推薦メッセージ
デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「御霊に始まって」(Having Begun In The Spirit)(5/9)


私は大変熱心に多くのことを行っていながらも、それでもほとんどの場合、それは神の御霊よりも人間の肉の働きであるかもしれないのです。何と厳粛な思いにさせられることでしょう。人は、自分でも気付かないうちに聖霊の路線から肉の路線へと切り替わってしまっているかもしれないとは。人が熱心に働き、偉大なる犠牲を払い、にも関わらずそれが全て人間の意志の力によるかもしれないとは。あぁ、私たちが自らを省みて神に問うべき大切なことは、私達の信仰生活が、御霊の力のもとによって歩まれているのか、それとも自分の肉の力によるものなのかを神に示していただくことです。たとえば、ある人は牧師かもしれません。彼はそのミニストリーにおいて非常に熱心に努力していることでしょう。またある人はクリスチャンの働き人かもしれません。他の人たちは彼は大いなる犠牲を払って奉仕していると言うかもしれません。それでも、どこかに足りないものがあるとあなたは感じるのです。その人は霊的ではないと感じます。彼の生活には霊性がないのです。誰からも「何と霊的な人だろう!」と言ってもらうことのないクリスチャンがどれだけ多くいることでしょうか。ああ!そこにキリストの教会における弱点があるのです。「肉」-- この一言につきます。

さて、肉はいろいろな形でその姿を現します。肉的な知恵という形で現れるかもしれません。私の心は何よりも宗教に関してたいへんに熱心であるかもしれません。聖書や神の御国に関して説教したり、書いたり、考えたり、瞑想したり、またそれらのことに心を向けることに大きな喜びを感じるかもしれません。にもかかわらず、聖霊の力が明らかに欠落していることがありうるのです。キリストの教会中でなされている説教について、次のような質問をしてみるとしましょう。御言葉の教えのなかに人を変える力がほとんどないのはなぜなのか、こんなにもたくさんの働きがありながら、永遠における結果がほとんど生み出されていないのはなぜなのか、なぜ信者たちを清さと聖別のうちに建て上げる力を御言葉がほとんど持たないのか。嘆かわしいことですが、このような答えが出てくることでしょう。聖霊の力が欠落しているからである、と。 なぜそうなのでしょう? それは、聖霊が本来持つべき場所を、肉と人間のエネルギーが占めてしまったこと以外に理由はないでしょう。ガラテヤ人の場合はそうでした。コリント人の場合もそうでした。パウロがこのように彼らに言ったことをご存じでしょう。「あなたがたには御霊に属する人に対するように話すことができません。あなたがたは御霊に属する人であるべきなのに、肉に属しています。」 パウロは手紙のなかで、彼らの間にある争いや分裂について、どれだけ彼らを戒め、責めなければならなかったことか、あなたもご存じの通りです。

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