レビ記 10章1節-3節、8節-11節
10:1
さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。
10:2
すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。
10:3
それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。
10:8
それから、主はアロンに告げて仰せられた。
10:9
「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
10:10
それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、
10:11
また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」
Tコリント 11章20節-34節
11:20
しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21
食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
11:22
飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
11:23
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24
感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29
みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
11:31
しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
11:32
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
11:33
ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
11:34
空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。
このコリントの教会においては、主の晩餐は、食事を兼ねていたようである。主の晩餐――だが彼らが集まったとき、彼らの心の状態は、その食事をする姿勢に表れていた。
彼らの心の中には主を覚え、主の御前に出るというそのような状態にはなかったのである。彼らが神の教会に集まったとしても、そこに形式的に集まっているだけであって、心のうちに礼拝をする姿勢が整えられている状態ではなかったようである。たとえ形式に集まったとしても、そこには、彼らの心のうちにある「分裂」「ねたみ」また「虐げ」の心が表れていたというのである。
彼らは主の晩餐に預かっていながら、その心の中には異なった火を捧げていたのと同じような状態があったことが伺える。そのことを示すひとつの理由に「弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます」とある。あえてここに記されているのは神の御手の業の現れであるように考えられる。
コリントの教会の状態をみるとき、私たちの心の状態をも主の御前に吟味する必要がある。27節に「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とある。
神の前に出るということは、神を畏れ、畏敬の念を持って厳粛に御前に出なければならないことを教えられる。
ここに、「自分を吟味する」とはどういうことであろうか。
私たちが神の前に自分を吟味するとは神様が用意された捧げ物を持って出ているかどうかということがまず第一に考えられなければならない。
ある人は自分の罪というものに捕らわれてしまって、神の前に自分が取るに足らないものとであるという思いに固執するがあまり、あたかも御子イエス・キリストの血が我らを清めることができないかのように、重い心をもって神様の前に出るかもしれない。しかしそれは、主の備えて下さった捧げ物を軽んずるということになりはしないだろうか。これは私たちが自ら吟味しなければならないことがらである。
Tヨハネ1:7には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と書いてある。神ご自身が宣言しておられるにもかかわらず、あたかも神様の御言葉がそのように実現し私たちの罪を清めることができないかのように、暗い思いをもって主の御前に出るなら、それは異なる火であるように思われる。たとえ私たちが過ぎる一週間のうち、多くのことや失敗があったにしても、神様の前に出るとき、御子イエス・キリストの血は私たちの罪のすべてを清めるという、その言葉に信頼し、イエス・キリストを通して御前に出、そうであるなら私たちは全き者である――その信仰をもって出なければならないのではないか。
また、私たちの陥りやすい失敗というもののなかに、私たちが神の前に出るというとき「今週は多くの聖書を読んだから」「多くの祈りができたから」また「多くの奉仕ができたから」、わたしたちはそのことによって今週は大胆に出ていくことができるのです。と、そのように思いやすいものである。
確かにみ言葉をよく読み、多くの祈りと奉仕をすることは、神の恵みに預かるという点で尊く幸いなものである。しかし、それらは神様との交わりにおける結果であって目的ではない。
私たちが礼拝に出るときには、それらの神様の良き業でさえも、神様の前に出る「一つの捧げもの」とはなりえないのである。私たちが神の前に出るときには、ただ唯一、イエス・キリスト、この方の御業だけが私たちを神様の前に近づけるのである。
そのことを本当に吟味するとき、私たちは主イエス・キリストの内に消え去るものであろう。イエス・キリストのみのこの捧げものだけが、私たちを唯一、神の御前に出させうる。その結果、私たちは神様の恵みに預かり、多くのみ言葉と祈りと奉仕とが表され、結果として私たちが神様のものであることを世が認めるようになる。結果として表されるこれらのことがらは、決して目的ではないということが言える。
――子として、祭司として――
私たちが礼拝者として御前に出るとき、神ご自身はどのように私たちを見ておられるだろうか。
黙示録1:5,6に「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」と記されている。
神様の前に祭司として出るとき、私たちは御国の子としての立場も与えられている事がわかる。決して奴隷根性によって神様の前に出るべきではない。
奴隷根性とは、神様の罰則があるからこうしなければならないというその立場でしか神様に対峙することができない者の姿である。
罰則があろうとなかろうと、神の子とせられた者は喜んで神様の示されたことを守り、行うというのが子の立場である。私たちは罰則があるから神の前にこうしなければならないというのではなく、神様によって贖われ、神の子とされたゆえに、神ご自身を喜ぶものとされ、その者が主の示されたものをもって御前に出たいという願いが与えられる。ここには大きな違いがある。
祭司として召されているとともに子の立場をもつとき、私たちは礼拝を喜ぶ者であると言える。
多くの聖徒をみるなら、彼らは神様の御前にとりなしをしている。ああ、彼らはなんと神様の心に近く、人々をとりなしていることだろうか。聖徒の姿に心を打たれる。モーセは主の民を執り成すとき「私のいのちを取り去ってもかまいません」と言って主に願った。アブラハムにしてもパウロにしてもそうである。彼らは主の御心の立場に立って執り成しをし、神ご自身の御旨にかなった祈りをしていたことを見ることができる。
私たちはその意味で、神様の側に立って、神様の求められる礼拝というものを行える者として召されている。その者こそまことの礼拝者として呼ぶにふさわしいものである。罰則で信仰の物事を判断するなら、真の礼拝者とは言い得ない。私たちは神の祭司として召されている。私たちは神様の側に立って物事を考える者として立たされているのである。
御子イエス様に対して御父が「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」と語られた言葉は、私たちにも同じように語りかけられているように覚えることができる。「これはわたしの愛する者たち、わたしの喜ぶ者である。この者たちを通してわたしは栄光をあらわそう」との言葉をかけられている思いである。
私たちがこのような幸いな立場にあることを覚え、主を喜び、御前に近づくことができるなら幸いである。