大胆に祈り求める(2/2)


 主の心にかなって他の人に奉仕する力ともろもろの必要を神が与えてくださる。また、そのような主に感謝する生活が与えられる。パウロの生涯は仕えることにおいて満たされている。そしてこれは、クリスチャンの姿である。
 クリスチャンの願いは、多くの人のとりなしをし、他の者の必要を満たすことを願う。だからそのとき、信仰者は神のみ前に大胆になって祈り求めている。
 彼自身は貧しく見えた。有り余っているようではない。しかし、豊かさで満ちているのだ。自分の中に与えられたわずかな余裕が与えるために用いられるからだ。

8節の言葉を詳約聖書で読んでみたい。
「そして、神はあなたがたの上に全ての恵み〈あらゆる愛顧、あらゆる地上の祝福〉を豊かに下らせることができ、あなた方が常に〈すべての環境の中にあって〉〈必要なものは何でも〉、全き自足を得る〈他人の援助や支援を全然必要としないだけのものを所有して、あらゆる善い業と慈善の寄付をするために豊かに備わっている〉ようにしてくださるのです。」

 クリスチャンが他の人にする奉仕や必要なあらゆる力を求めるとき、主はその人にあらゆる力を与えて祝福される。その祝福は余りあるもの――それは、神の富と豊かさで満たされた信仰者の姿である。
 これらの生き方は世の生き様とまったく異なるものである。

箴言30:15「 蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。」

この個所は貪欲に対する戒めとして聞くことができる。
 もし、自分のために生きようとするなら、いったい人は自分の安全のためにどれだけの蓄えが必要だろうか。「これで十分」といえるだけの富はいつまでたってもまかなわれないだろう。際限ない不安と際限ない貪欲の中で富に埋もれた貧しい生活をする富者を私たちはどれだけ見てきただろう。
 クリスチャンは自分にとっては何も必要ない。しかし、「あなたのためには、主の業を行うためにはあらゆるものが必要なのです」――
神の業をするために必要な知識、必要な富、力、これらが必要となるとき、私たちは大胆にその必要を求める。神のために生きようと願うなら、主は主の業に預からせようと志を与えて、必要を示して下さる。そして、私たちは神の必要のために大胆に祈ることができるのである。「主の全能の御手を差し伸べてください」と。

 パウロは弱々しい人間に過ぎない。しかし、神のためには全てを求める大胆な者となっていた。
 無論私たちも同じように弱々しい人間に過ぎない。
 だから私たちは、「しかし、あなたのためには必要なんです」と祈り求めるのである。


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鈴ヶ峰キリスト福音館