主と出会う場所(3/3)


ヨハネ16:7
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
去る事は益なのです、という。一体何が益なのか?それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。どこにいてもいつでも私たちは聖霊によって復活の主の命に預かることができるのだと。その中にあって私たちはどれだけ復活の主を味わい体験しているだろうか。

 どこにいても出会えるというのに、ではどうすれば実際的に更に主の臨在を体験するのであろうか。
 ヨハネ12:26に わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです、とある。
 復活の主の臨在の中にある場所というのは、主に仕える場所ではないだろうか。

 弟子たちは宣教によって、また教会の牧会によってキリストに従事した。仕えた場所こそ、そこにおいて主がご自身をあらわされた場所であった。パウロもまた異邦人の使徒として召されているとき、彼はそれを自らの歩むべき道のりとして認識した。パウロにとって良かれと思う道を行くことなのではなく、主が示した歩むべき道のりを踏み出すことこそ義の栄冠の道だった。

 私たちは信仰を告白するとき主を体験した。
 そしてまた、「私は主のものです」とキリストの旗印を明確にしたとき主のあわれみを体験した。
 さらに、その恵みに留まりつづけるときに。
 私たちは知る知識によってではなく、主の召しに従い、仕える場所において主がそこにおられることを体験する一歩一歩の歩みを踏み出すのである。
 その意味で信仰生活は日々チャレンジの連続である。
 生けるキリストを死人の中から探すのではなく、自分の身を主イエス様の言われた『ガリラヤ』に置くときに初めて、そこが復活の主と出会う場所であるのだ。


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鈴ヶ峰キリスト福音館