礼拝・学び メモ

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003112日(日)

 

――キリストに支配される心――


マタイ15章15節-20節
15:15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
15:17 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

口から入るものではなく口から出るものが人を汚すのだと主は言われた。
私たちには悪い性質がある。だが、キリストを信じたとき、私たちに聖霊を与えてくださった。そしてキリストを信じ受け入れたものを聖いものとして受け入れてくださる。悪い本質に根ざしていた私たちを変えてくださる。

それは、主が私たちを支配してくださる、ということである。これは信仰によって与えられる恵みである。
人を汚すといわれた事柄は、罪の根源である。それが人を支配するとき、人は不幸である。しかし、それらが追い払われてキリストに支配されるものとなるなら、これらのことは、神様のわざである。主は私たちをきよい立場に入れるために御自身の命を与えてくださったのである。


Tテサロニケ5:23
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

ここで、パウロは主イエス様の再臨のとき、私たちの霊・魂・からだが守られるようにと言っている。
つまり、私たちの構成部分である霊・魂・からだが健全であるようにというとき、私たちのからだと心が密接につながっているように、霊的な健康のために魂やからだが健康であることを願われる。

心が病むとからだの健康が害されうる。強いストレスを持ちつづけると胃潰瘍になることはよく言われている。また癌にもなりやすい。思い悩む人はしばしばガンを治すことが出来ないが、前向きに生きるときは、少しでも回復するとということはよく聞く話である。
そのことを考えるなら、私たちの霊的な状態も、心の健全さと密接につながりがあると言えるだろう。
イエス様は私たちに「平安があるように」とおっしゃった。
神様の与えて下さる平安は、霊的な健康のためにもとても重要なものである。

神様の与えてくださる霊的な信仰の成長はとても大事なことである。クリスチャンの霊的な成長は、内面的な美しさによってよく表されるものであろう。しかし、内から出る美しさを表し得る、その信仰の成長はどのようにしてなることが出来るだろうか。
熱心だったら良いのだろうか。信仰に熱心になるとは、狂信的な信仰者のことであろうか。そういう人は時々、熱心である自分の内側に良いものを求めていることがある。
23節にあるように、霊的な成長は「平和の神」御自身が与えてくださるものである。自分の内側に求めるものではない。

マタイ10:37-39
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

39節には別の訳でこのように書いている。「だれでも自分の低い命を失うものは高いいのちを得ます」と。
イエス様の高いいのちに満たされることが霊的な成長ということである。自分の持っている本来のいのちは「低い命」である。主にある高い命はどのようにして得られるのであろうか。キリストの平和が私たちの心を支配されるときに、高い命が育まれると示される。
イエスキリストの支配こそ私たちを神によって高める唯一の方法である。
聖書は私たちを強制しない。自分の意志によってキリストに支配される心を私たちが望むかどうか、が、チャレンジとして問い掛けられている。
「あなた自身の意思によってわたしのことばを守るか」と問われている。

――キリストの支配をあなたの意思で望むだろうか。
ここに、私たちのとるべき選択がある。
これは言葉を変えて言えば「献身」である。主に自分をささげるということである。これは「キリストの支配に私は同意します」と言う意味である。

 あるキリスト教の絵画の中に、絵画の中のクリスチャンたちが遠くを見ている眼差しが描かれていた。
もし、私たちがイエス様に支配されるなら、私たちが見ているものはイエス様の見ているものを見るであろう。イエス様の思っていることを思い、イエス様のしたいとされることをしようと望むようになるだろう。
キリスト教の絵画の中でクリスチャンが遠くを見ていたのは、キリストが見ていたものを見ようとしていたクリスチャンの姿ではないかと私は思う。

ところで、モーセはシナイ山で神様と交わったのち山から下りるとき人々は彼の顔が光っていたのを見た、と聖書には記されている。
コリント書には、モーセの顔が光っていたということをいうとき、クリスチャンの神との交わりはそれにもまさる栄光があるのだ、と書いている。クリスチャンの立場を聖書は私たちに語っている。旧約の時代はごく限られた人だけが、神様の栄光に預かったが、新約の私たちには、それよりも高い立場と神との心の交わりを与えられているというのである。

クリスチャンと呼ばれる人は多く存在しているだろう。キリストの救いを喜ぶ多くの者がいるだろう。しかし、そのなかで、クリスチャンとされたなら、その特権を知り、かみを深く愛する者となり、キリストによって満たされるものとなるように願いたいと思う。