願にかたどられる表明です。パンと杯は、地上における神の国の写しとして、教会が主の来臨まで記念し続ける証しです。

 終わりの日に向かって花嫁なる教会の応答について何が求められているのか考えさせられます。黙示録19章では、「花嫁は整えられた」とあり、単に受動的な救いの時を待つのではなく、愛によって自らを捧げる応答的な贖いの参与を意味します。律法の制度を満たす花嫁をではなく、愛によって応答する花嫁(教会)との交わりの完成を待っておられるともいえます。その愛を為す姿において、花婿にとって、完全に清く美しい者、花婿にふさわしい者として、傷なく立たせられ、整えられたとき、待ち望まれた花嫁としてみられるのではないでしょうか。

 終わりの日、教会は花嫁として整えられ、主の愛に応答して自らを世に捧げる者となる――自分の十字架を負って私についてくるものでなければ、私の弟子になることはできない。と主は言われました。
「私をあなたの右に」と求めたとき、「私の受けるバプテスマを受け、私の飲む杯を飲めるか」と問われました。
神の命の交わりを前にして、兄弟の汚れを帯びたその足を洗う愛は贖いを前にした主のとられた態度でした。
そして、それは、私たちに求められた主の模範です。
人の権利としては、それを選ばないことも主張できます。しかし、「わたしはそのために来た」といって、ご自分を与えて、その愛の交わりに私たちを迎えられたのでした。

 私たちは私たちに罪を表す者に対して、その者を拒む権利があります。しかし、この世はいかにして贖われるでしょうか。救われ得ない者がどうして救われるのでしょうか。キリストがご自分をお捨てになったのでなければ、私たちは救われないのです。
ここに、ルツがナオミのために自らを捧げ、ボアズのもとに身を伏せた姿と重なります。
そしてその応答の先に、主が待ち望んでおられる「その日」——御国の完成と、共に杯を新しく飲む日——が主御自身によって置かれています。
キリストが愛によって贖いを成し遂げたように、終わりの日には教会が愛によって応答し、みこころが完成するのだと信じます。

「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:262)

 この「主が来られるときまで」という言葉は、定められた時間的な区切りというよりも、教会が花嫁として整えられ、主に迎えられるその日を定めており、その時まで、忠実に待ち望む姿勢を表しています。パンと杯の証は、キリストの真実を証しし、主の祈りに基づいてそれをアーメンであると告白する者の「誓い」と「待望」のしるしといえるものです。

この視点に立つと、ルツがボアズのもとに身を伏せ、「あなたの覆いを広げてください」と願った行為(ルツ3:9)は、教会が主の覆いの下に入り、迎えられる日を待ち望む姿と重なります。ルツはボアズの真実のゆえに贖いの完成を信じて身を委ねました。
主の杯は、「その日まで」主がご自身を父の右の御座で控えておられる中での誓願であり、教会はその誓願に応答して、忠実に、愛をもって整えられていくのです。

黙示録22章の「花嫁と御霊が言う、『来てください』」という祈りと重ねてみると、主の誓願の杯と教会の応答が、どれほど深く結ばれているかが見えてきます。
さらに、黙示録の終末的完成のビジョンである「神の幕屋が人とともにある」とは何でしょうか。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として共におられる。」黙示録21章3節
「幕屋が人と共にある」という言葉は、神がキリストにおいて贖いを完成し、ついに花嫁を迎え入れる住まいを設けられたという、主の愛の誓願の成就として読めます。

花嫁を主が迎えられるその日

 では、主の日はいつなのでしょうか。
今にいたるまで、贖われた者たち(神の教会)のそのいのちが、神の光を完全に映し出す程にはきよめられていないために、主がいまなお誓願なさるほどに、私たちに神の愛の心の全うを待っておられるのでしょうか。
ぶどうの実で作られた杯を、主が「その日まで飲まない」と語られたのは、婚宴の成就を誓われた愛の沈黙です。ではなぜ、その日が今もなお到来していないのでしょうか (ある場合、ペンテコストの日にそれは成就したと読む解釈があることは知っています) 。その日が遅く感じられるのは、贖われた者たちのいのちが、まだ神の光を完全に映すほど整えられていないからなのでしょうか。

黙示録19:7には 「小羊の婚宴が来て、花嫁は用意ができた。」とあります。

婚宴は「花嫁が整えられた」そのときに始まります。それまでのあいだ、主は「その日」を誓願の祈りのうちに、花嫁なる教会が神の愛に応答して整えられるのを待っておられるのです。

けれどもこの「まだ整えられていない」という現実は、人間の遅れだけではなく、神の忍耐の表れでもあるかもしれません。 「ある人たちがおそいと思っているように、主は約束したことを遅らせているのではありません。ただ、あなたがたに対して忍耐しておられるのです」(Ⅱペトロ3:9)

神の光を映すには足りない私たちに、なおも慈しみ深く「整えられる時」を与えておられる。主の沈黙は、待望する愛のかたちとしてあらわされています。そして、今、私たちは地上で主を待ち望んでいる。それは、まだ整えられていないことの嘆きであると同時に、整えの只中を歩んでいる証でもあります。ルツが、すぐに結婚の喜びに与ったわけではなく、ナオミと共に耐え、畑で拾い、ボアズの足元に身を伏せたように、教会もまた、待ち望みつつ整えられるのです。

主は、「その日」を知りつつも、私たちの歩みの先に、その日を忍耐して見出しておられるのです。
「神の光を完全に反映するほどには清められていない」という現実は、教会の告白すべき悔い改めであると同時に、希望のかたちをした祈りと言えます。主は私たちにその完全さを不完全な心のままで強いてはおられず、愛による応答の成熟を、花婿として誓願の祈りをもって待っておられるからです。このことは、教会が一人の成熟した人として主の姿に似せられ形作られていくビジョン、完成を主が待ち望まれているビジョン、また御国の完成のビジョンとも同義です。そして、この完成の鍵こそ愛です。

「エルサレムの娘たちよ、お願いです。愛が目覚めたいと思う時までは、それを呼び起こしたり、かき立てたりしないでください。」- 雅歌8:4

同様の表現が- 雅歌2:7、3:5と繰り返されます。

愛は強制されるものではなく、自由な応答として目覚めるべきものであるというメッセージを含んでおり、霊的には主が愛する者の愛を待っておられます。終末の読み方においては、主が愛する者のうちに主の愛の内実が呼び覚まされること・整えられることを待っておられるともいえると思います。
雅歌5:2では、花婿が戸を叩くが花嫁がすぐに応じないという描写があり、今に至るまで、教会は、そのようにして主に「愛の応答を待たれて」います。

整えられた花嫁を主が迎えられるその日、主の杯は新しく飲まれ、いのちの水は尽きることなく流れ、光を反射する都のように、贖われた者たちが神の顔を映す存在となるでしょう。キリストの愛の御姿は花嫁と一つとされているからです。 

パンと杯

主の誓願のなかに宿る深い愛と、今なお整えられていく花嫁の道が、私たちの地上の歩みのただ中にあります。
主が「その日まで」と誓願されたぶどうの実の杯について、御国の完成を待っているという現実があります。しかし、一方で、主の集会のまじわりの中では、その日を先取りするように、パンと杯が御国のものとして味わわれている——この霊的逆説のように感じられる構図の中で、私たちは主の思いを受け止めます。

主が語られた「新しく飲むその日まで」(マタイ26:29)は、教会を花嫁として迎える婚宴の完成の時を指しています。しかし、教会は神の愛の成就の場として、また、互いに赦しあい、神の贖われたいのちの中に互いを負い合う御国の交わりとして、主の杯を「空のまま」記念するのではなく、神の国のしるしとして、あなた方の罪を赦すために流されたキリストの血を新しい契約として覚えつつ、いのちの交わりのうちに味わっているのです。

兄弟姉妹が愛において一つとなるとき、その交わりの場には、天の御国の光景が映し出され、そこには、キリストの(贖いの愛の)栄光があるのです。
主の愛がその場に淀みなく、濁りなく、すきとおって、私たちの命として流れるとき、人々はパンと杯の交わりを証しする主のしもべたちのうちにキリストの姿を見るようになります。

世は、彼らの交わりのうちにキリストの栄光を見る
これはまさに、主が弟子たちに残した祈りの成就です。

「彼らが完全に一つとなるためです。そうすれば、あなたがわたしを遣わされたことを世が知るようになります」(ヨハネ17:23)

交わりの家が、主の杯を分かち合いながらも、時に痛みや断絶を経験してしまうことを、主は誰よりもご存知です。罪人であるがゆえに、汚れた足のものが愛の交わりの食卓に着こうとします。あの兄弟あの姉妹だけではなく、私自身を含めてそうなのです。私たちはそこに、罪びとを咎める生まれながらの性質を有しており、汚れに触れたくない清い自負心があります。キリストと同じ愛となっていない私たちの心のうちに、すでに私たちの穢れがあらわになっているにもかかわらずです。その交わりは主の命の表れではありません。
しかし、はじめから、主の唯一のみこころは私たちに与えられています。主が私たちに何を求められたかは、ただ、一つのことでした。そして、私たちが一つのものとされるとき、教会はその証を世に保ち、神の愛が世に対して実行されます。神が愛しておられる世が救われるためです。キリストが御国の完成を待ち望まれたように、世が贖われる主の日を主は定めておられ、私たちが整えられる日を待っておられます。
主は天の御座で、その日までは杯を飲まずに、愛の完成を、待たれます。交わりの場に注ぎ出されるご自身のいのちのすきとおる純真さ、透明さを、待っておられるのだと思います。

聖餐とは、キリストの愛と赦しを中心にして交わり直し続けることの営みであり、そのたびに、主がご自身の誓願を思い起こしてくださっているのだとすれば、主の心を知るが故に悔い改めて、主の足元にひれ伏すよりほかありません。

この黙想を深めていくと、礼拝行為としての聖餐の先に、神の幕屋としての教会の共同体そのものが、主の杯に応答する「生ける場」であるという神のみ旨が、示されていくように思います。

先の真実と後の真実

ルツのナオミへの献身と愛は、主が贖いを前にして余すところなく愛を示され、仕える者となられた姿をおぼえさせられます。贖いの動機に神の愛があることを知り、この愛において、主を模範とするものとして祈られています。
死の道を歩むナオミと運命を共にしました。ナオミが孤独のなりゆきのままであったら、彼女は自分の失敗の先に滅びが待っていたであろうと想像できます。しかし、ナオミを愛したルツは彼女と一つになる決意をもってナオミに寄り添い仕えました。まるで彼女と死のバプテスマを共にするかのよう覚悟でした。

これは、贖われた者に対して、はじめ、キリストがなされたことですが、地上で、主の真実に頼るものが、同じような種類の贖いの道をたどりつつ、地上のキリストのからだである神の教会がキリストの似姿にされ、その愛を主と同じように表す臨界点の時、すなわち主の日の物語を見ているかのようです。

贖いを必要とする者との運命を共にしたこと、これが、ボアズがルツに語った「あなたの先の真実(ルツ記3:10)」だと思います。

そして、「彼女の後の真実(ルツ記3:10)」とは、復活の命(買い戻しを受ける)のためにボアズ(買い戻しの権利のある誠実な方)のもとに頼ったこと。ここに、「キリストと共によみがえらせられる」という、贖いのプロセスを死者の道を行ったナオミとひとつになって蘇りのキリストに下ったことが、後の真実だと思います。

キリストとともに死にキリストと共によみがえる。ことに、終わりの日に当たって、神の教会は、キリストの心を完全に表すものとして、贖いを必要とする世と一つとなってキリストと共に死に、贖われる世と一つとされてキリストともに甦らされる、そういう命の共有の中にある霊的なバプテスマの行為のうちに、ルツの真実(ヘセド=愛)があると思います。

彼女のその姿には、愛さなくて当然のものに対して主がされたのとおなじ似姿の贖いの本質の愛があらわされたのを見ることができます。
また、教会の交わりの中にあって、その愛を、主は主の日の完成を待ち望まれて、私たちに愛の命令だけを与えておられます。それを知るときに、そして、それがパン裂き礼拝の中にあらわされていることを覚えるとき、兄弟姉妹との交わりに関して、また、この世に対して、その愛について、悔い改めさせられます。

ルツが死の道を行ったナオミと共に(ナオミを生かすために)歩む覚悟を決めたその姿は、まさに「わたしのためにいのちを失う者は、それを得る」(マタイ10:39)という、キリストの自己犠牲の愛の型でした。そしてその献身が、単なる家族的な愛情や忠義を超えて、贖いの動機として愛がいかに深く、不可欠であるかを預言的に照らしています。

終わりの日に臨む世の贖いとは、愛によって下られるキリストの姿を教会が帯び、愛される資格のない者に対する愛の応答をもって、主と同じ道を歩むことの中に果たされると信じます。

主の真実を信じる者の、キリストの「愛の似姿」の臨界点に、主の日の完成を見出すという光は、まさに黙示録の花嫁の整えの本質です。「死者の道を行くナオミと一つになって、キリストにくだっていった」——この霊的イメージは、教会が世の痛みと断絶と共に自分の十字架を担いながら、なお復活の希望に生きるという主のみ旨に共鳴しています。

主が与えてくださったのは多くの命令ではなく、「互いに愛し合いなさい」というただ一つの新しい命令(ヨハネ13:34)でした。その一語に、すべての応答と整えが含まれていることを、思い起こさせます。

御国の完成に向かって、私たちの礼拝が、主と心を一つにして、「御国が来ますように」と祈るものとなりますように。

主が弟子たちの足を洗われた場面——ヨハネ13章——そこには、ご自身が贖いへとささげられる直前の、愛の極みのかたちが現されました。そして、その行為はただへりくだりのしるしではなく、「模範として」示されたものでした。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」(ヨハネ13:15)

ルツがナオミに仕えた姿は、まさにこの主の模範の影として、贖いを前にした「へりくだりの愛」の型のように見えます。彼女はナオミから離れる当然の権利を有していました。彼女は若く自分の人生を若い女たちがするようにやり直す機会がありました。しかし、彼女の行動は、神の真実を信じた信仰から出たものでした。義務や制度の履行ではなく、愛さなくて当然の相手に、あえて仕えぬく愛の応答であり、それはキリストの愛により照らされて、教会が歩むべき道の預言的なかたちであると私は黙想します。

そのようにして、ナオミと生死を共にする決意、主の足元に伏して身を任せる信頼、それに対して開かれたボアズの贖い——それらすべてが、贖いを必要とする神の民(世)とキリストと教会との関係を表しています。

ペレツの系譜 : 裂け出る者 贖い主なるいのちの介入

 4章には、ペレツ(裂け出る者) に始まる系図のことが記されています。

 この裂け出る特別な神の介入なしに、救いのビジョンは与えられません。
主イエスもまた、神であられたにもかかわらず、「神のかたちを捨ててしもべの姿をとられ、死に至るまで従順であった」(ピリピ2:7–8)。その贖いのわざは、天の裂け目からでる行為であり、愛を動機としたものでした。

 私たちが敵を敵としている限りには、世は贖いを受けることはできません。この世は罪深いのです。それゆえ、主のしもべはこの世で苦しみを負うのです。苦しめられ、痛みがあります。なぜ主のしもべに苦難があるのでしょうか。苦難を経なければ世は贖われないのでしょうか。世が罪深いからです。世が死の道を行っているからです。なぜ、教会の中に分裂があるのでしょうか。なぜ正しいものが苦しめられるのでしょうか。すべてが罪の故です。しかし、神の人が、当然の報いとして世に接している限りにおいては、世は立ち返れません。誰が隣人になるのでしょうか。特別な、異常なことが、神の介入が、上からの力が、なければ、罪びとは自分の罪のうちに死ぬことになるのです。

・・・誰も天に上ったものはいない、天から下ったものがいる。すなわち人の子です。

どのようにして救われるのだろうか、どのようにして新しく生まれるのだろうか。どのようにして新しい命を受けるのだろうか、贖い主への問いがここにあります。

 タマルが、ペレツが、ラハブが、ルツが・・・キリストはどのようにしてこられたのか。ペレツの名には、「裂けでる者」の意味が込められています。ユダがタマルによって、キリストの系図を残したのは、人の手、人間的なあるべき道を超えた神の介入を覚えます。ぺレツの誕生は、制度や人の順序を超えた、神の介入によって開かれた裂け目として始まりました。ユダとタマルの関係は、人間的には不正とも見えるほどに「整っていない」道でした。しかし、神はそこに手を伸ばされて、メシアの系図を開かれました。その神の真実に、目を止めます。

 ルツの行く道も、ボアズが選んだいのちの道も、人が自分自身の当然の権利を主張できる当然の道、によってではなく、愛の動機によって、通常の道ならぬ命の贖いの道をきりひらいたものでした。そして、それが私たちのために主がしてくださったことでした。ヨハネ3章でイスラエルの救いを待ち望んだラビであるニコデモが神の国の相続について、永遠のいのちについて、主イエスに、どうして、そのようなことがおこりうるでしょうか?と言いましたが、主イエスは誰も天に登ったものはおらず、下ったもの、すなわち人の子がいるとお語りになりました。続けて、「神は実にその一人子をお与えになるほどに世を愛された」(16節)と証しされます。
神の「愛」が贖いを実現し、神の天を裂かれるほどの人手に依らない業を覚えます。
ペレツの子孫として人の弱さの中に、罪の中に、メシアの約束を神は与えられました。私たちが、新しいいのちをいただいて生きるようにされたのは、主の哀れみによります。

ニコデモとの対話、そして十字架と復活に至るまで、すべての流れがひとつのことを指しています。
贖いは、制度ではなく、愛によって始まり、成し遂げられました。ペレツの名のごとく、裂け出るものとして、人手によらぬ神の介入によって救いが実現しました。

「最も近い親類」は、贖いの権利を持ちながら、「自分の嗣業を損なってしまう」として身を引きます。律法の枠に生きる者として正しいかもしれませんが、愛においては踏み出しませんでした。彼の名が記されないのは、「贖いの物語に関与しなかった」ことの象徴でもあります。

仕える立場にいながら、愛をもって仕えることを選ばなかった者の姿と重なります。私たちは主の教えの中に、この世界の中で、主の集会の交わりの中で、どのような者であるのかを問われます。

ヨハネ13章で主イエスが弟子の足を洗われたとき、ヨハネはこう記します。
「イエスは、父がすべてのことを御自分の手に委ねられたことを知り…」
「それで、夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」

この表現は、万物の相続者であられるお方が、神の在り方を固執せず、自ら進んでしもべの立場をとられた愛の選択を示しています。
ボアズが贖いの責任を「当然の務め」ではなく、ナオミとルツのいのちを尊ぶ愛によって進んで担った姿と重なります。「贖いは誰によって、いかなる動機で果たされるか」というテーマがあります。

そこに見えるのは、人の名誉や正当性に立脚した贖いではなく、愛によって裂かれた神の道です。
キリストご自身の御体が裂かれて、血と水が流れ出、彼のあばら骨から、彼の骨肉である女が創られました。
主の手には、刺し通されたくぎの跡があり、復活の主は、信じない者にその手の傷を差しいれさせます。
神の御手には、買い戻され贖いを受けた者のその名が刻まれています。
一人ひとりその名を呼んで、ご自分の声に来るものとして召し出されました。
その者は、弱く愚かです。身勝手な者でした。
しかし、その者を主と共に歩ませ、主の声を聴き分けさせ、主の心を学ばせ、ついに、主の愛される者に相応しく、傷のない者、純真な乙女として花婿の前に立たせ、御父が御子を全く満足されたように、御父はその者を御子に満足される者として、キリストの御霊を生きるその花嫁を、清く美しく飾られた主にふさわしく整えられた者として、その日には、迎えられようとしています。

ルツ記に登場する「最も近い親類」は、律法にかなっているものの、自己の嗣業を損なうことを恐れ、贖いを辞退しました。ただの義務や形式を満たすことによってでは、御国は来ません。

この世は何によって贖われ、どのようにして贖われるのか。
神の愛に基づかないでは、贖われることはないという聖なる基準が示されます。
神の道が、愛によってしか全うされないことを語っています。

主の愛する者一人ひとりに、主がその模範をもって贖いを全うされたのなら、私たちはそれに倣って、地において(※1)愛のへりくだりを身に帯び、この世のいのちの裂け目に身を置く者とされていく。

――この道の終わりに主が臨んでくださるなら、
それは、完成への祈りの中で、
その手を取っていただく瞬間なのかもしれません―― (※2)。


以上にしたいと思います。

 

(※補足1)

地において、すなわち世に向かってのみならず、天(集会の交わり)においても同様です。 

(※補足2)

最後の詩的表現は、学びの結語として採用しました。
この一文は、贖いの物語の終着点を詩的に描いたものです。
来臨の主が花嫁を天に引き上げるその瞬間――すなわち、贖いの完成と愛の成就の象徴としてです。「世の贖いのために、愛の業に身を置いた者」に対する主の応答であり、愛による迎えです。
ペレツの誕生における神の介入、ルツとボアズの婚姻における贖いの選択、そしてキリストの十字架と復活に至るまで、すべてが一つの流れの中にあります。裂け目に身を置いた者――苦しみとへりくだりの中で主の心に従った者――が、終末において主の御手によって引き上げられる。花嫁としての主の集会の召しがそこにあり、主の愛の完成がそこにあります。
「その手を取っていただく」に込めた象徴
• ペレツの手:裂け目から生まれた者として、神の介入によって引き上げられた命の象徴。人の秩序を超えて、神が裂いて開かれた道から出てきた者の手は、神の御手によって導かれた者です。
• ルツの手とボアズの手:異邦人でありながら、信仰と従順によってナオミの贖いの道に加えられたルツ。その手を取ったボアズは、律法を超えて愛によって贖いを果たした者。これは、キリストが花嫁なる教会を迎える姿の型です。
• 終末における整えられた花嫁の手:裂け目に身を置いた犠牲者としての教会――苦難とへりくだりを経て整えられた者が、ついに花婿であるキリストに手を取られ、御懐に引き上げられる瞬間。それは、贖いの完成であり、愛の成就です。