聖書研究会 原稿

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

/投稿2004/6/16/ メッセージ200xxx(金)

シリーズ:キリストの足跡 マタイ福音書 22(2)


―― 神を愛する ――

マタイの福音書 22章34節〜40節
22:34 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 こ の個所は主の敵であるパリサイ人たちからの質問である。したがってこの人びとたちは友好的な意味で主に近づいてきた人々ではないということが言える。むしろ敵対的な思いを持って質問してきたのである。しかし御霊はこのパリサイ人の質問を私たちに主のみ心を教えるすばらしい福音の言葉とされた。主イエスのこの回答を得て 、主の御前にある私たちの真実の姿と主イエスが私たちにとってなくてはならないキリストであることを示される。しばしば友好的でない主の敵たちの質問によって 、私たちは主に自ら問いたいであろう質問と回答を聞くことがある。

 まず律法と預言者が語る最も根底的な戒めというものをイエス様は明確にまとめて答えられた。36節にあるように「心を尽くし思いを尽くし知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。これら律法の中で最も大切な戒めである」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この戒めも同じように大切で、律法全体はこの二つの戒めにかかっている」

 この二つの戒めは非常に単純なことである。しかしこのわずかの言葉は非常に深く広大である。同時に私たちにとって遠いものでもある。そしてこの言葉を私たちが真心から真実に受け止めるなら、この言葉ほど私たちの罪を明らかに示し、私たちが主のみ救いをどれほど必要としているものであるかということを突きつける。

 この問いは誰がしたものであろうか。集まったパリサイ人たちであり、しかもその中の一人の律法の専門家である。パリサイ人というからには、彼らの意識の中にはおそらく 、自分たちは神の特別な選びをうけ、選別され、神に忠実な者として神の特権に預かるものであることを意識したに違いない。人々――すなわち、この世俗とは異なり、律法を重んじて神の前に立つ者であるという意識を持っていたに違いない。特権を感じながら、または大切にしながら生活していたであろう。そもそもそれがパリサイ人たちの起源ではなかったろうか。パリサイの語源ともいわれるパラシュとは「分離」された者であることを表す語である。分離とは世俗から分離されたことを示すであろう。すなわち自分たちこそ神の律法を重んじそれに仕えるというスタンスを明確にしたものである。彼らが特権を感じるというその後ろ盾には、自分たちが律法に従っているという彼らの宗教心がそれを支えていたのである。そのような彼らがここで主イエスに対して質問をしたのである。
その時、主は問われた律法の質問に対してこのように答えられた。

「心を尽くし思いを尽くし知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」

 イエス様の答えにある律法の本質である「神を愛する」ということは、律法の研究や聖書の知識に直接関する事柄ではなかった。
 あなたの心、あなたの思い、あなたの知力を尽くすとは、「あなたの真心から」ということである。全力で真心から愛するという時には偽りなき真実な その人の奥底にある心の状態を求められている。

 このとき、神を愛するということと律法――すなわち聖書の知識を持つということとは直接結びついていることではないといえる。「律法の根底的な教え、律法が最も教えている戒めがこれです」と言われた時、パリサイ人は、主のお答えに同意したであろう。しかし、この言葉を聞いたとき、彼らが人間的に積み上げてきた栄光 、律法に対する熱心さや特権意識というのはもろくも崩れ去るものである。どれほど、聖書に精通していたとしても、律法を覚えていてもまた正しく解釈していたとしても、主のお言葉は生ける信仰によって主に結び合わされているのでなければ、この律法の本質はあなたがたにとって何のかかわりもないということを明らかに示すのである。彼らの特権意識も宗教心もまた彼らの規範的な生活も生ける神に信仰によって結びあわされているのでなければ何の価値もない。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神の前に生きているのでなければ、律法の目的と要求、すなわち神のみ思いを満足することはできない。

 ではこのようなことが人にできるだろうか。
 人は心を尽くし思いを尽くし知力を尽くして全き神を愛することができるだろうか。
 それは、本来、人にできることではない。元来の人は、神を愛することはできないのである。人はどのようにして神を愛する思いを持つことができるだろうか。

 このように冷静に客観的に考えるなら、決して人は生まれながらにして神を愛するというという感情は持ち合わせていないのである。というのは、聖書が示している通り、生まれながらの人は肉であり神に敵対しているものだからである。私たちは罪のもとに生まれ、不義の中で生きるとき、聖なる神の御前に正しく立つことはできない。罪人にとって全き神は恐れの対象である。罪人にとって聖なる神は恐れるよりほかにない。

 そのような人が、どうして神を愛することができるだろうか。しかも、この愛は心を尽くし思いを尽くし知力を尽くして愛する愛である。偽りない全く真実の心から愛する思いである。この愛は、罰則に対する恐怖や 、報酬や利得を求める心からでは決してない種類のものである。時として奴隷であれば罰則を恐れ、あるいは報酬を求めて主人に従い、命令を守ることはできるであろう。イエス様が示された律法の本質は、そのような動機からくるものではないと示された。なぜなら 「真心から」神を愛することこそ律法の要求であり本質であったからである。奴隷根性では決してない。

 これは、まさに愛する子、愛される子が愛する父(親)に対してもつ感情である。それゆえ、このような神を愛するという感情は、本来神に敵対する者が持ちうる、あるいは成し得る感情ではないのである。

 ただ、神によって赦された者がされうる心の状態である。神を愛する者とされるとは、キリストによって、神との平和・和解を得るのでなければこのような状態は生み出されないことが明らかである。自分の罪がキリストの贖いによってゆるされたと感じる時、初めて、恐れなく愛する方の御前に出ることができる。おそれの対象であった聖なる神との和解があるとき初めて主を心から愛することをはじめることができる。神が本当に私を赦して下さったと真心から理解するのでなければ、神を愛するお方として認識することはできないのである。神が私を子供として受け入れてくださり、自分をとがめるものとしてではなく、自分を愛し、恵みによって満たされるかたであると知るのでなければ、私たちにとって神はいつも私の罪を裁く聖なる裁定者である。
だから私たちはこのみ言葉を聞くとき、御霊によって子とされたものでなければ決して主の言われた通りに愛することができない、律法の要求を全うすることができないといえるのである。そして負債を負っている私たち、元来の罪人、神との和解のないものがなすことのできない律法の要求である。

 赦されたものにこそ可能な愛こそ、イエス様がここで語られた律法の本質であった。

 しかしながら、このイエスキリストに対する質問はどのような状況にあっただろうか。パリサイ人たちが、キリストに問うたのである。これらの問いは、イエスキリストと敵対関係にある、あるいは主を試みる、という彼らの思いから発せられた言葉であった。彼らは明らかに神との和解のないときにキリストに律法を質問し主 に投げかけたのであった。イエスキリストは、ご自分を証されるときにどのように言われただろうか。「だれでも父のみこころを行いたいと願うならその人には、わたし(御子)(キリストとして)(神)からつかわされて来たことがわかる」、とおっしゃった。しかしここにはイエス・キリストを受け入れず、しかも神との和解のない状態でむしろ敵対関係にある中で律法という神の思いを問う試みをしたのである。この時の主のお答えは、パリサイ人・律法学者たちが納得し同意したものに違いないが、真実に受け止めるならこの律法の本質こそは自分たちの罪を指摘するものでしかなかった。

 主が語られた真心から愛する神の愛は、宗教世界の中で積み上げてきた彼らの権威や特権意識、また彼らの宗教的行為、聖書に対する熟練した知識も補ってはくれない。ただ、肉にあるもの、神と敵対している自分が、決してそのようなことをでき得ないということを突き付けるのみである。人にはできない、この肉の限界が示されることはほかでもないキリストによって明らかに示されたのである。

 しかし、主は私たちを裁くためだけにこられたのではない。だから、神を求めるものは主に感謝すべきである。なぜなら、主は現に彼らの前に立っておられたからである。

 まさに、このような時、キリストである主ご自身がメシアとして彼らの前に立っておられたのである。本来、彼らはなんと奇遇で幸いであっただろうか。ここに霊的な視野では、私の罪を赦すことのできる方、神との和解を得させる神の子が罪深い者の前に立っておられたのである。彼こそ私を神の前にとりなしうる唯一のメシアであった。それゆえ人にできる唯一の解決は、主により頼むことであることが明らかになる。私たちが神を愛するようになるのは人の肉の領域を超えた事柄である。神を愛そうと意識しても、律法に熱心になったとしても、肉の限界を超えることができない以上、神をあのような真心をもって愛することはできないのである。もし、できるとしたら、それは神の業である。赦しを得させる神の救いの故である。旧約の聖徒たちが神を愛した愛も信仰によって受けた主の救いのゆえによる。キリストの血によって私たちをあがない、聖霊が私たちの心を変えて、新しく生まれるのでなければ決して私たちが神を愛することはできない。キリストイエスの心を受けるのでなければ、生まれながらの私たちには決してできない。

 この主の語った律法の本質はまさに律法全体と預言者が語る中心的命題である。律法全体と預言者はこの戒めにかかっている。聖書が示したことはここにある。そして、これが可能な道こそ、神の赦しと和解、子とされる以外にない。すなわち、この律法と預言者は、唯一の解決者・キリストを指し示しているのである。

 この律法の要求は私たちに救い主を求めさせる。肉において無力となった私たちにどれほど主の救いのみわざとあがない、神の尊い血潮が必要であろうか。律法の要求は、また律法全体と預言者とは、唯一のキリスト・イエスである方を明らかに指し示している。

 預言の成就に目を留めたい。
これがイエス・キリストによって成就したことを私たちは知っているが、このことを再度心に留めたい。

エレミヤ書31章
31:31 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

彼らの心に律法を書き記す」と書いてある。それは新しい契約によるものである。なぜそれが可能であるのか。
旧約の時代不可能であったことを再現するのであろうか。
そうではない。主が言われたのには理由がある。その理由は、34節に書いてある。

「私は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」と書いてある。
 そこには、あがないがあり、赦しがあるからだといっておられる。そして、これこそ主の宣教の実際の御姿である。イエス様が人々に教え、戒めておられるとき、その律法の本質は、「子」が受ける戒めである。子だからこそ受ける戒めであり、それは誰に対して語られたものか。それは、主が現に罪を赦し、購われた救いだされた者――キリストの救いを受け、子とされた者にはじめて語られる実現可能なみ言葉である。その意味で、山上の垂訓も心に留めながら読むならそういうことであることが分かるであろう。ここに、彼らの心に律法を書き記すとある。それはなぜかというと、「神が自ら、彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないから」である。

 肉によって追い求めても決してできない戒めが語られたとき、罪を持ち神との和解のない者がどのようにならなければならないのかが示される。

 それは律法と預言者が指し示す唯一の救い・キリストイエスの御元にいくよりほかにないということである。熱心さも努力も和解の理由にはならない。ただ、聖書は、そこにイエス・キリストをだけ指し示しているのである。

 このイエス様と律法学者との問答の答えは、明らかに私たちをキリストに向かわせる福音のメッセージである。

(以下、今日のテーマに関する議論と話題)