礼拝・学び 速記メモ

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20031026日(日)

 

――教会の真理――


マタイ16:18「」
ここにイエス様はペテロに対してこの岩の上に私の教会を立てるといわれた。これはペテロという人間の上にではなく、ペテロの信仰告白の上に教会を立てるという意味である。
ここには教会の真理についてかかれてあるが、この教会の真理は新約の中ではじめてあきらかにされた真理である。
聖書の中には、神の選ばれた民について二つの選びを示している。
一つはイスラエル民族であり、もう一つはイエスキリストを主と告白する群れである。
神の選びと計画は私たちに対する恵みを覚えさせられる。

イスラエルの選びについて、まず申命記6:7には地の全ての民からご自分の民を特別に選んだことが書かれてある。
そのようなイスラエルを祝福するものは祝福し、イスラエルをのろうものを主はのろうとさえ言われた。ここにイスラエルがどれほど選ばれた特別な民かがわかる。

それゆえ、どの時代でもイスラエルに対して好意を示した民は繁栄した。しかし、イスラエルに暴虐を行った国は滅びていくこととなった。

以前、バーンさんという人と話をした。
彼は大阪の集会の人が自分にとてもよくしてくれたことを説明した。
彼はイスラエル人であったが、彼がイスラエル人だからというので、余計に良くもてなされたというのだ。そのような理由であると聞くなら、彼としては複雑な喜びであったにちがいないが、それほどイスラエルは地の選びの民としては特別である。

ローマ「」
イスラエルが頑なになったのは異邦人が救われるまでとある。神の選びは今でも変わらない。神の計画は今でも、イスラエルの中に生きている。千年王国もまた、イスラエルが舞台の主人公として登場する。
イスラエルに対する神の選びと祝福はどれほど偉大であるかが覚えさせられる。
イスラエルはしかし、あくまでも地の民である。神の教会の真理に対しては目が閉ざされている。彼らに教会の真理をいくら語っても理解しない。

さて、ダニエル書9章には70週の期間のことが書かれているが、ここには、救い主が来られ、そののちすぐに大艱難が訪れることの預言が記されている。
この範囲の中において完結するなら、ユダヤ人の理解の中に教会という概念が無いということになるのである。
それゆえ教会の時代は彼らの理解の中では「空白の時代」である。しかし、教会の選びは隠された真理であり、奥義である。
私たちが神の教会の一員であるということは、イスラエルの選びに勝る特権と祝福なのだ。
エペソ1:4-12「」

ここに、神の教会に属するキリストを主と告白する者・私たちのことを言っている。
私たちに対する神の選びはイスラエルの選びに勝るのである。世の始まる前からキリストにあって選ばれたからである。さらに、この箇所と、コロサイ書をともに学ぶとき、神の創造は教会を抜きにしては無いということが教えられる。私たちの存在がなければ神の創造は完成しないとさえ言うのだ。
私たちは、ただ救われたという立場だけではなく、神にとってどれほど重要な存在なのか、ということなのである。

エペソ5:10「」
教会はキリストの花嫁として召されている。キリストにとって花嫁の存在があって初めて創造のみわざの完成がある。それほど、私たちはキリストにとって重要な存在であり、夫が妻に対する思いの如く、主は私たちを必要としてくださる。
アダムにとってエバ以外の素晴らしい助け手は見当たらなかったように、キリストにとって相応しい助け手は私たち以外にはいないと言ってくださる。御使いにではなく教会に対して言っておられるのだ。
黙示禄にある子羊の婚宴は、そこに私たちが存在することを物語っている。
神に対する私たちの存在感は偉大であり、驚きである。

イエス様を信じたユダヤ人が聖書の真理を教えられるときに、救いと神との和解について知るだけで驚きに満たされるようだ。そしてさらにキリストの花嫁としての立場を示されるなら、驚きのあまりもはや考える理解の範囲を超えているというのだ。
どれほど私たちにとって驚きであっても、しかし、教会の真理は事実である。このことは長い間隠されていた。救いと神との恵みによる永遠のいのちについてはよく教えられる。これは、私たちにとって必要なことである。しかしさらにこの教会の真理は「神の必要のため」の真理である。神が私たちを必要としておられる。
教会の中でも「集会」に集まる群れはこの教会の真理に対してより目が開かれていると思われる。
人間の必要の真理だけでなく、神にとって必要な真理として私たちの集う教会がどのようなものであるかを覚えることは大切である。神が与えた教会の特権と恵みをより深く学ぶなら、教会において主に仕えることの大切さが教えられると思う。
私たちの信仰の成長の段階で、私たちの必要のためだけでなく神の必要のために生きたいと願うようになる。
大人の信仰として、私たちは神の与えた特権と立場を認識して、主のわざを表す民となりたい。