推薦メッセージ
デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「人には出来ないことが、神には出来る」 (Impossible with Man , Possible with God)(2/7)


このレッスンを学んでいる過程にある人のことをちょっと見てみましょう。はじめは彼はそれを受け入れることが出来ず激しくもがきます。次にその人は嫌々ながら絶望のなかで、ようやくそのことを認めるようになり、最後についに喜びをもって自らそれを受け入れるようになります。キリスト者の歩みの初めにおいて、回心したばかりの若いクリスチャンにはこの真理がまったく理解できません。回心したばかりで、心に主の喜びをもち、競争を走りはじめ、戦いを戦い始めます。彼は当然自分が全てに打ち勝てると思っています。なぜなら彼は熱心で正直で、そして何より神が彼を助けてくださるからです。しかしながら、まもなく彼は思いもかけないところでどういうわけか失敗してしまいます。そして罪が彼を打ち負かしてしまうのです。彼はがっかりしますが、このように思います。「私は十分に気をつけていなかったからだ。私は十分に強い決意をしていなかったのだ。」彼は再び誓い、再び祈ります。けれどそれでも失敗するのです。彼はこう思います。「私は新生された人となったのではなかったのだろうか?私には神の命が内住しているのではなかったのか?」そして彼は再び考えます。「そうだ、キリストが私を助けてくださるではないか。私は聖い生活を送ることが出来る!」

後になって、彼は別の気持ちになります。そのような聖い生活など不可能であるとわかり始めるのです。しかし彼はそれを受け入れようとはしません。「私には出来ない」という段階にまで到達するクリスチャンは大勢いますが、神が彼らに不可能なことを期待されるはずがないと思ってしまうのです。もしも神はそれを期待しておられますよと言おうものなら、それは彼らにとって謎のごとく思われるのです。多くのクリスチャンが惨めな生活をおくっています。休息と勝利に満ちた生活のかわりに失敗と罪に満ちた生活を送っているのです。なぜならば、「私には出来ない、それは不可能だ」ということが、だんだんとわかってくるからです。それでも彼らはそのことを完全には理解することが出来ず、それゆえに、「私には出来ない」という思いに捕われ、絶望に身を委ねてしまうのです。彼らは彼らなりに最善を尽くすのですが、どうせそう遠くまでは前進できないとあきらめてしまうのです。

しかし神はご自分の子供たちを第三の段階へと導かれます。それは人がこの「不可能だ」という真理を完全に受け入れつつも、同時に「私はしなくてはならないし、それを行う意志もある・・・人には不可能なことだけれど、それでも私はしなくてはならないのだ」というとき、新生された意志がその力を完全に働かせ始め、激しい切望をもって神にむかって「主よ、これは一体どういう意味なのですか? 私はどのようにしたら罪の力から自由になることが出来るのでしょうか?」と祈り叫び始めるときなのです。

これがローマ人への手紙の7章で見られる新生された人の状態です。ここにおいて、キリスト者が聖い生活をおくろうとして自分に出来うる限りのベストを尽くそうとしているのを見ることができます。神の律法がその人に現わされ、そして心の願いの一番奥底にまで届き、彼はついに心からこのように言えるようになります。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいます。善を為そうという意志が私の中にはあります。私の心は神の律法を喜び、私の意志はその律法を行うことを選んでいるのです。」

このように心には神の律法を喜ぶ思いが満ち、その意志は善を行おうと決心しているような人であっても失敗することはあり得るのでしょうか? あり得ます。それがローマ人への手紙7章が私たちに教えていることです。ここにさらに必要なことがあるのです。内なる人が神の律法を喜び、神の御心を行おうと決心するだけでなく、神の全能の力に私たちの内で働いていただかなくてはならないのです。それこそが使徒パウロがピリピ人への手紙二章13節で教えていることです。

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