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デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「御霊の実は愛」 (The Fruit of the Spirit is Love)(6/15)


愛は自己中心に打ち勝ちます

「御霊の実は愛です。」 なぜですか? 愛以外には自己中心を追い出し、打ち勝てるものはないからです。 自我とは、それが神との関係においても、周囲の一般の人との関係においても、あるいは仲間のクリスチャンとの関係においても、自分のことばかりを考え自分のことだけを求めるという恐るべき呪いです。自我こそ私たちにとって最大の呪いです。しかし、神を賛美します、キリストは私たちを自我から贖い出すためにやって来られました。私たちは時おり自我の生活からの解放について語り、そのことについて私たちを助けてくれそうな全ての御言葉ゆえに神に感謝します。しかしながら、自我の生活から解放されるなら、もはや何の困難も経験することなく神に仕えることが出来るようになるのだと、勘違いしている人がいるのではないでしょうか。また、自我の生活から解放されるなら、私たちは一日中全ての人に対する愛によって満たされ溢れているはずだということを、忘れてしまっている人たちもいるのではないでしょうか。

聖霊の力を祈り求める人の多くが、何かを頂きはするものの、なぜほんのわずかしか頂けないのか、ここに理由があります。それは、彼らは働きのための力や祝福のための力を祈り求めますが、自我からの完全な解放のための力は願わないからなのです。これは神との交わりにおける義なる自我だけでなく、人々との交わりにおける愛の足りない自我についても当てはまることです。「御霊の実は愛です。」キリストは私たちの心を愛で満たすことが出来るという、栄光に満ちたお約束をあなたがたにお伝えしましょう。

多くの人は時には愛そうと努力します。自らに愛することを強いようとするのです。それが間違っていると言うわけではありません。何もしないよりはましです。しかしながら、このような試みの最後はいつも悲しいものです。そういう人は「私はいつも失敗する」と告白せざるを得ないでしょう。それはなぜでしょう? それは、聖霊が神の愛を私たちの心に注いで下さることが出来るのだという真理を信じ受け入れることを学んだことがなかったからという、単にそれだけの理由によるのです。「神の愛が私たちの心に注がれているからです」(訳注 ローマ5:5)これは何と祝福に満ちた、けれども狭い枠の中でのみ理解されて来た御言葉でしょうか! この御言葉はたいていの場合「私に対する神の愛」という意味としてのみ理解されてきましたが、何という狭い解釈でしょう!これは始まりに過ぎないのです。神の愛はいつでも完全で、内住の力として満ち満ちている愛です。私に注がれる神の愛は、神に対する私の愛として神に向けられ、さらに私の中で溢れ出して周囲の人々にまで及ぶのです。私に対する神の愛、神に対する私の愛、そして周囲の人々に対する私の愛・・・この三つはひとつです。分けることは出来ません。

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