生ける信仰(3/5)


 その意味で、ベタニヤのマルタとマリヤは、ラザロの蘇りの事件を通してイエス・キリストへの生ける信仰、真の信仰、深い信仰をもってキリストを仰ぐ者へと導かれた弟子だったに違いない。

 ラザロが死にかかっているので、姉妹は主に助けを求めた。しかし、時遅く愛する弟は死んでしまった。「もし、主がいてくださったならラザロは死ななかったでしょうに」と言うこのとき、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」とおっしゃった。「私はよみがえりであり命である。私を信じるものは死んでも生きる。このことを信じるか
 彼女は主の命の力を信じており、またラザロの復活もよみがえりの時に生きることを告白した。彼女は主を信じた。
 しかし、主の言っておられるそのままの意味ではどうしても信じることは出来なかった。愛するもう一人の姉妹もまた同じように主を信頼していたが、主の言われたままの意味では理解できなかった。主の御前で彼女は泣いていた。彼女たちがどれほど主を愛し信頼していても、主の言葉を語られたみこころのままには信じきることのできない不可避的な心の頑なさに縛られていた。
 主は涙を流される。
 そして主はラザロを死の墓から呼び戻された。
 主は約束しておられたように、そのままの意味でラザロを蘇らせてくださった。

 この事件は姉妹たちにとっても非常に重要な体験であり、彼女たちの霊の目を開いた。キリストの言われたそのまま(御心のとおり)の意味で受け入れる深い信仰、生ける信仰をもって主を仰ぐ者へと導かれた弟子とされたに違いない。
 その後のナルドの香油の注ぎだしの記事を見るなら、福音書の中で描かれる姉妹の信仰の姿はイエス・キリストの言葉を真実に受け止める霊的な状態が描き出されている。

 ここで、弟子たちの言葉をもう一度考えてみる。

マタイ17:19-20
17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 弟子たちは信仰があれば何でも出来る、という保証を受けている。また既に悪霊を追い出す権威も授かっている。主の言葉は、弟子たちには悪霊を追い出しうる者であることを認めていた。
 しかし、出来なかった。
 それはなぜだろうか。「信仰が薄いからです」。マルコ伝では「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」とも言われている。祈りによっていないためである。


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鈴ヶ峰キリスト福音館