生ける信仰(2/5)


 弟子たちはイエス様を『主なるキリスト』であると告白した(16章)。しかし、その矢先に主は御自分がイスラエルの長老・祭司たちから多くの苦しみを受け捨てられ殺される、そして3日目によみがえらなければならないことを示されていた。しかし、そのことは弟子たちには分からなかった。
 3人の弟子、ペテロとヤコブとヨハネは、山上で主からもう一度このことを聞いた。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
 「死人の中からよみがえるときまで」、この言葉を聞いた3人の弟子たちは、「彼らには分からなかった」と別の福音書には示されている。よみがえるときまで、と聞く弟子たちのこころの状況は単なる否定や反信仰ではない。どのように主の言葉を聞いたかはマルコの福音書に描かれている。

マルコの福音書9:9
9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
9:10 そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。


 彼らは主の言葉を心に堅く留めていたというのが、この時点の心境である。この3人の弟子は特にイエス・キリストの力と栄光を目の当たりにしている。そのような弟子は主の不理解の言葉を受けて、イエス様のいわれた言葉は決して偽りであるとは思わなかった。主イエスへの信頼のゆえに、確かにその言われたことは疑いなく信じていたに違いない。しかし、弟子の信じる信仰(の質)は、実際的な意味では理解できないでいた。主が語られたとおりの意味では悟る(信じる)ことが出来なかった。だから、復活とはどういう意味だろうと別の意味(次元)で論じ合った。
 イエスはご自分が復活すると言っておられたが、それを聞いた弟子たちは、主への信頼のゆえに事実であるに違いないと思っているのだが、主の言われている意味のままでは理解することは出来なかった。別の次元に置き換えて信じようとした。

 このことは私たちがどのように主の御言葉を受け入れるかということを覚えさせられる。このような信じ方、受け入れ方は、イエス様に対する偽善でも反信仰でもない。ただ、この種の理解できない信仰は「うすい信仰」であり、そのままでは神の力を実際には体験することの出来ない生きていない信仰である。

 私たちはこれと同じようなことを良く分かっているのではないだろうか。
 神のみわざに対して、主を信じる信仰(の質)は、神の業(恵み)に預かる(体験する)まで理解できない。私たちは主の恵みを体験して、そのとき主の恵みの約束を文字通りの意味でとらえることが出来る。恵みを受けて初めて恵み深さを信じることが出来る、という姿である。
 イエス・キリストを信じるゆえに、数々の主の言葉を信じる立場にあるが、主の示しておられるそのままの意味ではとらえることが出来ないその信仰は薄い信仰である。その信仰はそのままでは生ける力とならない。


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鈴ヶ峰キリスト福音館