礼拝・学び概要

贖い主に近づく(1/2)
Br. S.Maruyama


――苦しみを知っておられる方――

ヘブル書2:10
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 創始者というところの注釈に「指導者・君」とある。すなわちイエス様のことである。なぜ、神である方が苦しみに会うことが相応しいことなのだろうか。詳訳聖書にはこのように書いてある。

 なぜなら、万物がその存在を保つ理由であり原因であられる神が、多くの子らを栄光に導きいれるのに、彼らの救いの創始者を苦しみを通して完全なものとされる〔すなわち、神の大祭司の職務のため完全な備えができるためにどうしても必要な人間としての経験を完成させられる〕のは、〔神に〕ふさわしい〈〔神のご本質に〕かなった〉みわざであったからです。

大祭司の職務を行われるために、人間の経験を完成されなければならなかった。
続けて御言葉を開きたい。ルカ伝には、19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と、主ご自身の御言葉がある。

 私たちは神の所有物である。所有者が所有物を探して代価を支払われる。私たちをご自身のうちに保つために大きな代価が払われた、その代価がイエス様のみ苦しみにほかならなかった。イエス様の苦しみとはどのようであろうか。私たちは味わっても足りない、また味わいきることはできない。

イザヤ書53:3,4,7
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
・・・
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 ユダヤ人の多くは、人の苦しみ・病気・災難は罪の結果であり神の裁きであると考えていた。その観点で言えば、イエス様の苦しみの様は普通の裁き(苦しみ)ではない。よほど大きなことがあったに違いない。
7節に「彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とある。確かに主は、ピラトの裁判でも黙っておられた。イエス様の苦しみは、ピラトの裁きの前にあって、真実のところ父なる神ご自身の罰を受けるべく評価を甘んじて受けておられる。私たちには無実の罪・誤解の苦しみは耐えがたいものである。ピラトもそのように証言している。(嫉みから引き渡されているキリストを見て弁明を促している。)しかし、神の裁きの内に立つイエスの姿の中には、「苦しんだが口を開かない」光景がある。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
ご自身がどのように神から評価されても、ただ黙ってしのばれた。


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鈴ヶ峰キリスト福音館