礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003119日(日)

主への不動の信頼

 

マタイ15章21節-28節
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 カナンの女の信仰を見られたイエス様は心を動かされた。
彼女の懇願する信仰の背景において、悪霊につかれた娘のために永く苦しんだであろうことが想像される。悪霊につかれた者を癒すことは本来とうていかなわない願いであったが、しかし、イスラエルの救いの預言者・主のうわさを聞いた。メシアのうわさを聞き、彼がこの近くに来られることを聞きつけて、彼女は主の御前に出てきたことであろう。
彼女は必死に救いを与えることの出来る主イエスに叫んだ。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、主は答えられなかった。そればかりではなく、度重なる懇願に対して、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と二度にわたって拒絶されたかに見える。明らかにイエス様の言動は、この女に対して冷淡に見える。
しかし、この女は主の冷たいと見える言葉に対して「主よ。そのとおりです。」と受け止めている。この女が苦しみに対してどのように対峙していたかを思わせる。永い苦しみの中にあって、なお現実の状態を見据えていた。

 人はしばしば、不幸の中や苦しみの中で、愚痴や不満を並べ立てる。それは、現実の自分をみつめないで苦しみの原因を他に転嫁している姿である。この女はどうだっただろうか。彼女はどうしたらこの苦しみがとりさられるか真剣にこの問題に対峙していた。
主は願い出る女を小犬と称され、それが彼女の立場であると示された。小犬と呼ばれることはあながち無礼である表現とはいえないかもしれないが、しかし、家の中にいる我が子と比して所詮、犬に過ぎない。彼女は自分の立場を理解した。しかし、その上で「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と主に求めた。

 この言葉と態度は主イエスの心を動かした。一介の被造物が天地を造られた神御自身の心に感動を与えている。

私たちが何らかの問題を持つとき、その問題から逃避し、愚痴を言って他者に転嫁するのではなく、現実を見据えた中から「主よ、あなたは私をお救いできます」と叫ぶなら、主は哀れみの御手をのべてくださる。


――主を待つ――

Tコリント 7章20節-24節
7:20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
7:21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
7:22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

ここに、「とどまっていなさい」と記されている。これは、ある場合厳しい言葉であり、私たちにとって困難な選択ではないだろうか。私たちの信仰生活の中で「待つ信仰」はとても簡単なことではない。苦しみを前にして攻めるか退くか――しかし、ここでは主は留まっていなさい、と言われる。ここには、耐えつづけるべき苦しい選択が迫られるのである。
 奴隷の状態であるなら「いつまでこのような状態にとどまっていなくてはならないのでしょうか」と言いたいであろう。神の子、祝福の子孫として与えられた立場を知るなら、なおのこと、現実の生身の自分の立場に対して「主よ、私の救いはここにあるでしょうか」と問いたいであろう。ここに信仰が問われる。

 神は私たちに最も善きものをお与えになる。
 神の計画は最善であることを告白するとき、主は「ああ、あなたの信仰は立派です」と言ってくださることであろう。苦しみの場で主のみ業を待ちつづけ、主を信じきる信頼こそまさに尊い信仰である。

Tペテロ 1章7節
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

神(のご本性)を知っている者にとっては、主への信頼は揺らがない。(神を知ることは私たちの主への信頼に導く)

神は私たちを宝石のように取り扱われる。原石のような私たちを磨き美しく光り輝く宝とされる。人はその輝きを増すためにスポットライトをあて、さらに引き立てるために真っ黒な敷物の上に置くだろう。同じように神は私たちを通して神の栄光をあらわすために苦しみの場をも与えられる。神はその苦しみの中にあって宝石の輝きのようにクリスチャンを輝かせるだろう。
 私たちが苦しみの中にあるとき、自分勝手に先走るのではなく、私たちがその苦しみの中で主への信頼の故に主のみわざを待つ信仰を表すことは主の目に尊い。主が、あなたの信仰は立派ですと言ってくださることは、私たちの喜びである。私たちは主の命令があればいつでも動くべきであり、いつでも備えているべきである。しかし、また留まるべきときは主のみわざを待つ。私たちのとるべき言動は、いつでも主への不動の信頼が、その礎にある。

あのカナンの女の、苦しみに対峙し、なお主を信じきった信仰から、私たちには教えられることがある。