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デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「私は本当にみじめな人間です!」(O Wretched Man that I am!)(4/7)


みじめな人

この告白をしているのは、新生して、不能であるだけでなく、みじめな人でもあります。彼はまったく不幸で、どうしようもないのです。しかし何が彼をそんなにもみじめにするのでしょう? それは、神はその人が神御自身を愛するような性質に作られたからです。彼は自分の神に従っていないように感じるので、深く落胆しているのです。彼はつぶされそうな心で言います、「これは私が自分でやっているのではないのだ! 私は恐ろしい罪の力のもとにあって、それが私を押さえ付けているのだ! 私であって私ではない。 あぁ、あぁ! それはがっちりと私を縛りあげ、私自身の本性のなかにしっかりと埋め込まれてしまっている・・・ 確かに私自身だ・・・」心の底から「私はみじめな人間です!」と告白することを学んだ人は、なんと幸いであることでしょう! その人はローマ人への手紙第8章へと向かう途中にいます。

なかにはこの告白を、罪の温床のようにしてしまう人も大勢います。そのような人たちは、パウロでさえ自分の弱さや無力さをこのように告白せざるを得なかったのなら、どうして私たちがパウロ以上に努力することが出来ようか、などと言うのです。そして私たちは神の聖さに預かるべき者なのだということが、どこかに置き去りにされてしまうのです。しかし神は、私たち一人一人がここに書かれている通りのパウロの気持ちそのままに、これらの言葉を言うようになることを願っておられるのではないでしょうか? 罪とは、神がどれだけ激しく憎まれる、恐るべきものであるかと聞くごとに、私たちは皆その言葉の前に縮みあがるのではないですか? 毎日毎日罪を犯し続けてしまう私たちクリスチャンがみな、この御言葉を心に留めるようになりますように! もしもあなたが人を傷つけるような言葉を言ってしまうことがあれば、「あぁ、私はみじめな人間です!」と言うべきです。あなたが癇癪を起こすたびに、神は御自分の子とされた者がいつまでもこのような状態に留まることを願ってはおられないと、膝まづいて理解すべきです。私たちがこの言葉を自分たちの日々の生活のなかに取り入れて、自分の栄誉を求めてしまうたびに、きつい言葉を口から出すたびに、主なる神に罪を犯すたびに、謙遜、従順、自制のお方である主なるイエス・キリストに対して罪を犯すたびに、私たちがこれを告白することを神は望んでおられるのではありませんか? 神の御前に他のことは全て忘れて、ただ「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか!」とあなたがたが叫ぶようになりますように!

なぜあなたは罪を犯すたびにこのことを言う必要があるのでしょうか? それは、私達がこれを告白するところまで導かれたときこそ、はじめて解放がやって来るからなのです。

そして人がみじめに感じるのは、ただ単に自分が不能で罪のとりこにされてしまっているから、というだけではないことも忘れてはいけません。何よりも、自分の神に対して罪を犯しているという、そのことゆえにみじめになるのです。律法はそのなすべき働きをし、人の目にも罪を恐ろしく罪深いものであることを悟らせます。神を絶え間なく悲しませているというその思いのゆえに、人はとてつもない耐え難さを覚えるのです。そしてそれこそが「あぁ、私はみじめな人間です!」という悲痛な叫びへと私たちを導くのです。私たちの不能さと失敗だけに目をとめてローマ人への手紙七章の意味について考えようとするのであれば、私たちにとってほとんど何の益もないでしょう。しかし、一つ一つの罪が、私たちのみじめさの感覚に新たな重みを与えるようになるのであれば、そして私たちが単に無力であるというだけでなく、実際に恐るべきほどに罪深いのであると感じるようになるのであれば、「誰が私たちを救い出してくれるでしょうか!」と嘆くだけでなく、さらに「私の主、イエス・キリストのゆえに神に感謝します!」と叫ぶことが出来るのです。

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