サマリヤの女との出会い − ヨハネ福音書4章 (2回分の鈴ヶ峰学び)

 

 

§. 導入

聖書を読んだり、メッセージを聞いたりして多くの違和感や疑問が生じることはよくあります。その深いところの理解に達していない場合や、真意とは遠い解釈と感じられる場合などには、そのような聖書個所について、光が当たるときがあるときを信じて理解を留保してきました。

 

これから読むヨハネの福音書4章もそのようなことを多く含む記事でしたが、創世記を読んで、その光が照らされ密接なかかわりを発見し、みことばの中に隠された宝を見出したような思いに至らされました。今日ともに、洞察を持ってヨハネの福音書に心を留めて主の恵みを味わってみたいと思います。

イエス様とサマリヤの女との出会いに目を止めたいと思います。

 

§1-1 聖書個所 ヨハネの福音書4章

 4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、

 4:2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──

 4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

 4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

 4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

 4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──

 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

 4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

 4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 4:27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。

 4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

 4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。

 4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」

 4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」

 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

 4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

 4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

 4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。

 4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

 4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 

§1-2 本聖句の目的

この話は1節から42節までで一連のみこころが示されていると思います。

ところが私にとって、この一連の話は何がどのように関係しているのか分かりづらいものでした。「サマリヤ人」、「食料を買うこと」、「ヤコブの井戸」、「命を与える水」、「5人の夫」、「真の礼拝」、「ユダヤ人から出るキリスト」、「わたしはある」、「あなた方の知らないパンすなわち父のみこころを成し遂げること」、「労苦・収穫」、「サマリヤ人の信仰告白」

一見、異なる話題が散在しているようにも見えるのですが、主はあきらかに関連性をもって語られていきます。

疑問に感じられるとき、これらの内容には必ず何かしらの意味・関係性があるはずだという確信の中で、導きを主に求めていく過程が必要であると思います。

 

この書を読む読者である信仰者にヨハネの福音書は何を語っているのかという視点を持って読む必要があります。サマリヤの女を、またサマリヤたち人を、どのような信仰に導き、また読む私たちをもどう導こうとされているのかということを覚えるとき、「父なる神が遣わされたキリストはイエスです。この方こそ、神が遣わしたその人、メシアです」との告白に至らされること、これが、ヨハネ福音書の目的であり、主イエス様が人々を訪ねておられる目的であると知ります。

今日のみ言葉でその目的を達している箇所は26節の「イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです」」という場面であり、私たちがこの告白に導かれることにあります。

 

「あなたと話している『このわたしがそれです。』」とは、ギリシア語では「エゴー・エイミ」という言葉で、かつて、主がモーセにご自身の名をどのように示すべきか問われたとき、主ご自身が「わたしは「わたしはある」という者である」とイスラエルに示された主の御名です。

「神が遣わしたその人こそわたしである」、イエス様の本性を「わたしである」と、この方の御前で知るに至らされることこそ、私たちの受けるいのちの到達点であり、求めるべきものです。

 

ヨハネ福音書は、いつも永遠の命に至る言葉について私たちに証をしています。その永遠の命とは、御父と御父の遣わされたイエス・キリストとを知ることである、と語られたとおり、イエス様とはいかなるお方であるのか、と私たちが真実に知るところに私たちの受けるいのちがあり、私たちの唯一のなすべき業があります。しかし、それは人の知識によって至ることでは決してありません。神の御霊が与えてくださるのでなければ私たちは何も得られないのも事実であり、また主ご自身にとっても、私たちに対してなすべき御業として、全身全霊をもって傾注された主の食物であり、父の御心なのでした。

主は言われました。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

「そのみわざを成し遂げること」とは、イエスキリストが私たちのために、贖いの代価としてご自身をおささげになることであり、人々が、イエスキリストがどのような方であるかを知って、この方を信じて救いを得るようになるためです。それこそ、私たちにとっての永遠の命であり、私たちのなすべき唯一の業、信仰です。

 

それゆえ、ヨハネの福音書は求める者に対して、イエス様とは誰で、この方は何を語り、何をされ、何を与え、どのように私たちがイエス様を見上げるべきであるかを注意深く私たちに悟らせようとしています。そしてこの到達点は、「この方こそ、神ご自身である。わが主、救い主、『その方』である」という告白でしょう。

 

これはまた、聖書が世に示した到達点でもあります。聖書はイエスキリストについて証します。旧約聖書の伝えてきた信仰のビジョン、目的、つまり、命の到達点は、キリストにあるということです。人々が追い求め、探し続け、待ち続けてきた救いの希望、永遠の命の答えこそ、イエス・キリスト、その方であるのだと。だから、キリストの内にあるなら私たちはキリストにつながることのゆえにこの目的は達成されると言えます。

 

§2-1 約束と嗣業 〜 ヤコブの井戸

聖書が指し示し、信仰者がずっと受け継いできた信仰はどのようなものだったでしょうか。旧約聖書の約束の継承の原点として、アブラハムの信仰から考えることが出来るはずです。

すなわち、約束による嗣業という意味では、信仰者が求めるべき相続というものがアブラハムから始まっていきました。この意味で、アブラハムと主との契約、その子イサクと主との契約、ヤコブと主との契約が結ばれて、イスラエルの12の子ら・約束の民が抱き、守り、待ち続けたその先は、どこに向かうのかというと、それこそ、神が与える嗣業、主ご自身、わたしはあるという方を知って礼拝することにつながっています。

 

この視点で、今回、ヨハネ福音書4章で「ヤコブ」という名が出てくることに丁寧に着目します。

まず、ずますトは、いつも5節に ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。とあります。

このサマリヤの町は、場所としてはエフライムの領域にあります。これは、ヨセフの氏族の領域で、イスラエルの関係者であれば、解説がなくてもサマリヤの地理的位置は明白なものです。しかし、みことばはここで、「ヤコブの井戸」を注目させ、この地をただの地名としてではなく、「ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカル」ということをあえて記して、サマリヤの女が「「ヤコブの井戸の水」によって、「私たちは命をつないできた者だ」ということを証しています。先祖ヤコブの偉大な業、労苦によって、私たちは今この水を受け継いで生かされている、と。この、サマリヤの女、ヤコブの井戸、そしてイエス様との関わりには何かしらの重要なつながりがあるはずです。

 

そのヤコブの井戸にイエス様は旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられました。

イエス様はなぜ旅をしておられるのでしょうか。どうしてこのサマリヤを通っていかなければならなかったのでしょうか。3節で、

 4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

 4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

とあります。これは、注解書などによく解説されていることですが、ユダヤ人はガリラヤに向かうのにサマリヤを通りません。サマリヤを避けて通るのがヤダヤ人の通常の道です。しかもサマリヤを通るのであれば、起伏の激しい良い道ではないというのです。地図上では短距離に見えますが、サマリヤを通らないのが通常です。ですから、「サマリヤを通っていかなければならなかった」理由は、地理的な意味ではないということであり、言語的にも、「主はサマリヤを通って巡り歩く必要があった」というニュアンスで書かれています。

1節を読むと、「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った」とあるので、主は宣教の妨げを覚え、その身に危険があったとみることができるかもしれません。表面的には、ガリラヤへ行くのに通常の行程を避けてサマリヤを通っていかなければならなかったと理由を説明することが出来るかもしれません。環境的な情景がそうであっても、しかし、聖書がサマリヤを通って行かなければならなかったと記しているからには、そこには、神様が為そうとしておられるご計画、目的があって、イエス様ご自身は神の御心を成し遂げるためにサマリヤを通って行かなければならなかった、と読むべきだと思います。神のご計画がこの中に確かに存在していることは、32節の中に

「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と主が弟子たちに食物のことについて語られ、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と語られたところから明らかになります。普通に考えると、なぜ、このところで、この教え、会話が唐突に出てくるのだろうか、と思うような内容です。しかし、そもそも、この場面は、弟子たちがパンを求めて買いに出て行っているのです。ただ、4章のサマリヤの女の記事と神のみ心である食物ということに、かかわりがあるから書かれているのであって、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」とサマリヤの記事の中で語られるとき、サマリヤを巡って成さなければならなかったことは、父が成し遂げようとしておられる御心なのだということを示唆しています。つまり、サマリヤを通って行かなければならなかった、とは、御心が成し遂げられなければならなかったということなのです。

そして、ここでいう、父のみ心が成し遂げられるということの意味合いは、預言を成就するということでもあります。

みこころが、つまり、神の昔からのご計画が、イエスキリストを通して実現し、果たされなければならなかった、という意味合いを持っていると理解できます。なぜ、主が通って行かなければならないかは、神のご計画が成就するために、イエス様がサマリヤを通る必要があったということでもあります。

4節に書いてあることは、イエスキリストによる預言の成就に関することが書かかれてあるとまとめたいと思います。イエスキリストとサマリヤの女とのこの出会いの中には、遣わしておられる神の御心の実現があるのです。

 

それで5節ですが、

4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。

ここにヤコブの話やヨセフの話、井戸の話が出てきます。

この井戸を巡ってサマリヤの女と会話が展開されていきます。父ヤコブのこと、夫、礼拝すべき場所、救いのこと、礼拝すべき方に関して、ヤコブの話を軸に会話がなされていきます。では、ヤコブの井戸だとか、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所であるとか、そのようなことに何の意味があって福音書は説明を加えるのでしょうか。12節にも「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだ」と書かれて、父祖ヤコブが取り上げられていることについて慎重に理解する必要があると思います。

ヨハネの福音書は創世記(律法の書)のように一言一句に深遠な意味があり、使われた言語が極めて厳密なもので余分なものが一切ないことを知っています。小説のような修飾表現ではないのです。では、なぜこのようなことが書かれているのかと考え、疑問に立ち止まらなければなりません。ヤコブがヨセフに与えた地所について、少し掘り下げたいと思います。

 

§2-2 約束と嗣業 〜 シェケム

「ヤコブがヨセフに与えた地所」とは、カナンの地にあるシェケムの町であり、シェケムの父ハモルから買い取った地所のことです(創世記33:18-20)。

この地をイスラエルは死ぬ前に遺言によってヨセフに嗣業の地として与えました。(48:21)

【 → ※1.さらに掘り下げた補足 】

この嗣業の地をヨセフに相続させることの霊的な意味合いは何でしょうか。みことばは示します。「神はあなた方とともにおられ」「あなた方をあなた方の先祖の地に帰してくださる。」と。この祝福は非常に重要な事柄です。ヨシュア記24:32において、イスラエルがカナンの地を征服したとき、イスラエルの民はヨセフの骨をエジプトから携え上り、「ヤコブがハモルの子らから買い取った地」に葬りました。そのとき、その地はヨセフ族の相続地となっていたとあります。ヤコブは生きているとき、カナンの土地を自分の財産をもって買い取るのでした。そしてその買い取った地をヨセフに嗣業の地として与えました。そして、この相続は神の約束の実現を待つものであり、神への信仰の表れでもあり、生ける主との約束の継承でもありました。ヨセフもまた臨終のとき、「イスラエルは必ず神の哀れみによって、このエジプトから出てカナンの地に連れ戻される」とイスラエルの民に神のご計画を示しました。「あなた方はエジプトから出るとき私の骨をつれ上ってください」という彼のことばのうちに、安らかに眠りたいとか、墓所がどこであるかという世俗的な意味よりもはるかに神との関係、命の約束にかかわることを述べているとみることができます。神のカナンの地を与えるという約束を待つ民であるがゆえに、ヨセフの骨はその時までイスラエルの民とともに彼らの手元に残されなければならなかったのです。ヨセフは自分の骨さえも、不信仰なイスラエルのために導く器として用いました。神の、カナンの地を与えるという父祖たちの契約を、イスラエルの共同体はヨセフの遺言のゆえに持ち続けることとなりました。

そして、なぜヤコブはシェケムを金で買い取ったのでしょうか。このことは、このヨセフの信仰を見たとき、同じことが言えます。肉の現実においては、しばらくその地に安んじて住まうためにカナンの地を買い取り居住権を得るためとも言えるかもしれません。しかし、この行為の見えるところの結果は、一人娘ディナが汚され、不従順な子たちによる契約相手方の虐殺という災いを招きました。しかし、信仰の目で見るなら、このシェケムの地の買取を、主なる神は救いのご計画に用いられました。その霊的な視野に立つとき、ヤコブは神が父祖たちにカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えると言われた約束を受けつぐ者として、彼によってなされた行為は、契約を受け継ぐ信仰の結果と結びつくものとなりました。その地を代金で買い取ることによって、その地所をヨセフに与えることによって、イスラエルの帰るべき場所を示し、神が必ずイスラエルをその地に帰らせてくださるという信仰を彼は望み見ていたと言えるのです。この望み見た信仰の霊的な本質は復活の信仰を表します。

アブラハムがマクペラの畑地に墓を購入したことと同義です。アブラハムの畑地購入という違和感のある行為を、みことばは丁寧に信仰者に伝えました。彼の行為は、世俗の富を蓄えたり、この世に安住を求める行為ではないはずです。ヘブル人への手紙11章13節をもう一度見ましょう。

 ヘブル人への手紙

 11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

 11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

  ・・・

 11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。

アブラハム・イサク・ヤコブと続くこの信仰は何を求めていたのでしょうか。具体的にはカナンの地です。しかし、彼の霊は、神が約束してくださった天の故郷を求めていました。そして、カナンの地にイスラエルが向かうということは、主の救い、すなわちその信仰は神の御国を求めているのでした。彼らは、カナンの地を自分の所有として住まいませんでした。彼らが生きているとき、その地はカナン人のものでした。しかし、神の約束は「あなた」とあなたの子孫とに、と言われて、事実、彼ら自身に与えられていることが示されています。その地を旅人のようにして過ごしながらも、神の約束のうちにあって、アブラハムは墓地を所有します。彼は寄留者のように過ごしたのに墓を持つのです。このことは違和感があります。しかし、神が彼らをその地に導きいれ、そこは彼の地となる、ということを知り、主が彼に与えられている約束を信じました。アブラハムの信仰は常にこの約束と信仰から離れませんでした。彼は神の約束から離れないところに常に身を置きました。畑地を買うことは、神の救いに望みを抱いていたということになります。ヤコブも同様です。シェケムを買うことは、神の約束が真実であると信じ、望みを抱いて、そのような行為を成しました。そして、それは、主がアブラハム・イサク・ヤコブの神として、出エジプトにおいてご自身を語り、復活の主であることをお示しになったように、復活の信仰が表明されているのです。

 

ヤコブが与えた地所とはこのような嗣業の地です。

この観点を持ちつつ、もう一度「ヤコブの井戸」に着眼してみましょう。

この地のヤコブの井戸は、ヨセフの子孫であるサマリヤの人たちを生かすものとなり、彼らはそれによって水を得、命を保ってきました。ヤコブは未来に置かれた神の完全な約束の成就を望み見てヨセフにシェケムを与えましたが、未来において実現する神の永遠の祝福・天の故郷、霊的祝福、永遠の命の実現はいったいどこでなされるのでしょうか。カナンの「地」は、主の約束された嗣業の地であり、彼らが真の神を礼拝する場所(御国)を示しています。神の約束は、大地である物質的な土地がイスラエルの民に所有されることで成就したのではなく、メシアの現れる日に、神の永遠の命が現れて与えられるところで約束は成就します。イエスキリストが来てくださって与えられるところに、そのときこそ、神の預言の成就のとき(=神の御心が成し遂げられるとき)です。そして、その日には、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう、主のいますところにおいて礼拝が捧げられるのです。

 

信仰によってヤコブがヨセフを通してイスラエルの子孫に撒いた神への待望という労苦の業は、永遠の命への希求であり、イエスキリストの到来において全うされます。

ヤコブのその嗣業の到達点とは何でしょうか。アブラハムの嗣業の到達点とは何でしょうか。カナンの地という土地・物資でしょうか。預言された「敵の門を勝ち取る」ことや、「王たち」が出るというその姿は他国を侵略し征服するこの世の君のような支配者になるという意味でしょうか。そうではありません。主は霊なるお方ですから、神の祝福は霊的なものであり、神が与えるもの、神にしか与えることのできないものです。すなわち、神に望みを抱く者に、時至って為される、神ご自身のみによってしか与えられない祝福、約束の実現です。到達点とは何ですか。彼らは地上では得られませんでした。ヘブル書が天の故郷と語った、嗣業の地の到達点とは何ですか。それは、まさにキリストだけが与えることのできる「ご自身のいのち」ではありませんか。

そういう意味で、ヨハネ4章に書いてある、キリストとの出会いは、神様がかつて信仰者に約束しておられた「嗣業」すなわち希望の到達点に関することが描かれています。サマリヤの女が「私はキリストと呼ばれるメシアがこられることを知っています」と語った希求は、子孫たちの命をつないできたヤコブの井戸とともに、真の意味で生かすことの希求として受け継いできた約束です。嗣業の最終的なクライマックスとして、キリストはご自身を「それはわたしである」とお示しになりました。

 

さて、6節の「そこにはヤコブの井戸があった」という言葉と11節の「この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」の「井戸」について日本語では違いに気づけないですが、ヨハネ福音書は注意深く言語を使い分けています。

ギリシア語では、6節はペーゲー(泉)とかかれ、11節にはフレアル(井戸)と書かれています。

14節の「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と語られた主ご自身が与える命の水について「泉」と書かれていますが、これがペーゲーという言葉です。日本語では不自然になりますが、原語的には4節に「イエスは『泉』のかたわらに腰をおろしておられた。」と書いてあるということになります。女はその井戸から水を汲もうとしていますが、イエス様と「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるのか。わたしはあなたに命の水を与えるものである。」との会話がなされているということです。主は旅の疲れで渇いておられたでしょう。しかし、実は主キリストが渇いてサマリヤの女に求めているさなかで、渇いているものとはこのサマリヤの女であってイエスキリストはサマリヤの女を訪ね、そこで彼女を求めて、生ける水を与えようとして泉の源でその女を待っておられた、ということがわかります。命の水を無限に与えることが出来るお方として泉の源で待たれこの求道者に対して渇かれる主。神の御心のうちに、渇く者に対して、その者に水を与えようとして泉の源に立ち、ご自身が渇くものとなって私たちを求められる主の熱心があります。

 

§3-1 労苦の働き

4:6イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。

ここに、「旅の疲れ」で渇いておられる主の姿があります。

ヨハネ伝には、疲れるという言語は2度しか出てきません。この旅の「疲れ」と、38節にある『わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」』この「労苦」という言葉です。

この主の旅の疲れも、聖徒の労苦の働きも同じ視点です。永遠のいのちに入れられる実を集めるという働きに関してです。すなわち、「父のみこころが成し遂げられる働き」のことです。永遠の命に至る、この働きの求めていることは、神の嗣業の到達点に至らせることです。実りです。父のみこころの実現とは、イエスキリストこそ神の子であると人々が知るに至る業そのものです。旧約時代から、人間に与えられた神の証は、「あなた方に救いがある、あなた方には求めるべきものがある、イスラエルの民に約束を実現してくださる主がおられる」というものです。その約束の福音は、信仰の民が受ける永遠のいのちです。いのちとは、イエスキリストにおいて与えられるもの、来るべきメシアに出会い受ける(知る)永遠の命、天の御国で神の子とされる命のことです。そして、その天国を求めていた地上の証人こそイスラエル(信仰の聖徒)なのです。そのために働く労苦が疲れです。ヤコブが祝福を望み見て撒いたものとも言えます。

 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

 4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

 4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

わたしにはあなた方の知らない食物がある、と御語りになり、その食物とは、私を遣わした方、父のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物であるとお語りになりました。父の御心とは、もっと具体的に言えば、イエスキリストにおいてなされるべき、預言の成就でもあります。主が成し遂げられようとしている救いの御業、十字架の贖いを彼らのものとするために、主は遣わされています。そのためにこそ、主はサマリヤに来ておられます。

主が疲れておられるという、これは、命のための働きをしておられるからです。実際には、命の泉そのものである方が、渇きをもって、渇いた女のところに尋ねておられるという姿です。主は救いを必要とする者へ、主ご自身の熱情をもって熱心に探し求めておられるのです。そこには、偶然や、気まぐれといったものがあるのではなく、疲れを伴う主の愛の働きが示されています。主が見出してくださるのでなければ、メシアに出会うことはできませんでした。そのような中にサマリヤの女との応答があります。

 

時が満ちたときに、その時代の聖徒によって実を得ると永遠の命に至る働きに関して、イエス様は語られました。

かつて、先祖たちが命に至るために働き、約束を望み見、約束の命に至らされるため労苦しました。霊的な意味で言えば、アブラハムもヤコブもヨセフも主が約束してくださる天の御国を望み見て働きました。永遠の命に至るため、祝福を信じて約束を待ち、望みを抱いて継承し、この労苦があって、いまや、キリストにおいて、その実を刈り取る時が来たのです。

 

これらのことを踏まえて理解できる、「労苦した働き」とは何でしょうか。かつて労苦した働き・・・ヤコブがヨセフに与えた地所はある意味ではヤコブの労苦した働きです (※ヤコブは「私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう」と言ってヨセフに与えました。) 。

アブラハム、イサク、ヤコブは信仰によって天の故郷を求めて歩んでいたのです。彼らは、地上ではカナンの地を自らの所有として与えられることの本意を見ませんでしたが、霊的な意味では、神が与えてくださる永遠の祝福、天の故郷を望み見て、復活の望みを抱いて、アブラハムは畑地を購入し、それはキリストによって与えられる永遠の命を求めていたことと同じ意味を持ちます。彼は、主イエスの日を望み見ていたのです。すなわち、神がアブラハムに約束されたこの約束の実現は、キリストの日において起こる預言の実現です。アブラハムは主の日を求めていたということができます。神が与えてくださるもの、究極的な意味合いではメシアを求めていました。それと同じように、ヤコブもまた、買い取ったシェケムをヨセフに与えました。ヤコブがそこに井戸を掘り、労苦して勝ち取ったあのシェケムの地は、ある意味で信仰によってヤコブが信仰の子孫のためにキリストへと向かう種を撒く労苦の行為と言えるのではないでしょうか。霊的な意味で言えば、復活の信仰によってキリストを求めていたといえます。キリストから与えられる永遠の嗣業に関する働きです。しかし、その労苦の働きに対して、ついに時が満ちて、イエスキリストが来てくださって命の結実のときが来ました。キリストにおいて、神の信仰の民に実現する日です。

 

§3-2 キリストの時 〜 成し遂げられる御業

4:6 時は第六時ごろであった。

と書いてあります。真昼の正午は、時が満ちたそのときを指しているように思います。時が満ちて、主イエスキリストは、満たすため、渇いている者の前に現れてくださいました。渇くサマリヤの女の前に現れてくださったのです。泉のそばで、渇く者に救いを与えようとして、主はそこを「通っていかなければならなかった」主の働きとしての必要でもありました。「父のみこころを成し遂げなければならなかった」と言って、父のご計画を成就されるためにサマリヤの女と対峙していかれるのでした。

 

ヤコブを父祖とする信仰者たちが、神の祝福の約束を受け継いで、主の日を求めるべき信仰者(その子孫)が、いまや、渇いたものとなっています。満たされず、偶像崇拝者となり、夫でない者と共にあり、渇いた者となっています。自分の主人が誰であるかを知らない盲目の者です。しかし、それでもそのところに時至って、神の時が満ちたとき、主イエスはここに来てくださいました。それが、第六時、真昼の12時のようにも見えます。「わたしがそれである」と主イエスは語られてご自身を現されたことは、なんとダイナミックな広範な神の約束と御心が実現していく物語ではないでしょうか。

父の御心を成し遂げられた、主イエス様の御業であると思います。

 

§4-1 サマリヤ人

 4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──

ここで、まずサマリヤとは、どのような状況下に置かれているのか、すこし掘り下げたいと思います。

現在の日本人の私たちが聖書を読む上での背景を知っておく必要があると思います。なぜ、当時ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったのか、ユダヤ人によってサマリヤ人は軽蔑され、サマリヤ人はユダヤ人を敵視しているのか。

列王記に記される王国の崩壊時代から、この対立の根が表れています。反目や宗教上の問題が発生してきました。先に北王国が捕囚となったときに、10部族は散らされ、異国の宗教と異教徒たちがサマリヤに入植し混血となりました。捕囚民の神殿再建の事件はもとより、中間時代と言われる旧約聖書の終わりから、新約の時代に至るまででも、サマリヤ人はユダヤ人に対して問題のある行動を繰り返し行ってきました。こじれた民族間の問題が衝突し続けてきたのです。しかし、サマリヤとはもともと北イスラエルの首都です。ソロモンの霊的失政によりその子レハブアムが王国を分裂させ、ヤロブアムによって、ユダ族とベニヤミン族を除く10部族は長子ヨセフ族(エフライム)を筆頭とする北王国が分裂王国として誕生しました。しかし、北のヤロブアム王は最初から真の神様に対して罪を犯し、王国の始めから偶像崇拝を開始しました。北王国は王国の始めから離散に至るまでずっと偶像崇拝の罪から離れませんでした。彼は、エルサレム神殿とは別に神を礼拝する高き所を築きます。信仰の民イスラエル人が例祭にエルサレムへ上り、ヤロブアムのもとから離れてしまうのを阻止するために、ベテルに金の子牛を造り、「これがあなた方の神である」と宣言して、金の子牛を民に拝ませたのでした。これは政治的な理由ですが、王国の始めから律法を受け継ぐ民でありながら、偶像崇拝とともにイスラエルは歩んだのです。このような中で、北王国が先にアッシリヤによって滅ぼされ、そののち南王国のユダはバビロンによって散らされることとなります。この、アッシリヤによって滅ぼされる北王国イスラエルを代表とする部族はホセア預言者などでも見られるように「エフライム」と名指しされています。エフライムは王系部族であるユダを除けば最も強い有力な部族です。エフライムはヨシュア記・士師記時代のカナン占領においても最も有力な働きをした部族です。エフライムとは、ヤコブの長子・ヨセフから出たものであり、弟ではあったがヤコブの祝福によって大いなるものとされています。そのエフライムの割り当て地の中に、このサマリヤがあります。サマリヤは北イスラエルの首都であり、イスラエル(北)を代表しています。

5節の「ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町」とありますが、このサマリヤは、かつてのイスラエルの中心的な都であり、その地はヨセフ族のエフライムの嗣業の地です。ところが、不敬虔と偶像崇拝の堕落が極まって北王国が崩壊したとき、占領者アッシリヤはどういう政策をとったかというと、北のイスラエル人(主だった者たち)を国外追放し、偶像崇拝者たちを偶像とともに、イスラエルに住まわせたのでした。アッシリヤによって、5つの国民と、7つ(5族)の偶像を持ち込みました。イスラエルの残された者たちは、外国人と結びあい、混血とならざるを得ませんでした。彼らの神々を拝んだのです。彼らはイスラエルの神を神とし、同時に他国人の偶像を神(バアル=夫)として、真の神への礼拝を、神々の礼拝の一つとしました。このような混じりあった宗教としてイスラエルの神の名を呼びつつ、同時に高き所で偶像を崇拝するスタイルとなりました。このような、サマリヤ人を、生粋のユダヤ人は宗教的にも民族的にも受け入れることはできません。

捕囚から帰ったユダヤ人が、エルサレム神殿を再建するとき、ユダヤ人はサマリヤ人の神殿再建を協力させませんでした。サマリヤ人はユダヤ人の神殿再建を妨害もしました。また、歴史的な因果関係ははっきりしていませんが、聖地エルサレムとは別に、サマリヤ人はイスラエルの神を祀る神殿をゲルジム山に立て、彼らは彼らの神を礼拝する場所として高き所を築いています。彼らにはユダヤ人が聖書以外に口伝律法(しきたり)を継承しているように、サマリヤ人の口伝律法によって、神学上の主張を行い、神礼拝の正当性を自ら主張したようです。ユダヤ人がモーセ五書を持つように、彼らにはサマリヤ五書があります。ユダヤ人がエルサレムを唯一の礼拝場所としていても、サマリヤ人の秘密の教えによれば、ゲリジム山こそ真の礼拝場所であるということになります。ここに、サマリヤ教というものが存在したということです(ユダヤ教がユダヤ人のうちにあるように、サマリヤ教は今でもパレスチナ原住民のサマリヤ人のうちに現存しています)。

「私たちにはゲリジム山がある」とサマリヤ人が言うのは、彼らなりの正当性を主張したアイデンティティーでもあります。

ユダヤ人は、そんな混合宗教、混血の彼らを軽蔑のまなざしで、「私生児」と呼び、宗教的な堕落で汚れたものたちとみなしていました。捕囚帰還民のユダヤ人が、神殿再建を協力させなかったのももっともなことです。そのため、サマリヤ人は再建を妨害し、その後も険悪な関係は続きました。聖書には書かれていませんが、中間時代の歴史では、アンティオコス・エピファネスがユダヤ人を強烈に迫害した時も、サマリヤ人は自分たちはヤダヤ人ではないとしてその迫害に加担したとも言われています。イエス様の時代には、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしませんでした。宗教上も民族感情としても、折り合えるものではなかったのでしょう。しかし、もともと、サマリヤという地は、イスラエルの中心的な都市であり、その地は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所でもあり、父祖との関係においても信仰にある希望が抱かれるべき地なのです。

 

さて、サマリヤの女に出会われたイエス様の話に戻って考えますが、聖書は、「イエスキリストというお方はどういう方であるのか」ということについて、証しし、イエス様のご栄光を表しています。「イエスという方は私にとって誰であるのか」ということが真の意味で明らかになることこそ書かれた目的です。

サマリヤの女は最初、イエス様に対して、「ユダヤ人のあなた」と呼んでいます。そのあとでは、「主よ」と敬って呼び、そののち、「あなたは預言者だと思います」と語り、最後に「私は世の救い主、メシアが来られることを知っています。あなたはキリストなのでしょうか」と問い、主イエスは「わたしはそれです。」と示されていくのでした。

全く霊的に閉ざされた者が、心の目を開かれて、イエスという方がどのような方であるのかということが知らされ、イエス様を正しく知るように導かれていくさまが描かれています。ヨハネの福音書を通して御霊はそのように求道者を導いています。主は、彼女の「夫」という問題を取り上げて、真の礼拝すべきお方として彼女の前に立たれます。彼女は渇いた生活をしており、愛に満たされず、そのような生活の中に、真の夫が誰であるのかわからない、見えていない状況の中に生きています。しかし、あなたが本当に礼拝すべき方として「わたしはある」とご自分を渇いた彼女を満たす方として真の主人(=夫)として表れてくださる姿があります。むろん、これは、彼女が「あなたは預言者だと思います」と語るその預言者的な表現においてです。真の夫として彼女の前に立たれるために、イエス様は彼女を探し求め、彼女のために、渇き疲れて苦労し尋ね求めてくださっているのです。

主イエスが、「旅の疲れで腰を下ろし、『わたしに水を飲ませてください』」と言われた渇きの言葉は、主なる神が姦淫の女である偶像崇拝者に、−−ホセア預言書的な表現で言えば、神から離れて渇いてしまっている、不信仰なエフライムの娘に対して、真の夫である主ご自身が渇いた方として立ち、その女のために苦悩の中で、労苦して探して求めてくださる、そういう、キリストの熱情が、ご自分の本当の御姿を示そうとされて−−わたしこそ、あなたに渇くことのない命の水を与え満たすメシアである、と、このサマリヤの女を尋ね求める姿の中に見出されるのです。

「わたしが、あなたの本当の礼拝すべき方、あなたを真実に満たす者(まことの夫)である」ということを、夫を知らず、迷いの中で生き、自分を満たすものを探しつつ得られない者に対して、ご自身を明らかにお示しになられたのです。ですから、この中では、渇きにまつわる水という話から始まって、つづけて礼拝という話に焦点が当てられるのです。

 

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

 

「あなたはユダヤ人でありながら、どうして私に水をお求めになるのですか」「あなたはどうしてそのようなことをするのですか」「あなたはだれですか」という話の展開に導かれます。

「わたしこそそれである」とお示しになられる方に対して、「ヤコブは私たちに水を与えてくれました」「あなたは私たちの先祖ヤコブよりも偉いのですか」とヤコブの子孫は問うのです。主は言われます。「私が与える水はその人のうちで泉となり決して渇くことはない」「あなたと話しているわたしがそれである」と。イエス様は、最終的にそのところでご自身の本性をお示しになります。信仰によってイスラエルが求めていることの本体こそ、永遠の命=救いこそ御自分であると告げられます。この中で「ユダヤ人から救いが来る」と示されて、イスラエルが望み見て待つべき救いの到達点がヤコブの祝福の約束の延長上にあって、キリストから出るのだ、と御語りになっていきます。そして、最終的には、キリストへ導かれます。

 

§4-2 インマヌエル - わたしはある

 4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 

これは、「わたしはある」という言語です。あなたは誰ですかとの問いの答えは、「わたしはある」という主ご自身の顕現です。かつて、主がアブラハム・イサク・ヨセフに現れた主です。そして、この「わたしはある」とは、出エジプトにおいてモーセに示された主の御名です。「わたしはある」とは、あなたと共にある、あなたがどこに行っても決して捨てない、そのようなことを思い起こさせる主の臨在を示す、インマヌエルの主の御姿です。「私はあなたのすべてを見た」と主はヤコブに仰せになりました。私はどこに行ってもあなたを守ると、見捨てない。ここに書いてあることは、「神様はあなたのすべてをご存じである。」「あなたのすべてを知っている」ということです。主が私を見ておいでになるということ、私を見捨てておられないということでもあります。そのとき、主は「私はある」「わたしはそれだ」とご自身の御名を明らかにされます。これこそ、サマリヤの女との記事の場面でもあります。

サマリヤの女は言いました。

4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

普通に読むと、私のしたことを全部私に行ったからと言って、キリストと結びつくのでしょうか。この証がそれほど重要な話題としてキリストに結びつくのでしょうか。しかし、それこそ、神の実際の御姿「わたしはある」と語られる方が、人に対して祝福されるとき、約束の子孫が見上げるインマヌエルとして出会われる主の御姿です。

 

創世記にはヤコブの嗣業の約束が示されていますが、どのように神様はご自身をお示しになったでしょうか。ヤコブはどのように主と出会ったでしょうか。3つの個所を開いてみたいと思います。

 28章

 28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。

 28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

 28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

 28:13 そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

 28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

 28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

 28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに【主】がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。

 28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

 28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。

 28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。

31章

 31:11 そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい』と答えた。

 31:12 すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。

 31:13 わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」

46章

 46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

 46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

 46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 

わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。神様がヤコブに約束した祝福とは、この地を与えるというものであるのと同時に、あなたとあなたの子孫とによって世界が祝福されるというものです。かつてアブラハムに約束されたことです。この真の意味での預言の成就はどこにあるでしょうか。表面上の意味合いは、イスラエルという国家・民族によって、という意味で受け取ることが可能です。しかし、それは最初のものです。肉にある者としての経緯です。しかし、これは霊的な意味での本体ではありません。霊的な意味での本意は、パウロが語ったように、「あなたの子孫」というのは、単数であって、ただ一人の人、イエスキリストを指すのだと示されました。祝福の源はイエス様です。預言の本体的な意味は、世界がイエスキリストによって祝福されるということにほかなりません。そうなると、主がヤコブに語られたように、最後までその約束が成し遂げられるまで、主はヤコブを決してお捨てにならないというみことばはどこに向かうのでしょうか。イスラエルは不敬虔と不実によって、多くの意味で滅ぼされたり散らされたりしました。民族的な意味では、彼らのうちに何がイスラエルのかさえ分からなくなるほどに、混血により交わりあい、神々の中で主を礼拝し、もはや、その子孫が誰であるのかさえ認めがたい、そのような終末を迎えました。むろん、ユダヤ人はその中で、約束を人間的にではありましたが、保持し続けました。しかし、サマリヤは殊更にそのような民なのです。しかし、神は約束をなしとげるまでヤコブを決してお見捨てにならないのです。

イエス様は、サマリヤの女との中で、「救いはユダヤ人から出る」とお語りになりました。これは民族的優位性であるとか、サマリヤ人とユダヤ人との反目について述べているのではありません。キリストがユダヤ人から出るというこの主の言葉は、「私は決して、あなたを捨てず、あなたの救いを成し遂げるまで決して捨てない」との主の御心が貫かれているように思います。世界が「あなたの子孫によって祝福される」ことは、イエスキリストによってです。この約束は、人々に命が与えられ、救いがもたらされるということが成し遂げられるまで、ヤコブは捨てられない。それゆえ、「救いはユダヤ人から出る」という神の約束の事柄を示されたのだと思います。

 

私はあなたとともにいるという具体的な証として、女は「私のすべてを知られる方」として主を知りました。背信の故に渇いたもの、待ち続け、的外れの者だったサマリヤの女に対する主の愛の答えとして、嗣業のまた父祖たちの望み見たことの到達点として、ご自身をインマヌエルの主の御姿を示して真の夫・神への礼拝へと誘われました。

主はヤコブに約束されたとおり、その約束を実現するまで、決して彼をお見捨てにはならず、最初から、その彷徨う者をずっとご存じであられました。主は御心を実現し渇き労してサマリヤの女を求めてくださいました。その憐れみ、恵みそして愛の働きによって、サマリヤ人たちはキリストを世の救い主だと信じ告白しました。

 

 

私は5人の夫について、「離婚し、しかし、現在6人目の男と結婚はしていないが、同棲しているというサマリヤの女がいた」として、愛に渇くふしだらな女として、この記事をこれまでも、今回も、洞察してきませんでした。そのように読むことが「文字通り正しく読む」ということでは決してないと思っているからです。特に、ここには、ナレーターもなく、6人目という言葉もなく、そこには主と女との応答、預言者、礼拝、夫、メシア、主の御名に関する永遠の命の救い、永遠の嗣業の到達点としてイスラエルの子孫が御国の約束を受け継ぎ、エルサレムでもゲルジム山でもなく、ただ、霊とまことによって礼拝する主に贖われた者が御国において実現する神とのいのちに交わりについて示されたのです。ただ、いつも、その読み方において「私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」という言葉だけはどこか腑に落ちないものがありました。「姦淫という私のしたこと」を言い当てる、というような文脈に見えたからでした。しかし、この度、聖書から学んで、女のその言葉にこそ、インマヌエルなる方への礼拝者として相応しい証であったと覚えることができました。これこそ、約束の嗣業という観点において証された主のご存在です。

御国の宝のよう私にとっては、長年の疑問が一つ解決して感動しています。

 

40節で「そこでイエスは二日間そこに滞在された。」と書いてあります。そして、その地方のサマリヤ人が主イエスを目で見、そして耳で聞き、そして自分の心で信じました。自ら自分自身でイエスキリストを訪ねるものとなって「私たちは自分自身でイエス様を知ったのだ」と証ししています。その姿こそ、ヨハネの福音書が、この世界に求めていること、聖書が書かれた目的であり、主イエス様が証される御働きです。サマリヤの人たちは何をしたでしょうか。自分たちのところに滞在してくださるように願ったのです。そのためにイエス様は2日間滞在し、人々は主にとどまり、主とともに過ごしました。これはヨハネの福音書が示す福音の姿です。

そうすることで、イエス様がどういう方であるか知ることができるように導かれていきます。キリストにとどまり、求めつつ、祈りつつ、主のおられるところにあることで、主がどのような方であるかわかります。主は渇いている私たちに対して、主ご自身の方がさらに渇いた心をもって私たちを訪ねてくださる方です。約束の内にとどまり、みことばの内にとどまるとき(サマリヤの女のように)、主ご自身が命の泉のほとりでご自身をあらわしてくださいます。主を求める不信仰な信仰者に主は応えてくださいました。主のみそばで主に尋ね求めるとき、主はキリストにつながる命の祝福で私たちを満たしてくださる方です。サマリヤの人々が「この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」と告白されたことに導かれたことは、求める私たちにとってもまた大きな慰めであり祝福です。

このように、主のおられるところにとどまり、イエス様がどういう方であるか、誰であるかということが分かり、私たちの生活の実際で真の意味で主が示されるとき、主を告白し、本当の意味でインマヌエルのキリストを知らされたなら、その方とともにいる信仰者は復活の命と永遠の命の只中にあって、私たちは永遠の命の真実を得るのです。

父は、霊とことによって礼拝する礼拝者を求めておられます。

以上にしたいと思います。

 

 

※ 以下は学びの中で説明した内容ですが、意識が分散されるため、本文から削除しました。

 

【補足1】ヤコブがヨセフに与えた地所について、時間の許す限り掘り下げて考えてみたいと思います。

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創世記33:18-20 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

 

創世記48:21-22 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

 

ここは難解な聖書の箇所のひとつですが、創世記には、ヤコブが剣と弓とでエモリ人の手からシェケムの地を取ったという記事は描かれていません。神の約束によっていつか主ご自身によってこの地を取り、剣と弓とをもってエモリ人を追い払うときのことを予言しているとして、預言の先取りをヤコブが語っていると理解する解説もあります。またあるいは、剣でシメオンとレビとがシェケムの人たちを虐殺したため、ヤコブの子らが行った悪事であっても、全体としては神の導きと守りの中で、シェケムがヤコブのものとなったことを包括的にヤコブが為したとして描いていると見ることもできるかもしれません。あるいはまた、聖書には記されていないがその事件があったのかもしれません。いずれも断定できませんが、ただ言えることは、その歴史的な事実は記録として不明瞭であっても、ヨセフに与えたこの地所というのは、聖書の中では重要なこととして描かれているということは間違いありません。なぞめいていますが、意味を持って記された深みのある隠された何かを教えているという感じのする箇所なのです。

 

実際に、ヨセフのものとなったことがヨシュア記に記されています。

ヨシュア記24:32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。

 

ヤコブがヨセフに相続させたことの背景として、どういった意味が含まれているか考えると、ヤコブは「私は死のうとしている。」と言ってエジプトで死ぬのが分かっていました。神様はカナンの地を「私と私の子孫とに与える」と誓われました。しかし、カナンの地ではなく、このエジプトで死のうとしています。このような状況に置かれてヨセフに言うのです。「しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。」

これは主の約束ですが、ヤコブの望みでもあり、神の約束を信じる彼の信仰です。ヤコブは神がカナンの地を与えるという約束を知っており信じていました。そのことに関連して、シェケムの地をヨセフに与えたのです。

その観点で、なぜ「私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケム」という言葉があるのでしょうか。

すると、神がアブラハムに約束されたことを思い描くと関連が出てきます。

神がアブラハムに具体的に約束された箇所を読んでみましょう。

創世記

 15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

 15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

 15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。

 15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」

 15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

 15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。

 15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、

 15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、

 15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 

カナンの地をあなたとその子孫とに与えるとの約束について、神様はアブラハムにあらかじめ語られました。四代目の者たちが、ここに戻って来ると。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないから、それまではあなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられるのだと。神のカナンの地を与えるという約束の中にエモリ人の咎の満ちることが関係しています。シェケムの地についてヤコブが剣と弓とで奪ったと書いてあるあの「エモリ人」です。

ヤコブがヨセフに「神がイスラエルを顧みて帰らせてくださる」ということを意識してシェケムを与えるとき、エモリ人の咎の満ちる日にかかわるということです。そして、神様がアブラハムに約束されたあの祝福を私もまた引き継いでいるとヤコブは理解していたはずです。その上で、ヤコブにあの言葉が出てくることを考えたとき、ヤコブはヨセフに地所を与えたとき、神様がアブラハムにカナンの地を与えると約束されたその約束を引き継ぐものとして語ったと思われます。

こういう形でヨセフにシェケムを与えたとき、なぜ、長子(法的)ヨセフにシェケムを与えたのか、またなぜヤコブはシェケムをハモルの子らから金で買い取ったのかということを理解できます。

ヤコブ自身が、神の約束は生きており、生ける主ご自身の命の中に、約束のうちに自分自身を委ねたことを覚えることが出来ます。私(ヤコブ)と私の子らとがカナンの地を自分たちの相続とすることを告白する信仰であると見ることができます。

 

聖書には、神を愛する信仰の聖徒、アブラハムもイサクもヤコブも、地上の土地について、あまり固執しているようには見られません。もちろん神が与えておられるその地は常に信仰の先にある相続分です。しかし、彼らはいつも寄留者のようにして生きています。地上で旅人であり寄留者であるという歩みをしています。だから、この地上でいかに栄えたかということを信仰の到達点としていません。ただ、神様が与える、といわれたものを獲得し、待ち続け、望み続けて生きています。これがアブラハム、イサク、ヤコブがいだきイスラエルが持つべき信仰です。ヘブル書の言うとおりです。「彼らは約束のものを地上で手に入れなかったが、地上では旅人であり寄留者であった。」この地に望みをおいていたのではなく、上から与えてくださる永遠の嗣業・天の祝福、約束のものをはるかに望み見ていました。彼らがそのことを分かっていたかどうかというのではなく、聖徒の歩みは主の前にそのようなものであったのです。それゆえ、イスラエルに与えられたカナンの地を目指す旅は、その望みは、神が与えてくださった天の御国=永遠の命へ向かうものです。神が与える天の嗣業の表れとして、アブラハム・イサク・ヤコブがカナンの地を望み見ていることが分かります。

 

それでは、なぜ、主が求められる霊的な人は地上的な富に固執する人ではないのに、ヤコブはここで、シェケムの地をカナン人から金で「買い取った」のでしょうか。

それは、ヤコブの約束の地に関わる行為であるということだと覚えたいのです。ヤコブはこのシェケムの地が神が約束を実現されたときに自分のものとなることを知っていたのだと思います。アブラハムも同じことをしています。彼はカナンの地に主人のようにではなく外国人のように寄留者のようにして振舞いました。しかし、カナン人からはマクペラの畑地を購入したのです。このことは特異なことであり注意深く読む必要があります。このことは何を意味するのでしょうか。主の聖徒は地上では旅人で寄留者のようであるべきなのに、例外があり、固執していたものがありました。彼は約束の地を得ていないときに墓を所有しました。そのことで彼は何を表明しているのでしょうか。彼は地上の生涯の中にあって、先の望みを持っていたのです。これは信仰的には永遠の未来に関わることであり命の安息に関わることです。神が約束され、約束の実現を信じたので、死の先にある備えあるいは永遠、または先に置かれた神の約束を信じる信仰の表れにおいて墓を所有しました。これは復活の信仰に通じるものがあります。 またそうすることで子孫がそのところを継続して望み続ける回帰、神の約束を待ち続けるイスラエルともなるのです。この信仰の配慮はヨセフの遺言において、すぐに遺体を墓に葬らせなかったことの中にも見られます。

アブラハムの記事の中には、復活の信仰の表明、神を信じる信仰、約束の実現を信じる信仰が描かれていたのだと見ることが出来ます。ヤコブがなぜシェケムの地を購入したのかということを、それと同じことだとすれば、来るべき日・神様が約束を実現される日にその地がヤコブのものとなる、またヨセフのものとなるということを知っていたからだということになります。

それゆえ、ヤコブは「神はあなたがたとともにおられ(※2)、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。」と解説をしながら、エモリ人から取ったシェケムの地を与えようとヨセフに示すのです。このシェケムを相続する行為は、ヤコブにとって、神様の祝福の相続を受け継ぐものとしてのしるしであり、言い換えれば、主の日に神の約束の実現である天の故郷を望み見ていた信仰、霊的な事柄と結びついています。

(※2) インマヌエルの主の約束に関しては、「私のしたことすべてを知られる主ろ1マヌエルの主の御姿です。「私はあなたのすべてを見た」と主は、」とサマリヤの女が告白して主のご性質を証していることに関連しています。

 

 

【補足2】

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先ほど触れたアブラハムが購入した墓地のことについて少し補足しておきます。

 

マタイ27:3

 27:3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

 27:4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。

 27:5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

 27:6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。

 27:7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。

 27:8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。

 27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。

 27:10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

 

ここに預言の成就が書いてあります。預言が書いてあるから、ここで預言の出来事が起こった、と読むなら、預言の示している意味が何のことか分からなくなります。聖書の預言は確かにイエスキリストにおいて実現しますが、「預言の成就のためにこうなる」と書いてあるとしても、事象の本来の意味は預言にではなく、出来事(実現)の中にある。預言と出来事の関係については、「聖書の預言として書かれてあるこの出来事が神の御心として何かしらの霊的な意味があってそのことが成し遂げられた、そのことを前もって、預言者たちは神の霊感によって御心を告げたのだ」と理解することのほうが自然です。預言者たちは、未来に為される神のみこころによって為されたその出来事を霊的な目で見たのでそのことを証するのではないでしょうか。だから、預言書の書いていることが意味もなく、そのとおりのことがなされたから預言のとおりでよいのだ、証拠となるのだ、ということではなく、本意は預言の成就された出来事の方にあると考えます。

 

では、なぜ、ユダは銀貨30枚で主を売り、それを神殿に投げ入れ、祭司たちはその血の代価で陶器士の畑を買って旅人たちの墓地とするのでしょうか。

イエス様は、裏切る者また罪びとたちの手によって、銀貨30枚で売られていきます。そのことに対して、祭司長たちは神殿の納入金にふさわしくないとして、その代価によって祭司長たちが陶器士から墓地を買い、旅人たちのために用いました。不思議なことに、呪われるべき人間の忌むべき罪の行いの上に神の全能の支配と主権によって神のご計画が働かれ、霊的な意味での御心が成し遂げられています。人の罪の汚れた行為を超えて、神はご自身の手によってみこころをなしとげられることに用いておられます。その意味では主の十字架も同じです。人間が敵意を持ち、憎しみをもって、サタンに従う心によってイエスキリストを迫害し、殺しました。それは人間の罪であり、呪われるべき行為です。しかし、人のその汚れた行為によって生じる結果をもって、御父は死の力を持つサタンを滅ぼし、罪から罪びとを救う贖いを成し遂げてくださったのです。兵士たちは、イエスキリストの上着を分割し、下着をくじにして分けました。何をしているかわかっていない愚かな罪ある者の行為です。しかし、その醜い行為の上に、神の恵みが及ぶ預言が成就していきます。神はご自分のみ心を成し遂げて、神は私たち罪びとに主イエスの義の衣を着せてくださることをかたどる神の御業としてその記事が描かれていきます。これらのことを考えると、ここに、ユダの罪深い行為だけが描かれているのではなく、この呪われるべき行為の上に全能の神ご自身が私たち罪人に対して成し遂げてくださる恵みの実現が暗黒の中で輝いているのを見ます。

 

この銀貨30枚によって、陶器士たちの墓地が買われ、旅人たちの墓地となったことは、預言として意味を成すと考えることのほうが自然です。エレミヤ書に示されているように、主ご自身が私たちの陶器士です。私たちは陶器です。私たちは土地のちりからできたものであり、形作られた方は主です。陶器士の畑によって買われた旅人たちの墓地とある旅人とは、寄留者であり旅人であった信仰者の霊的な姿を示唆します。この世では完全な満たし、栄光ある嗣業を手にすることは確認できなかったように見えても、繁栄も成功も手に入れることはできないかもしれませんが、しかし、信仰者はそういった地上的なことに着眼しているのではありません。ただ、神様だけが与えてくださる天の故郷、永遠の上からの嗣業・祝福を求めています。そのような生き方を求めるものこそ信仰者です。アブラハムも、イサクも、ヤコブもまた。イエスキリストを信じる者も皆そうです。彼等は皆、地上をではなく、永遠の天を見据えています。すなわち、御救いのある主キリストのいますところを。旅人たちの墓地が神ご自身の代価によって買われ、備えられているのを見て、神は私たちの未来を備えておられるということを覚えることができます。この世では寄留者であり旅人である信仰者に対して、神は唯一この地に墓地を備えておられます。このことは、神が永遠を備え、永遠の安息を確かなものとし、また私たちの死後の世界、未来の世界の備えとしてくださっていることを思うことができます。これは、復活の信仰に通じるものです。イエスキリストの血の代価によって、私たちは神の備えてくださる永遠の安息を得ます。しかも、主はご自身を全く虚しくして、つまり銀貨30枚で値積もりされた人の目に無価値な死とみられる行為を通して、無価値な私たちの命を救うために、尊い命を与えてくださいました。そのことによって私たちに命の安息と祝福を継がせてくださいました。預言は御心として成就したのです。

十字架を通して、人々の汚れた罪の行為の上で、神は私たちに霊的な祝福を備えてくださいました。

 

この観点を通して、考えていこうとしていることは、「なぜ、アブラハムは天の故郷を求めていたのに、カナンに墓地を購入したのか。」ということです。彼もまた、地上ではカナンを自らの所有として与えられることの本意を見ませんでしたが、霊的な意味では、神が与えてくださる永遠の祝福、天の故郷を望み見て、復活の望みを抱いて、畑地を購入したのではないかと理解することができます。それはキリストによって与えられる永遠の命を求めていたことと同じ意味を持ちます。彼は、主イエスの日を望み見ていたのです。すなわち、神がアブラハムに約束されたこの約束の実現は、キリストの日において起こる預言の実現です。アブラハムは主の日を求めていたということができます。

それと同じように、ヤコブもまた、私たちの目には不思議に見えたあのシェケムの地の買取も労苦の働きであり、霊的な意味で言えば、復活の信仰によってキリストを求めていたといえます。