礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

200437日(日)

おそれなき愛

 

Tヨハネ4-18
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

 ここには、アガペの愛について記されている。全き愛はおそれを締め出す、と記されている。また、愛は応答するものであろう。愛されているものがその愛にこたえないならば、はたしてその人の内に愛があると本当にいえるだろうか。

 イエス・キリストの公生涯を考えてみるとき、主イエスの歩みは父なる神に対する愛の応答であるご生涯であったと知ることができる。なぜなら、主の言葉の中にあるとおりヨハネ5:19,20で「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」と語られたからである。

 イエス様は父なる神のみこころを行うことを喜びとされた。そして、ただ父なる神の心を行うことをご自身の生涯の全てとなされた。ここに、全き愛というものをみることができる。このイエス様が神のみこころを行うことを喜びとされた姿の中に、「愛」が何たるかを教えられる。
 御子イエス様は、神のみこころを行うことをご自身の喜びとされたお方である。その喜びは主の行いに表されている。ヘブル書には「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と書いてある。

 十字架の道が父なる神のみこころであるという、そのことだけが、主の行いを十字架に向かわせた。
 イエス様は人としてこの地に来られた方である。それゆえ、私たちが味わうのと同じような苦しみ・痛み・そしてののしられあざけられるなら、心の痛みをも当然お受けになられる方である。しかし、イエス様は十字架の道が、父なる神の御心であり願いであることを知られたときに、そのことを行うことをその十字架の苦しみに勝る喜びを持って歩まれた方である。

 私たちが苦しみを知るなら、恐れを抱きその苦しみから逃れたいと思うであろう。しかし、愛する方の心を思い、その方のみこころを行いたいという強い願いがあるなら、苦しみに勝る強い促しと内から沸き起こる願いというものが起こる。そこには、恐れを締め出す愛の力がある。苦しみに勝る御心を願うというその動機こそ、主のみ姿の中に見られるものである。

 

明治時代にある会社で起きたひとつの話がある。

―― ある会社が資金繰りに失敗し、倒産するという噂が流れた。債権者たちはその噂を耳にして会社にとりつけ騒ぎを起こすのである。多くの債権者たちが会社に押しかけてきた。しかし、実のところあと半年猶予しさえするのなら、十分立ち直れるはずであった。だが、多くの債権者たちはその会社の社長のところに押し寄せてきた。
 そのとき、社長は一人の信頼する常務を呼びつけた。そして、債権者の目の前で怒鳴りはじめた。「おまえが、この失敗を招いたおかけで、こちらの債権者の方々に心配をかけたではないか!」大きな声で怒鳴りつつ、常務を打ち始めたのである。何度も何度も打ち付けた。
 債権者たちはびっくりしてしまって、次第に「社長、もういいよ。そこまでしなくても、分かったから。半年待ってあげよう」そこで、社長は、常務の失敗のゆえに皆さんに心配をかけた、と詫びて、債権者たちに帰ってもらったというのである。
 そして、帰っていった後、社長は痛めつけた常務を抱き寄せて、「よく我慢したね」と言うのである。社長と常務は互いに泣きあうのであった―― 常務もよく分かっていたのだ。自分が打ちつけられることによってこの会社が立ち直るならば、・・・そして、社長が最も信頼するものとして自分が選ばれたことを知っていたのである。打たれつつ、自分が社長の最も信頼されるものとしての痛みに勝る喜びがあった。――

 これは、人間的なドラマである。それゆえ、直接、主の御業に当てはめることは適切とはいえないかもしれない。しかし、私たちにはこの心情はわかりやすい。
 神はご自身の最も信頼する方にご自身の御心を行わさせる、ということを考えたとき、イエス様が、「わたしは父なる神から愛されているものである」ことを知られ、そして、「その方の御心をおこなうことが私の喜びである」ということが表された。そこにまったき愛が恐れを締め出した証が主の歩みにある。
 マタイの福音書3:17には、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と天から御声がかけられた記事がある。
 それはいつのことだったであろうか。 イエス様が罪びとの立場をとられ、バプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったときのことであった。神の子が、全く罪のない神ご自身が、罪びとの立場をとられるということが、どれほど苦痛に満ちたものであるかを知らなければならない。私達が罪びとの立場を取るというなら、それは当然のことである。なぜなら私たちは罪びとであるからだ。しかし、罪と無縁の方が罪びとの立場を取るということが、どれほど大きな犠牲であるかをみるとき、父なる神は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言わずにはおられない。そこには、人間的に表現するなら、心を打たれる神の御姿があるのではないだろうか。
 父なる神は御子イエスを遣わしてご自身のお心をこの方に全くゆだねられ、イエス様でなければなすことのできないあの十字架の道を歩ませられた。そのとき、父なる神の心の痛みを想うことができる。父なる神の心の痛みを一身に身に受けて、喜びをもって十字架の道を歩まれた主イエスの御心を思うなら、私たちは心を締め付けられる思いがする。全き愛が恐れを締め出す、というイエス様の御姿をそこにみることができる。

 

ピリピ1:29
 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

ここに、キリストのための苦しみをも賜わったと記されている。「賜った」とは、プレゼントされたという意味合いがある。私たちはイエス様を信じる信仰をもつとき、主の恵みを賜ったのと同様にキリストの苦しみをも賜るという立場が与えられたということはまことに驚くべきことである。すなわち、神は私たちを信頼に足るものとして苦しみに預からせようとなさっておられる。これは、自らの罪の故の苦しみではない。キリストにある苦しみであるのであるから、特別に信頼に足るものでなければ受けることのできない特権であることをこの中に見ることができる。特権である以上、それはプレゼントなのである。特別に信頼に足るものにだけ与えようとする苦しみである。
 この苦しみというものの特権は、主イエス様が父なる神の心をおこなう喜びのゆえに十字架をも忍ばれたように、私たちを信頼に足るものとされたことへの喜びを持つことができるようになる。

 ある人は信仰の故の苦しみにあったときにつぶやくことがある。そして、「なぜ私だけが」と心の中で主に訴えることがあろう。それは、キリストにある苦しみに預かることへの特権を教えられていない姿である。
 まさにイスラエル人たちはその失敗をした。エジプトから救い出された荒野の40年間、もっとも神のみこころを表すべき荒野の40年間を彼らはつぶやき、嘆き、悲しんだ姿がみられる。このことをみられたとき、どれほど神の御心を痛めたことであろうか。「愛する宝の民」と神ご自身が証言されたそのような特権を与えられた民は神の器として召されていたのであった。荒野の旅路は、神がご自分の御手の業をもっともあらわし、神の恵みを体験させ、神の栄光を表すべき旅路であった。しかし、そこでつぶやいたということは、その特権を放棄したものの姿である。

 使徒の働き7章38節には、「荒野の集会」という言葉が使われている。その言語はエクレシアである。エクレシアとは、別訳では教会である。
 神の教会が持っている使命というものを考えたときに、まさにこの地上は荒野のようである。神の証しをたてるために多くの困難があり、多くの障害がある世界である。その中において、私たちは信仰にある苦しみ、イエスキリストのうちにある苦しみに預かるものとしての特権を覚える。
 私たちに、信仰によって起こってくる苦しみがあるなら、むしろそれは喜びである。神様が私たちに対して「私の信頼に足るものである」とのみこころを向けられる証は、信仰にある苦しみであろう。その信仰にある苦しみの中でつぶやかないで、忍耐を持って、ただ神の前に忠実に歩むなら、あたかも「これはわたしの愛する子。わたしの喜ぶものである」との御声を神がかけておられることを感じるであろう。

 しかし、苦しみの中で私たちがつぶやくなら、主は「そうか。あなたがまだそのことに目が開かれていないなら、他の人にその働きをゆだねよう」と思いを向けられるのではないだろうか。
 イエス様の生涯を見るなら、父なる神の御心だけをおこなわれたとき、大祭司の前に引きずり出された主。 また、ピラトの裁判のとき、多くの偽証者がイエス様を責め立てたとき、主は黙しておられた。だが、そのさなかで主は御父から託され、信頼する愛する一人子にゆだねられた父の御心の中で父なる神を喜んでいた御姿を思うことができる。

 同じように私たちも神の御心に従って歩むことができるなら幸いである。私たちはちりに等しいものに過ぎないのに、主は私たちを御前に立たせ、ご自身の栄光ある働きに預からせようとして召しておられる。イエス様が御前に置かれた喜びのゆえに十字架をも忍ばれたとあるように、私たちも神の御心に預かる特権を覚えつつ信仰をもって歩むことができるなら幸いである。