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デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「私は本当にみじめな人間です!」(O Wretched Man that I am!)(5/7)


ほとんど解放されている人

この人は、神の麗しい律法に従おうと努力しました。律法を愛し、自分の罪のゆえに涙し、何とか克服しようとし、失敗に次ぐ失敗にも打ち勝とうと頑張りました。しかし、にもかかわらず毎回失敗に終わっていたのです。
 
彼が「この死のからだ」と言ったとき、彼は何を意味していたのでしょう? 自分が死ぬ時の体、という意味だったのでしょうか? 決してそんなことはありません。第8章の御言葉のなかにこの答えを見ることができます。「御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」これこそが、パウロが解放されたいと願っている死のからだなのです。

今や彼はもう少しで解放されるところまで来ています! 7章23節で次のようにあるのを見ました。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」このとりこにされている者が「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫ぶのです。自分自身が縛られていると感じているのです。しかし、8章2節を見てみましょう。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」なんと対照的であることでしょう。これこそが我々の主、イエス・キリストによる解放であり、御霊が捕われ人にもたらしてくれる自由なのです。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」によって解放された人を、これ以上とりこにし続けることが出来るでしょうか?

しかしあなたは言うでしょう、新生された人が6章で語っていたとき、彼はすでにイエスの御霊を持っていたのではありませんでしたか、と。その通りです。しかし彼はまだ御霊が彼のために何をなさることが出来るのか、知らなかったのです。

神が御霊をもって働かれる様は、自然界においてやみくもな力をもって働かれるのとは違います。神は人々を、合理的で知的な存在であるとして導きます。それゆえに神は約束の御霊を与えて下さるときには、まず最初に私たちを自我の終わりにまで、自分の努力で律法の従おうとしたけれでも自分ではどうしようもなかった、と確信するに至るまで、導かれるのです。私たちがその終わりのところまで来たとき、神は聖霊によって初めて私たちは従順の力を、勝利の力を、真の聖さの力を持ちうるのだと示してくださるのです。

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