礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

20031228日(日)

神の選びの価値

 

エペソ人への手紙 1章3節-5節
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。


 このところに、神様の選びについて記されている。神様の選びは、世界の基の置かれる前からキリストの内にあって選ばれていた。この選びを考えるとき、私たちに何か能力があったからではなく、また家柄や美しい私たちの何ものかがあったからではない。そうではなくただ一方的な神の主権によって選ばれたことをこの中から覚えることが出来る。なぜなら、まだ私たちの生まれる前に神御自身が私たちを選んでくださったからである。
 よく言われる、エリートということばがあるが、これは、「神に選ばれた者」という意味があるようである。神に選ばれる、そのとき、なにゆえそうなのかと問う。この選びは私たちの努力や熱心さによってではなく、神の一方的な主権であるから、私たちにとって完全なる受身である。ただ神が私たちに与えてくださったというこの事実を知り感謝するばかりである。

 私たちの救いが神の完全な主権による私たちにとっての受身であるなら、その後の信仰生活における神の賜物も神の導きも、やはり受身であり、主が一方的に与えてくださるものである。1章9節をみてみたい。

1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることである。

 神様は、救われた私たちにみこころの奥義を知るものとして召してくださった。それは私たちが神の奥義を知ることが許されているということである。しかし、それらは本来多くの者が知りたいと願っていても知ることが出来ないものである。
 この奥義をしることは全くの神からのものである事がわかる。使徒のはたらき1章では、復活の主が弟子たちに現れて多くのことを教えられた。弟子たちは教えを聞いた。弟子ペテロはその主御自身の教えを聞いていながら、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」とイエス様に尋ねた。
このときのペテロの状態は神様の奥義について未だ無知であった。彼の視野ではイスラエルのことしか考えることが出来なかったのである。しかし、聖霊が弟子たちに下ってのち、多くの人々に発したペテロの言葉は、預言者ヨエルのことばから始まって旧約聖書の時代から、神の御計画がいかなるものなのかを語り始めたのである。数段の霊的な視野の広がりが見受けられる。神の視野に立って物事を考え、語ることを許されたものの立場が明らかにみることが出来るのである。
 同じように、私たちクリスチャンにもその立場がある。

 先日、イラクで日本人職員の犠牲者が出たとき、その友人が弔辞を読んでいた。そこで悲しみとともに語られた言葉の中に「人はどこからでて、どこへ行くのだろう」というようなことが語られたことを聞いた。このことは、人々には理解されない理である。すなわちキリストのうちにないものには隠された事柄である。しかし、クリスチャンは神によって命が与えられ、キリストのうちに生きる命を知っている。それゆえ、今の現在は私たちにとっての寄留の地であり、また今ある現在の私たちの生かされている存在意義を把握することが出来る。なぜなら、私たちが神の視野に立つことが許されているからである。

エペソ人への手紙 1章18節-19節
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 パウロは私たちの望み、聖徒の受け継ぐものの価値を熱く語っている。私たちは今地上での旅路をしている。もうしばらくするなら、主が私たちを迎えにきてくださり、空中で主と会うというこのことが現実にくることを私は確信している。私たちは主とともにいて、その後、主が地上に再臨なさるとき私たちも主とともにこの地にくると確信している。そのときの栄光がどれほどのものかと想像するだけでも大変な驚きである。

 パウロはあなた方に与えられた受け継ぐべきものがどれほど優れたものかということを語るために、19節で「神のすぐれた力」が「どのように偉大なものであるか」といって受け継ぐべきものの価値を示している。ここには、ダイナマイトと同じ語源のドミナスと言う語と、エネルギアと言う語が使われている。彼は一節でその二つの言葉を用いることによって、主の与える賜物がどれだけ偉大なものかを伝えようとこのように表現しているのではないだろうか。

 私たちの救われたこと、そして、与えられた賜物に無知であるなら、そのことは主ご自身の損失である。

 賢明な王に息子があるとする。しかし、もし、その王子が自分の与えられた境遇・王子としての高い立場に無頓着な者であるなら、そのとき王の悲しみとなる。またもし王子が王としての責任を知り、訓練と知識を習得し職務を全うしようとするなら、王自身の喜びとなろう。

 同じように私たちは神の与えて下さる賜物や立場に対して無知であってはならない。私たちは自分自身で自分を判断するなら小さな者に過ぎないと考えるが、神の目から見るなら、私たちの故に、御子の命を与えるほどに愛し賜った命であるのだ。それほどまでに愛された、主のみこころを覚えて生きていくなら幸いである。