礼拝・学び概要

主の用いられる証人(1/2)
Br. S.Maruyama


――選びによって残された者――

ローマ11:2-5
11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

 この箇所はエリヤの時代、アハブ王がイスラエルに偶像崇拝を持ち込み、多くの神の預言者を殺したときのことである。
 エリヤは3節のように 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」と言う。しかし、それにもましてバアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。と答えられた。

 神はいつもご自身の為に民を残しておられる。本当に残されたものはいるのでしょうか、と問うかもしれない。しかし、主によって残されたものが7000人いるという、これが事実である。

 キリスト教の歴史は、世に表された人によって証されたのではなく、世に隠された人によって証された。国教会となった時から、キリスト教の歴史は地下にもぐったと言われるように、隠された人によって真理の証が保たれてきた。
 この7000人の人は無名の人たちである。しかし、ただ主に忠実だった。神はこのような人を通してご自身の証を保っておられる。

 新約の時代でも同じことが言える。初代教会は12弟子が主の証を担った。彼らは名もない人たちであった。彼らの信仰ぶりを見るなら、およそ哲学的・宗教的とはいえない。主はなぜこのような人たちを選ばれるのだろうか。
 ペテロは主イエスを三度も知らないといい、その上、のろいまでかけて否定した。彼だけでなく、多くの弟子は主を捨てて逃げていった。しかも、マルコ著者であろう青年(マルコ)においては捕らえられようとしたので裸で逃げ去ったと言う様まで描かれている。そのような弟子たちを見たとき、なぜ主によって選ばれたのだろうか。
 主の選びは、イエス様が十字架にかかられ、この十字架の証、すなわち人類の救いの鍵を弟子たちに託されることを意味するとき、非常に重要なものである。弟子たちにゆだねられるとき、本当に主は信頼されたのだろうか、何ゆえ彼らを信頼することができるのだろう。もし、彼らが主の心に応えないなら、主の御業は無駄になおそれがあるではないか。
 しかし、確かに主によって残された者は12弟子であった。


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鈴ヶ峰キリスト福音館