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デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「私は本当にみじめな人間です!」(O Wretched Man that I am!)(3/7)


不能な人

多くのクリスチャンたちが犯してきた間違いがあります。それは、新たにされた意思さえあれば、十分であると考えることです。でも、現実にはそうではありません。この新生された人は私たちに言います、「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」堅い決意さえあれば、自分の意思の通りに行うことが出来るものだと誰もが言います! しかし、この人もまた、出来うる限り精一杯決意していたのですが、それでもまだこのように告白したのです。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」

しかし、あなたはこう尋ねるでしょう、「神はなぜ新生した人にこんな告白をさせるのでしょう? 正しい意思と善いことをしたいと願う心を持ち、神を愛するために自分にとって出来うる最善をなしたいと願う人であるのに?」

ではこの質問について考えてみましょう。神はなんのために私たちに意思を下さったのですか? 自らの意思で堕落した天使たちは、誘惑に打ち勝てるだけの力を持っていたのでしょうか? 決してそんなことはありません。被造物の意思とは、神の力が現わされるための空っぽの器であるに過ぎないのです。被造物は、自分に関する全てのことにおいて神を求めなくてはなりません。神の働きとは、神の御心のままに私たちに志を立てさせ、またそれを行わせてくださることにあるのだと、ピリピ人への手紙の第2章に書いてありますが、このローマ人への手紙の箇所においてもそれを見ることが出来ます。この人は「神は私のなかで事を行わせてくださっていない」と言っているように見受けられます。しかし私たちは、神は私たちのなかに志を立てさせ、そしてそれを行わせるよう働いてくださると教えられているのです。この明らかな矛盾は、どのようにして解決されるのでしょう?

この箇所(ローマ7章6〜25節)において、聖霊の御名は一度も出てきませんし、キリストの名も出てこないということに気付かれることでしょう。 この人は神の律法を行おうと苦しみもがいています。聖霊やキリストの御名のかわりに、律法は20回近く言及されています。この章においてわかるのは、信者が自分の新生された意思をもって神の律法に従おうと出来うる限りの努力をしているということです。それだけではありません。他にも、私は(I)、私を(me)、私の(my)という言葉は40回以上使われています。新生された私が、不能でありながら、御霊に満たされることなく律法に従おうとしているのです。これは信者ならほとんど誰もが経験することでしょう。回心の後、人は自分に出来うる最善を尽くそうと努力し始め、そして失敗するのです。しかし私たちが完全な光のなかに入れられるのであれば、私たちはもはや失敗する必要はありません。回心のときに御霊をその満ち満ちた様にまで頂いていたのであれば、最初から失敗する必要などないのです。

神は、新生した人が自分自身だけでは全くの不能であることを教えるために、失敗を許されるのです。この苦しみもがきのなかでこそ、私たちは自分の罪深さについてはっきりと知るようになるのです。神はこのようにして私たちを取り扱われるのです。神が人が律法を全うしようとして努力することを許すのは、それによって人がもがき苦労するなかで、ついには「私は新生した神の子供である、しかし神の律法に従うにはまったく無力だ」と言えるようになるためなのです。このような状態を表現するために、この章全体を通して、どれだけはっきりとした言葉が使われているか気付きましたか?「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」、「私のからだの中には異なった律法があって、私をその罪の律法のとりこにしているのを見い出します」、そして最後にはここまで言っています、「私はほんとうにみじめな人間です! だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ここで深い悔い改めのなかで頭を垂れているこの信者は、神の律法にどうにも従うことが出来ないでいるのです。

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