生ける信仰(4/5)


 さて、私たちも同じように主から『あなた方に出来ないことは何もない』と主からの言葉をいただく立場にある。その言葉をいったいどのように素直に聞き入れることが出来るだろうか。自然と3人の弟子たちが主の復活の別の意味を論じ合ったように主の言葉そのままを理解しがたい自分の姿があるかもしれない。それは、反信仰でも、信仰の偽善でもないが、薄い信仰であり「生きていない」信仰である。
 「祈りによらなければ」という言葉がある。神を生けるお方と本当に理解するとき信仰者は生ける主イエス様の御前に出て行くことが出来る。

 もし私たちが、てんかんの息子の癒しを求める父親のように、あのとき主イエスの御前に進み出て懇願したとしたら、どうだろう。そのように主の救いと力を求めるとき、あの父親の願いに応えられた主イエスが私たちを受け入れられない筈はないという聖書の世界を知っている。(傲慢の意味ではなく主が哀れみ深い方であるから)私たちは求める者を見捨てられるというそのような主の姿を想像できるだろうか。決して出来ない。
 私たちが苦しみのとき、主がそこにおられる世界に私たちがいたなら、主の御元に行けば必ず救われることを確信できる。主に求め出て行くとき、必ず哀れみと救いの手を差し伸べてくださる。それは私たちの主張すべきことではないが、そのような哀れみ深い主を知っている。
 二千年前の御姿を見ているときそう思うなら、今、クリスチャンが本当に主が生きておられる方、生きて私と共に歩まれるお方を知り、人格的に主を知るなら、主の御前に出て必ずかなえられる祈り求めをすることが出来る。そのとき不安や不信仰はない。神の助けと救いは疑いようがない。そこには、主の御前に出ると言う立場、「祈り」がある。私たち信仰者が生ける信仰を持つことは、現に主と共にあるという事実を知ることによって力が与えられる。

 弟子たちも主と共にあるとき、主によって救われた。しかし、主の臨在を失い、その場に主が居てくださらなければ、神に対する真の相対を失っている。そこにはここでいう「祈り」がない。嵐の中で恐怖に身を強張らせるとき、また主が眠っておられるゆえに、弟子たちはしばしば主の臨在の事実を見失った。主と共にあることの祈りのない姿である。主は「信仰がないのはどうしたことです」と言われた。
 残された弟子たちは、てんかんの子を癒すことは出来なかった。主が共にいてくださらなかった時、心を主の御前に立って祈ること(主の御前に相対すること)が出来なかった。主はその弟子たちの信仰を薄い信仰、生きていない信仰とおっしゃる。
 「なんと信仰のない時代か」主の言葉は、その子の父親にも向けられている。「信じるものにはどんなことでも出来るのです」という主の言葉を受けて、父親は「不信仰な私をお助けください」と叫んだ。父親の祈り、真剣な叫びはこのとき初めて、主の御前に出た。
 マルコ伝で語られた「信じるものにはどんなことでも出来るのです」という言葉は弟子にではなく群衆の一人、この父親に向けて言われた言葉だった。
 イエス様は、この信仰を弟子や人々、信仰者に深く示そうとしておられるのである。


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鈴ヶ峰キリスト福音館