礼拝・学び 概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2004117日(日)

神様の見ておられるもの

(罪について)

ローマ書 3: 9-18
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 

 ここに、罪について記されている。聖書の中で罪について示されるとき、私たちが考えている「罪」と、神様の指摘される「罪」というものには食い違いがある。今日は、多くの場合、私たちが持っている視点と神様の聖書による語りかけの相違について3つの点を目を留めてみたい。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

罪について言うなら、「罪」とは全ての人が迷い出た、ということにある。このことは、神様を無視しているということを言っている。神様を無視しているところから生じるすべてのことが罪の現象であり、罪の根本は神様から離れて迷いでているところにある。

 私たちは、普段「罪」を罪の現象をさして考えている。しかし、罪とは私たちが神様から迷い出てあるべきところから外れ、その結果、神様との敵対関係にある状態のことである。
 時々、私たちはクリスチャンではないが献身的で人格的な人と出会うことがある。彼は自分の命を他者のためになげうったかもしれない。そのとき私たちの思いの中に、「彼らにクリスチャンよりも罪があるといえるのでしょうか」と考えてしまわないだろうか。しかし、それは私たちの目でみるときだけである。神様の目から見て罪とは何だろうか。すべての人が罪人であるといっている。なぜか? それは彼らが迷い出て、みなともに無益なものとなったからである。そのとき罪が何たるかが問われる。神様はご自分と敵対関係にあることを罪として認識なさるのである。

 ひとつのたとえで人の罪の状態を表現できる。
 ある王国があったとする。その国で、王に謀反を企て、反逆しその国を転覆させようとした者がいた。このことは王に知られ、王はその敵対者らを捕らえようとした。しかし、彼はその国を逃れ、王の目から離れて外国に逃亡する。彼は逃亡先の国で身を隠しつつ、その国で慈善活動をし、立派な働きを為した。しかし、彼がいくら、立派な功績を立てようと、祖国に帰るなら彼は依然として犯罪者のままである。
 彼の異国でのよい働きが彼を義人にするのではない。彼が王の前にどうであったかが問われるのである。

 これが神様と私たちの関係である。私たちは本来神様によって造られ、生命さえも維持され、あらゆるものが恵みによって備えられているにもかかわらず、私たちはこの方を無視し 、神様のみ前に敵対関係にある。そのことこそが罪である。そして、神を無視し敵対関係にあることから生じるすべての現象を生じさせるにいたっている。これが罪人の行為である。み言葉にもこのようにある。

ローマ書 1: 21-24,28,29
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、・・・・

 私たちは罪を現象のみにとらわれて考えがちである。人は、人格的な人物はクリスチャンよりも罪人ではないと考えそうである。しかし、聖書は、神様を無視したところに罪の根本がある と指摘している。

 

(聖さについて)

Tペテロ 1: 15-16
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

 ここには、「聖さ」について書かれてある。この聖さについてもひとつのことが言える。聖さとは、本来の意味は「分離」をあらわしている。すなわち、聖さとは「神様の領域に入りなさい」ということである。
Uコリント6:15-18にはこのようにある。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

何からの分離であろうか ?
この世からの分離であり、肉からの分離である。

彼自身が何者かになるということではなく、神様の領域に入ること(とき)こそ、神の聖さに預かることなのである。神様の領域とは、イエス・キリストのご支配のなかにあることである。私たちはただこのことにより聖いとされる。
さて、パリサイ人の生活の中に、聖さを求めることはないだろうか。パリサイ人は確かに、「汚れたものに触れない」「断食と祈りの生活」が中心であった。彼らの信条は宗教的であった。いつも他者と比べて聖い生活をしているという自負があった。 彼らは熱心であり、みなも彼らが聖いとそう思った。しかし、主は「彼らは、神様の律法を重んじていながら、彼らは神様を見ていないではないか」と評される。主は「白く塗った墓」と 彼らを称される。
それほどの生活をしながら、彼らは聖くないのだろうか。
パリサイ人は、律法を重んじていたが神様を知らず神様の領域に入っていなかった。彼らの正しい生活はただ自分がきれいになることを求めていたに過ぎない。神様の領域に身をおこうとはしなかった。それゆえ、その結果である実が現れている。彼らは自分を誇るようになった。
 私たちの中にパリサイ人の聖さを求めることはないだろうか。聖さとは、分離とは、神様の領域(イエス・キリストのご支配)に入ることであり、自分自身をきれいにしようという(目標から生ずる)思いではない。ここに私たちの見ているものと神様の見ておられることに多少のズレがある。

 

(天の御国について)

マタイの福音書 3:2-3 ,4:17
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 バプテスマのヨハネも、イエスキリストも、宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とのお言葉であった。この「天の御国」とは、単なる場所のことではなく、神の支配の領域のことである。
福音書の中において、イエス様が人々を癒し、奇跡をなされたとき、主の完全な支配が及んでいた。その主の完全な支配の下には、天の御国のわざが現れていた。

私たちは遠いところに天の御国があると考えやすく、再臨のときにしか味わえないのではないかと思っているかもしれない。しかし、天の御国は私たちのはるか遠くにあるのではなく、神がそこにおいて見業をなされ、そのところを完全にご支配なされるのであれば、私たちは御国を味わうことができる。主がおられるところにこそ御国はただなかにあるのである。

 私は救われた初めのころ、耐え難い精神的な苦痛の中にあったときがあった。もはやどうしようもなくその耐え難さの中で主に叫び「もう耐えられない」と考えたとき、主から訪れた全き神の喜びに包まれたことを体験したことを覚えている。しかし、現状は何一つ変わっていないのである。この世は何一つ変わらず、周りの諸現象はなにひとつ変動していなかった。それなのになぜ私はこれほどまでに喜ぶことができるのだろうか。そのなかで世が与えるのとは違う全き平安の神のご支配を体験したのではないかと そのときのことを思っている。世界は変わっていなかったが、神の支配の中にあって自分の身が御国にあることを体験した。

 神様のうちに私たちが取り扱われ、神様のみ業が私たちの間にあらわされるのであれば、この地においても天の御国を味わうことができる。主の完全なご支配と臨在は私たちを天の御国に住まわせる。イエス様が語られた「天の御国が近づいた」との言葉は私たちの実生活と無縁の言葉ではない。

 私たちの信仰生活は遠くにあるものではなく、現実の中に厳然としてある。私たちが生ける神を信じ、生ける主を求めて信仰を送ることを願うなら幸いである。
 そして、私たちは多くの場合、神様の御言葉と語りかけを自己的にとらえ、自分の目で神様をとらえようとしている。神様が見ておられる目で見、語りかけられる御思いのとおりに受け入れ、とらえることが許されるなら幸いである。