箴言の学び
鈴ヶ峰キリスト福音館
新約の光に照らされて、箴言の書物からキリストの御姿を仰ぎ見、神の御計画を覚えることができますように。
【1章】
箴言とは何か。同じ原語が民数記23章にあり、民数記ではバラムの「ことわざ」という言葉で、これが、「箴言」と訳されている。
民数記のバラムの言葉の中には、「メシアの日に関する預言」、また「やがて来る来臨の日に関する終末の預言」と関りがあることを覚えた。
そのほか、申命記やT列王記、歴代誌の中にも、「主の御声に聞き従わず、命令と掟を守り行わないなら、あなたは恐怖となり『物笑いの種』となりなぶりものとなろう」とある、この『物笑いの種』として出てくる。
列王記の中のソロモンの言葉、そのほか「格言」という訳でヨブ記27章にもある。
詩編78編では、イスラエルの歴史がしばらく語られて、「口を開いて「たとえ話」を語り・・」というたとえ話として。
エレ24:8では良いイチジクと悪いイチジクのかごのたとえ話がある。主に聞き従わなかったイスラエルを悪いイチジクとして、ここでもその「物笑いの種」として出てくる。エレミヤ書の悪いイチジクのかごに示されていたのは、キリストの罪を負われる二面性であったということはすでに学んできた。
これらすべてに共通していえることは、イスラエルが聞き従わないときに表現されるイスラエルにとっての終末の日にある「箴言」が語られていたということである。
ヨブ記や箴言を学ぶと、終末の日における義人の取り扱いをテーマにしているのではないかと感じられる。
1:2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、
1:3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり・・・
「体得」とは受け入れるということである。
十字架の主イエスキリストは、終末のユダヤの只中で「物笑いの種」となられた。
人々が手をたたいて、あざけられた人となった。
キリストの十字架の日に、もしユダヤ世界が、「知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解し、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得」していたならば、主イエスのことが分かったはずである。
イスラエルが主に聞き従わないときに、主は物笑いの種となった。
イエスキリストも私たちの罪を背負われたときに物笑いの種となって、そのことを、神を畏れる者が識別し、それが何なのか、ということか分かるようになるためにこの箴言があるのではないだろうか。
ヨブの格言の中で、「息絶えるまで自分は潔白だ、自分には罪がない」と神に愛されている者は主張した。しかし、周りの者は、彼の生き方を見ていながら「まったくむなしいことをいう」と彼の罪を主張した。しかし、そのように物笑いの種となっている義人ヨブの姿はイエスキリストの御姿でもあって、主イエスご自身が、公生涯を始められて、水の中に入られたときには、父の御旨を生きられ、主は、み言葉の中に書かれてきた義人の苦難をご自分のことであると識別された。
そして、信仰者もまた、終末を覚えながら、キリストの日に、キリストご自身と神の業の実際を知り、受け入れるようになるために、その日、その時を知るために、箴言は「聞く」者に与えられているのではないか。やがて来るその時がどのような日であるのかを悟るようになるために、父には子に示すべき箴言がある。
箴言の書かれている目的は、「信仰によって神の言葉を実際の生活の中で信仰によって結び付けられる歩みに至るための訓戒・教育」なのだ思う。
箴言を読んでいると、五書や預言書、福音書、使徒たちの手紙のような書物と異質な感覚があり、以前は、人間的な知恵の言葉のように感じられて、主の言葉そのものとは言い難く「侮ってしまう」愚かさが心にまとわりついていたが、神の御心を悟るものでありたいと願うのなら、神への畏れをもって、み言葉に与らせられる。
主を畏れることは知識の初めである。
すべての学びと知識の根源に「主を畏れる」ということがある。
どんなに崇高で難解な聖書の知識と律法の理解、人間の知恵を持っているように見えても、主への恐れのない知識は上からのものではない。その目的は「利得をむさぼる者の道」であり、自分の利得・名誉・肉にある自己(ネフェシュ)をだけ求めている。その先には、持ち主の命を持ち去ってしまう、という愚かな者(主を知らないで生きた者)の結末だけがある。
「主を畏れる」ということが知識と知恵のすべての土台である。
1:5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。
1:6 これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。
箴言2章
もしあなたが私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちに蓄え、もし、 なら、・・・
なぜ、このようなことが起こり、このようなことがヨセフから語られ・・・。
心に、正義と公正に基づく神のみ旨が示されていくならその訴えに心を傾けるのなら、主の戒め・叱責を受け止める。
愚かなものはいつまで知識を憎むのか。神の善を拒絶するのか。1:22
1章では、主が知恵となって、愚かな者、無思慮のもの、すなわち罪びとの道に立っていたものに対して、神を認めないままでいた私たちに、叫び、聞こえる声として迫ってきた。そして、これは主イエスの福音だった。
1:23わたしの戒め〔叱責(新改訳)〕に心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ〔見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ(新共同訳)〕、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。 「立ち返って、わたしの懲らしめを受け入れるなら」は、「悔い改めて、主の御言葉に聞き従うなら」
終わりの日に臨んで、神の民は神の慈しみと憐みによって、心が刺し貫かれて神が哀願の霊を注がれることによって、自分が刺し通した方を見ることになる。そのような主の語り掛けに対して、はじめ、罪は、主を拒絶し、捨て、聞こうとしなかった。そして捨てられた。そして、いまある災い、苦難、どうしてこのようになったか、を漠然と、自分の行いが悪いからであることを知っている。しかし、主を捨てた、そのこと自体を認めていない。隠している。そのことを前面に出さなくても何とか生きていけた。
しかし、神は、命の道に至るために、子たちをその魂の内に神の求められる救いに与る命の宝を見出したい。主を仰ぐための自分の罪を知った悔い改めに至る彼らの魂を探り、彼ら自身に命を与えるために、悔い改めに至る命の霊を探し求めておられる。
もし、神の知識を心に蓄え、語られたこと、なされたこと、いま、あること、起きていること、私の身に生じるすべての目の前の出来事や聞いてきたことに対して、神の取り計らい、の中に自分が立たされていることを認めるなら、いま、あることが、神のみ旨の中に取り扱われていることをしり、わたしの歩みの一つ一つが、主の采配であることを受け入れることができる。そして、そのように自分の人生を知るというのは、真理を知るということであり、自らの命、道において、神を恐れるという結果でもある。そして、人生の真理を見出す。その知識、は、「神の」知識に至る。
命の道に至るための神の知識の最初は、私たちが主イエスキリストを知ることにおける、悔い改めがそうであった。
このみ言葉を覚えたとき、ヨセフの記事を思う。神が約束された地のはずであったカナンの地で、ヤコブの一族は貧困と飢饉で苦しんだ。神が全世界の中でイスラエルを救おうと定められたために、苦しみの時にヨセフがエジプトに渡されたことを許された。
神の祝福のもとにあるべきはずなのに、あるのは苦しみ。ついには、大いなるものから、疑いの嫌疑がかけられ、不正なものとして処罰されようとしている。あの、エジプトに食料を買いに来た時に袋の中に入れられた銀の杯は、年長のものからはじめて、ひとりひとり、探り求められた。ヨセフの宝である銀の杯を。(初臨の主が来られた時、ユダヤ人の中にその宝・贖いの杯は認められなかった。年長者から初めて主の前から去り、悔い改める者は誰もいなかったからである。)
銀の杯は、それをもってまじないをするもの、であり、神の采配・ご計画を尋ね求める宗教的意味合いのある祭具である。
神が、それをしておられる。ということを意識させる。そして、ヨセフがエジプトで体験したことを一言で言い表せば、彼が子供たちの名をつけたように、売られて奴隷となり、それは、兄弟たちのために苦難を受けた、ということである。苦難のしもべである主イエスの型であるから、その銀の杯が象徴するものも、神の子の苦難を経て成し遂げられる神の御心を表す。その杯は、神のしようとしておられることを示したものであって、主ご自身の受けられる杯を意味するものであり、銀とは贖いである。苦難のしもべであるキリストの受難は彼らのためであったということは、初めからの神のみ旨である。
銀の杯をイスラエルの子たちの中に隠されたヨセフ自身が、彼らの中から探し求めている。銀の宝の杯を。今日の節の様に。
命の道に至るためである。彼らに対する主の取り扱いを覚えさせ、彼ら自身が自分が何をしたのか、どういう者であるかを悟らせ、このようなことがどうして起こるのか、との魂への問いの中から、主ご自身を否んだ結果であることを悟らせようとしておられる。彼らの中に主は住んでくださり、主ご自身の業はすでになされていたのであるが、かつてそれを拒絶した彼らは今や彷徨っている。もはや自らの内に救いはなく、命に至る道は失われてしまっている。それゆえ、命の道に至る道に生かそうとされる主が、命を失ったものたちへ、悔い改めと彼自身の言葉によって(私のところにいなさい)という、生きることをみ旨とされた主が、彼らの内に贖いの主を彼ら自身の中にはっきりと隠されて、彼らの中に隠された宝・命に至る悔い改め、神がすでにしてくださった業への回帰、を仮らの心の中に探し出そうとして、そして、彼らの中に命に至る宝(悔い改めの告白・救いは主である)をあらわにされる。
そういう、ドラマがあのヨセフの銀の杯の中にあったのではないか。隠された銀の杯を探されるヨセフの姿に神の御姿が見出される。そして、それは、そのままイスラエルに対する終末の取り扱いでもある。神がいつくしみ・あわれみの内に閉じ込めなさり、哀れみによって、全世界を贖う主の福音の宣言でもある。
−−あなたは、神を恐れ、神がなされる業に対して、へりくだって、主が私たち自身に取り計らわれることに対して、命に生かそうとされる神の哀れみを認めて生きるものとなる。
このような知識は、神の知恵である。
6節で 「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」と、その理由を、6節で、「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。」と述べている。
主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と語られた。
また、「私は真理です。」(ヨハネ14:6)とも語られた。真剣に、謙虚におかれた自分の立場で、真理を探究すれば、イエス様にたどり着かなければ生きられない。
私たちは神の言葉のひとつひとつを、ほとんどの場合、聞いたその時には理解できない。しかし、語られたことを素通りにすることなく、心に蓄え、自分の生活に適用できないでいるときにも、真剣に耳を傾けようとするなら、耳を傾けるとは、自分の道の中で、それを適用し、知ろうとすることだと思うが、それが求めるということであり、ついには、主が「私にしようとしておられること」、語られていることを悟る。神のさとし、戒め、訓戒、ひとつひとつの私たちの枝葉の別れでたる歩み方、ひとつひとつの生き方の選択の中で、主が私たちに示されることを受けて生きようとする真剣な求めをもって、神の御心に聞こうとするなら、神の「取り計らい」の中に自分が立たされていることを知り、神を恐れるという知識を受けて、人生の真理を見出す。その知識、は「神の」知識に至る。主が私を取り計らっておられることを知るなら、私たちの心はへりくだらされ、また、安心する。
箴言には、人の心には様々な計画を持つ。しかし主のご計画だけがなる、と言う箇所がある。主権は神にある、私たちが神を恐れて生かされていることを正しく知るなら、主のご計画に沿った歩みをすることを求めることとなる。神は命の主権者であるから、主は祝福と命の道を備えて、愚かな者たちに神の知恵に生きるように呼ばわってくださる。神の語られる言葉は、人を「命の道に至らせる」こと。
生かす言葉こそ、福音の主の御声。
常に主は憐み深い。今日も神の哀れみによって、招かれている。
箴言3章
3節
3:3 恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
3:4 神と人との前に好意と聡明を得よ。
3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3:13 幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。
3:14 それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。
3:15 知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。
3:18 知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。
3:19 【主】は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。
3:20 深淵はその知識によって張り裂け、雲は露を注ぐ。
3章でも神の知恵という言葉が多く出てくる。わが子よ、と神に愛されている主に従う者たちに対して、「恵みとまことを捨ててはならない」と語られていく。
恵はヘセド、この方は恵とまことに満ちておられた。恵とまことはたびたび同時に出てくる。神の知恵が地の基を定めた。地の基は創造をイメージさせ、神の知恵が天地を創造したと語る。そして、このことは、ヨブ記のやり取りを思わせる。「あなたは知っているのか」
ヨブは律法によれば(律法以前の人物であろうが)、彼は祝福を受けるべき歩みをしてきた。それなのに彼のところに主の呪いとしか思えないほどの苦難が迫ってきた。昔から、主に罪ある者がそのようなさばきに合うのだ。3人の友人は罪あるものとして断罪した。しかし、自分のうちに罪を見出せなかった彼は、「私は主と言い争う」と言って、主と議論する立場に立って苦しみの中で口を開いた。そして、ついに、「私は神を罪に定める」と言わんばかりの臨界点に達したときに主は嵐の中からヨブに応えて仰せられた。
ヨブがつまずくことを神はお許しにならなかったという慈しみを覚えるが、そのとき、「あなたは知っているのか、神の知恵を知っているのか」森羅万象の物語を語り聞かせて、神の知恵がこの天地を創造した、ということをお語りになったのである。
3:19 【主】は知恵をもって地の基を定め
神の知恵が、この天と地をお造りになり、そのことは、「主の創造の御計画のみわざは神の知恵によるものである」ということを示している。「創造の御計画の御業」と置き換えて心にとめると、何のためにどうしてこの世界が造られたのか、天地が造られたのか、と考える。天と地を創造し、人間を創造され、やがては、どこに至るのか。神の創造の御計画に心を止めると、主が初めからしようとしておられたことは何であるのか。という主の永遠の御計画の本位について考えることになる。
ヨブは苦しみの中で、「なぜ私はこんなに苦しみ、災いが、私に起こらねばならないのか」と口にした。
主はそのときなぜ知恵のことについてヨブに語られたのだろうか。
この箴言の言葉を読むと、主がしようとしていることがなんであるかをあなたは知っているのか、と問われていく。この世界がどこに向かい、あなたの永遠の命がどう取り扱われていくことになるのか、ということをあなたは知っているか。神の御計画について、知っているのか。
この世界について、私たちの命について、神に従う者の命の結末はどうなるのか、み言葉は与えられている。
私たちの主イエスキリストの命の贖いとキリストにある完成のことについて思わずにはいられない。
Tコリント1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
パウロは、キリストを信じないこの世にとっては、キリストの十字架は愚かであっても、神を信じる者にとって、キリストは「神の知恵」であると語った。
2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
隠された奥義としての神の知恵は世界の始まる前から、あらかじめ定められたものだと語る。神様が創造の御業をなさるときに持っておられた神の知恵が働いていた。この知恵は、キリストにあってなされるすべてのことであるが、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
その据えるべき土台はキリストである。キリストの上に立てあげられる。神の前に残るべきものはすべてキリストの上に築き上げられる。そうして、自分を自分の知識によって知者であるというのではなく、キリストの上に建てあげられるべきことを語っていった。世界の基の置かれる前からキリストにあって選び、と、キリストの教会を選ばれた。創造の初めから人は男と女に創造され、と書いてある。
何のために創造されたのか。何のために男と女に創造されたのか。
すべての神の創造の御計画の御業は、キリストにあって、神の知恵によって創造された。神の知恵はキリストと言ってもいい。キリストにあってと言ってもいい。キリストのためにと言ってもいい。そのように世界は創造されたのだ。私たちは創造され、神を信じる者はそのように定められている。
こうして、福音の言葉を聞くと、被造物の存在していることの意味の中には、神の創造の本意があるのであって、まさに、神の知恵によって定められている。
箴言の言葉のとおりである。
コロサイ
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。
パウロは、多くの書簡を通じて、この世界が一体何であるのかということについて、神の奥義としての知恵を語った。この知恵は信じる者にとって、神の力、神の知恵である。すべてのものは神から出で、神によって成り、神に至る。この世界について、信じる信仰者の命のありようを語る。パウロの言うように、キリストを知る理解において、この世界を悟るとき、人生の真理を悟る。何のために生きているのか、どこに向かうのか、この苦難に何の意味があり、この世界はどこに至るのか。神の知恵だけがその答えをもって生きさせる。この世の知者は得ることができない。
主を畏れることは知識の初めである。私たちは上からの賜物、恵みにより、神の真実によって命が与えられ、保たれている。不敬虔な生き方は、この人生に対して永遠の先に何の意味をも与えない。愚かである。しかし、私たちがすべきことは、主が与えてくださるもので生き、主に感謝し、神の礼拝者として生きるのである。
箴言は「わが子よ。主を恐れよ」と語る。「恵とまことを捨ててはならない」神が与えてくださる上からのものによって生きよ、と。
3:4 神と人との前に好意と聡明を得よ。
「聡明」は、アビガイルの姿を思わせる。彼女の聡明さは愚か者であるナバルの妻でありながら、まだ人の目に王位を受けていないダビデに対して、「あなたこそ油注がれた方」、イスラエルを救う王(メシア)であることを正しく理解し、認識し、恐れて、この方を主としてへりくだった人であることを見る。そこに、彼女の聡明さが表れている。
私たちの主イエスは、この世には王として迎えられておらず、侮られている。しかし、主イエスこそ、真の王であり、王の王である。それが永遠の神の真実である。
しかし、この世界は暴虐が支配しているように見える。そのような世界の中でこそ、神の子たちが、神を畏れて、イエスをメシアであると認め、迎え、主を恐れて生きるなら、そこに神の御前に得る聡明がある。
不敬虔な世界の中で、誰が私たちの救い主なのか、誰が私たちを生かすお方なのか、どこから恵みとまことは来るのか、ということを知っているのは聡明である。
ノアは主の目に恵みを得た、とある。彼は全き人であった。私たちのすべての道、歩みが全きものであるということがどういうことであるか、そのすべての道をまっすぐにされる、とは神の目に恵みを得て生きる、ということに他ならない。
ノアは全き人であった。彼のすべての道はまっすくにされた。彼は主から箱舟を作るよう召命を受けた時、長い期間箱舟を作ることに専念した。食べる時も寝るときも、考えることはすべて、人生の主要な部分はすべて、その生活の中で、神の言葉が彼を支配した。彼のすべての時間は主の言われたことに腐心したに違いない。彼の歩みが全きものとみなされ、すべての道がまっすぐにされた生き方。
神の救いによらなければ生きられない、というのが彼の人生の総括である。神の語られたとおりに、彼のすべての歩みがそのことに集中し、そのために実行されていく。全部の道が、小道が、彼の活動の全域に及んで、主の言葉、箱舟のために費やされただろう。箱舟はキリストの日の贖いの御業を指し示す。ノアの日は、主の贖いの主の日を示す型である。
主の御救いが私たちの命を救うすべてである、と私たちが真実に知り、キリストの贖いの血潮なしには生きられないのだ、という、そこに私たちの人生のベースが置かれ、私たちのなすこと、考えること、その道のすべてが、主の御業に向けられていく。
神と人との前に好意と聡明を得よ。
心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
ノアも箱舟によって救いを得たキリストを指し示す型。アビガイルも聡明な人と言われ、彼女もキリストを指し示す王なるダビデを真の王として主にあって恐れひざまずいた。そうやって箴言を読んでいくと、天地を造られた神の知恵が語られ、この世界の真理とは何か、キリストこそ神の知恵であって、キリストによってすべてが全うされ、キリストを信じる者をキリストに御元に引き寄せ、キリストによって命を与え、キリストに結ばせ、キリストにおいて完成させる御計画を持っておられるということが示されていく。
ヨブは、なぜこんな苦しみが、と叫んだ。神はあなたは神の計画を知っているのか、と応えられた。
主は永遠の御計画を持っておられる。あなたの命の永遠は神によって取り扱われ、神が祝福される。
自分の知識、自分の悟りが命を救うのではなく、神はキリストをして、人を永遠の命に導く御計画を推し進めておられる。神がキリストによってしようとしておられることを、主を恐れる者は主を認めなければならないのだ。