推薦メッセージ
デボーションタイム

グレースライブラリーより転載(http://nakamurafamily.net/library/)
アンドリュー・マーレイ

「御霊に始まって」(Having Begun In The Spirit)(6/9)


御霊の実の欠如

第三の考えは、「ガラテヤのような教会あるいはクリスチャンが、肉の力において神に仕え、御霊によって始まったものを肉によって完成させていることの証拠や徴候はどのようなものか?」ということです。

答えはいたって簡単です。宗教的な自己による努力は、いつでも罪深い肉に帰結します。ガラテヤ人たちはどのような状態にありましたか?  律法の行ないによって義と認められようと必死になっていましたね。にもかかわらず、彼らは言い争いをしており、互いを食い尽くす危険のなかにいました。 彼らの愛の欠如を指摘するために使徒パウロが用いた表現を数えてみてください。12以上あるでしょう。 うらやみ、妬み、苦み、争い等など、様々な表現が用いられています。4章、5章で、パウロがそのことについて何と言っているか、読んでみて下さい。彼らが自らの力で神に仕えようとしたものの、いかに無惨にも失敗したことか、そこに見ることが出来るでしょう。宗教的な努力というものは全て失敗に終わりました。罪と罪深い肉の力とが彼らを打ち負かし、思いもよらないほどに悲惨な状況に陥ってしまったのです。

これは我々にとって、言葉に現せないほどに厳粛なことです。キリスト教会のなかには、高い標準をもつ誠実さと敬虔さが欠如しているという不満がいたるところで見られます。信仰告白をしている信徒たちの間においてでさえもです。あるとき商業道徳について説教がなされるのを聞きました。しかし、ああ、商業道徳だの不道徳だのについて語るだけでなく、キリスト者の家庭に行き、神がその子供たちを召しておられる生活、神が可能にしてくださる御霊によって歩む生活にも私たちが思いを馳せるのであれば! そしてそれにもかかわらず、愛の欠如や短気や辛辣さや苦みがどれだけ私たちのうちにあることを思い、また信徒たちの間にどれだけ頻繁に争いがあることかを思い、妬みや嫉妬や過敏さやプライドがどれだけあることかを思うのであれば、私たちはこう言わざるを得なくなるでしょう。「神の子羊の御霊の御臨在のしるしはどこにあるのか?」と。 ないのです、悲しいほどに、欠落しているのです!

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