贖い主に近づく(2/2)


 あなたがたはこのような事件を聞いたことがあるだろうか。
―― 昔、滋賀県のとある場所で大火事になった。多くの家屋が焼失し、犠牲を出す結果に至った。悲惨な事件の犯人の捜査が開始されたが、うわさとも証言ともとれぬ状況によって、5歳、6歳の二人の子供が火事を起こしたということで捜査は打ち切られる。捜査も終わり、それから7年もの間、その子供の親・兄弟、家族は村八分に会うのであった。
 村には、火事で家屋が焼失した人のための仮設住宅が提供されたが、その子たちの家族は、仮設住宅に入ることも断られる。お詫びをし、許しを請うたが、決して受け入れられなかった。その冬、厳しい寒さを納屋で過ごし、また配給も2日に1日分しか与えられなかった。学校の廊下では、その二人の子は子供たちに引きずりまわされるのである。
 祖母はそのような不憫な子を想いながら、心配して死んでいかなければならなかった。また、事故を起こしたとされるもう片方の子の家族は、とうとう耐え切れないで、その地を離れ引っ越していった。
しかし、その後、窃盗罪で逮捕された一人の男が火事の事件について自白をした。7年前にあの火事を起こしたのは自分であるということを。――


 誤解された苦しみは、耐えがたいものだ。村の人々はその事実を知っていたたまれない思いをしたであろう。多くの人はキリストを見て、彼は神に打たれたのだと思った。しかし、なお口を開かれない主。私たちにはそのような誤解は耐えがたい。しかし、主の沈黙は、大祭司としての役目をもって罪深き(苦しみの中にある)私たちを贖うためであった。

ヘブル2:17-18
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 私たちは苦しみを他者に相談したとき、それを理解してくれるだろうか、と不安である。他の人はあなたの思っているそんなことはなんでもないという。なぜ、私の心を理解してくれないのか、と問いたかろう。しかし、同じ苦しみをした人にだけは理解できる。イエス様が私たちを助けることができるというのは、主が全ての苦しみを味わい尽くして下さったからだ。その主が今私たちにみもとに近づくように語りかけられる。

ヘブル4:15-16
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちはイエス様の元に行ったとき、果たして受け入れられるだろうかと不安かもしれない。私たちは世の有名な人に会うことでさえ、あってくれるものかどうか疑問である。しかし私たちは神の前に近づこうというのだ。主が山上の垂訓をなされたとき、マタイ伝には人々が権威ある主の御声に驚いていたという光景が描かれている。人々の賞賛の只中にあるそのような主が多くの人々と共に山から降りられているそのとき、主の前にらい病人が「主よ、お心一つできよくされます」と嘆願した。その光景は、人間的に言えば、「そんなことは後にしてくれないか」という感じだろう。しかし、主の心は多くの賞賛する人々よりも、一人の信仰を持って近づくらい病人の心に向けられているのだ。
 らい病人の皮膚に触り、「私の心だ、きよくなれ。」という言葉の中には、まさに主の心が表れている。
 私たちは主のみもとに行くのに、何の躊躇をする必要もないのである。それほどに哀れみ深い主であるのだ。

4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 聖書はおりにかなった助けを得ることができると語っている。この言葉は私たちに具体的実践を投げかけている。
 私たちは(私たちの側で)受け入れられないだろう、という距離をおき、壁をつくっている。だが、今この時代でも実行する(近づく)ことが求められている。主の御手の力を体験するのはただそれによる。
 体験していく人は私たちと遠いところにある偉人の信仰者なのではない。主は私たちに、あなたに「近づきなさい」と仰せられる。


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鈴ヶ峰キリスト福音館