―― 仕える者となる ――
主の教えを引き続き心に留め、前回(→『聖研シリーズ:あとの者になる』)覚えた聖句との関連性があるため重複する形になるが、マタイの福音書を読んでともに考えていきたい。
マタイの福音書 20:11-28
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
20:17
さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
20:20
そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21
イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
20:22
けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
20:23
イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
20:24
このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
20:25
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
――イエス様が打ち立てられる神の国が、いよいよ来る。 主を取り巻く弟子たちの精神状態は期待とあせりで高揚しているかに見える。
主がエルサレムに向かって弟子たちと共に向かおうとなさるとき、イエス様はご自分の十字架について、はっきりとお示しになっていった。しかし、弟子たちにはこれのことが何一つ分からなかった。「彼らにはこの言葉は隠されていて、話されたことが理解できなかった」とそのように、同じ時、ルカの福音書では彼らの心境を記している。
その「彼らに何一つ分からなかった」という理解は、このあとで主イエスが弟子に教えていかれる贖いの代価としての主の御姿であり、このことはすなわち教えの真髄としているところの人に仕えられる主御自身の御姿でもある。「彼らには理解できなかった」という曲解の中で、弟子たちは、いよいよ差し迫ってきたメシアの王国について期待を弾ませた。
我らの主と仰ぐイエス様の王国が到来した暁には、御国の座を占有し、主の支配する王国の御座に着いて支配したい。弟子たちは、主に次ぐ最も高い王座の隣に座したいと願った。そのような光景が今日の記事ではないだろうか。
イエス様は、その中で弟子たちに対して、人々に仕える御自身の姿を証しされ、キリストの命が何のための代価なのかということを教えて示された。それは、人の子が来たのは御自身の命が捧げられて、多くの人の命が得られるためであるということであった。今日開いたこの個所での弟子の願いと、イエス様の教えとには、これまでに語られてきた御国のたとえで示されたのと同様な一つの教えの視点がある。その意味で私たちは主のたとえを今一度聞く必要がある。
天の御国とはどのようであるか。弟子たちは御国を思って地位論争をしたが、イエス様は、マタイ20章1節で「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです」と御国の光景を示して話される。ここから語られたたとえの主題は、「恵みの福音」についてのたとえであると同時に、「御国の座」についての話だったと思う。
主は人々の救いのために命を捧げられ、人々に仕えておられる。しかし、十字架が示されたとき弟子たちの御国を求める理解は、主の示されるような仕えるという姿ではなく、誰よりも先になり、支配者となるいうことを願ったのである。
主の願いとは異なる心の動機がここで露見される。そしてそのようにして、主に対して御国の地位を望んだゼベダイの子ヤコブとヨハネ、またその母に対して、主は「あなた方は願っていることが分かっていない」とお応えになったのであった。
キリストの命の代価が一体何のために捧げられるのか、というときにこのような弟子の御国に対する捉え方は、たとえで、どうしても弟子たちが学ばなければならなかった教えに通じるものがある。
支配することを願い、また弟子の間では地位論争をし、特に願い出た二人の兄弟は10人の弟子を差し置いて自分たちだけ右と左に座ることを願い、またこの二人に対して他の10人の弟子たちは同様に腹を立てた。この支配するとか、権力を得たいとする弟子の立場の中には、他者を押しのけて特別な位置に座すことを願っている姿がある。
この弟子が求めている支配すると言う立場と動機は本質的には「仕える」ということと対極の位置にあり、これはイエス・キリストの働きとは対極の位置にある。異邦人の王が支配するそのような支配感、つまり他者を押しのけて特別な位置に座し支配したいと考える霊性は、キリストの対極的働きをなし得る霊的な危険性があり、たとえの中で示されるように、人を神の恵みの救いから締め出す働きに通じるものがある。このことを注意深く読み取っていきたい。
20:10
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
キリストの座の本当の姿は、彼らが理解できなかったこと、主の言われた「私が飲もうとしている杯を飲むこと」であり、人々の間で支配すると言う特別の地位を求めている彼らの思いに対して、主はその対極に位置する立場を示された。その注意の視点は、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」というものである。
偉い者となりたいと願っていた弟子たちに、主が教えられたこのことは、たとえで言われる、
20:14 ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。
という、主人の哀れみ・恵みの姿、主人の持っておられたその御心こそ、弟子たちに求められたしもべの心であり、また十字架を示した贖いの主イエスの働き、仕える主の御姿にほかならないのである。
そこには、神の哀れみによってしか生きられない弱く無力な者、救いを必要とする者を、ただ哀れみによって神の恵みに預からせる主人の姿がえがかれていたのである。
主イエスの教えはこの視点で弟子たちに教えていかれる。「私の杯を飲むこと」もこの観点で言えば、人々の間で権力を振るう世の支配者のようであることが「私の杯を飲み、キリストの右と左に座る」ことではない。すなわち、主が人に仕えて一方的な恵みの内にその人を救い、滅び行く人を神の恵みの座に預からせ、主がその人のために御自身の命を代価として捧げられているのと同じように、弟子たちもまた人々をキリストの救いに預からせる仕えるしもべであることが求められている。
このことはたとえで示された教えと重複しているように思われる。朝早く出かけた主人が最後の者に仕事を与えるのは神の一方的な恵みに預からせる神のわざである。この神のわざは、肉にあるものには理解できないものであり、受け入れられないものであるが、主は主人の心と共有する者として「あなた方も仕える者となりなさい」と願われ、このたとえででてくる主人のわざを批判する者とは逆の位置にある者として召しておられる。さて、この主人を批判するという中には、自分よりも優れていない者、つまらない(と思っている)者、あとの者に対しての救いの座に対する反感であり、「あなたは私たちを彼らと同じように扱いました」という否定的反感は、主によって一方的な救いに預かる者をその恵みの座から締め出すという心の動機に通じる危険性があるのだということである。たとえがダイレクトにこのことを語っているように思われないかもしれないが、反感者に流れている心の動機がそういう危険性に満ちているのだということは、主の御言葉から言うことができるだろう。
イエス様が弟子たちに教えられる同じ内容の教えが、このあとマタイ伝で同様の視点で続けて示されている。
マタイの福音書 23章7節〜12節
23:7
広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
ここで「あなたがたのうちの一番偉大な者」というのは、20章でいうところの「あなたがたの間で偉くなりたいと思う」、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者」と同じことであり、これは、心において主の近くにありたいと思う者のことである。そういう者は「あなた方に仕えるものでなければならない」
教えとして、今日の聖句と共通した同じ観点がある。しかし、そればかりでなくこの教えの背景についても同様なのである。
主がこの7節〜12節までの教えをされる時、特に警告されたこと、忌まわしいものとされたこと、何に注意しなければならないと言われたかを心に留めることは重要である。前後関係を見ていただければすぐに分かることであるが、これは一貫している。
23章4節で律法学者やパリサイ人たちに対して次のように言われた。「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」
「彼ら」、というのは、2節にあるように「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています」モーセの座を占めている律法学者やパリサイ人は、人々、弱い者、福音を必要とする者に対して重い荷をくくって人の肩に乗せ自分はそれに指一本触れようとしない。そして、13節にあるように「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです」といわれる。彼らパリサイ人・律法学者がモーセの座を占めて救いを必要とする人々に対してその救いの座、恵みの座を締め出すという働き、天の御国を遮る、このような彼らに対して主は忌まわしいものと警告されるのである。だから、イエス様は弟子たちに対して「あなた方はそのようであってはならない」恵みを必要とする者を押しのけ、遮るのではなく、むしろ仕える者として、イエス御自身が自分の命を人の罪過の贖いの代価として捧げられ、人を恵みの救いに預からせているのと同じように、あなた方も仕える者でなければならない。
主の示しておられる仕える御姿は、パリサイ人たちの働きとは対極にある。彼らパリサイ人は人々を御国に入ろうとする者を遮り、イエス様から引き離す働きをしている。しかし、主は弟子たちにあなた方はそうではなく人々を主の御元に引き寄せ、救いに預からせる働きを成す、これがあなた方弟子たちの働きなんだ、と語っていかれる。この視点で、つまり、パリサイ人・律法学者は人々を御国から締め出す者の姿であり、その働きを警告される延長線上で、主は、あなた方は仕える者でなければならないと弟子たちに教えられた。
20章に戻って考える。
20章11節でぶどう園で働く元々先の者だった労務者は「彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。」とある。このたとえで出てくる不平はモーセの座を占めて人々を御国から締め出す者と同じ立場の響きがある内容で警告されていると感じる。一方的な神の恵みを必要とするものに対して、主人の哀れみと対極の働きとしてその恵みを否定する。これは恵みの座から締め出し、主から引き離す心の動機に近いものがある。
だから、主が弟子たちに「わたしが来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じようにあなたがたの間では、みなに仕える者になりなさい」と言われたことは、人々を支配したり特別な地位に座すために他者を押しのけるようなこととは正反対の立場にあるのだということである。
20:27
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
ここに「人の先に立ちたいと思う」ならと書いてある。これは霊的な意味であり、心において主の御側近くにありたいと思うならという意味であり、最終的な先の者とされることであり、ここであとのもの、先のものということは単なる順序のことではなく、神の前における霊的な位置を示すものである。あとになる、先になる、ということはどうでも良いことではなく非常に重要なことである。たとえば、次のページにたとえがある。
マタイの福音書 21:28-32
ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
21:29
兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
21:30
それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
21:32
というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。
ここには、最初聞き従わなかったが、あとになって悔い改め、父の心を行う者と、最初は従うと言ったが、あとには結局聞き従わなかった者との姿がある。先のものと後のものという結末における命の順序がある。誰が父の願ったとおりにしただろうか。あとになって悔い改め先のものとなったものである。ここではっきりと区別されたのは最終的に神の心において、あとの者になるということは命を失っていることを指す。
また、主はたとえを別の所でも語られた。
王によって、さきに披露宴に招かれていた者たちがいたが、あとになって彼らは行きたくなかったので招待を断った。ところが王は怒って、王の使いを恥をかかせ殺してしまうような彼らを、そのままにしておかなかった。兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った、とある。(マタイ22章)
ルカの福音書13章のたとえでも、「救われるものは少ないのですか」という問いに対して、主は「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」と語られた。これは、救いに関する命の問題であった。ルカ伝のたとえで一番最後になる者とはどういう者だろうか。
・主人が、立ち上がって、戸をしめてしまったあとに『ご主人さま。あけてください。』と言う者。(25節)
・『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』と主人から言われる者。(27節)
・外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりする者(28節)
ここで言われたしんがりの者も、やはり、暗闇に放り出され、歯軋りするもの、主人から知らないと言われる命を失う者の姿であった。
あとになること先になることと言うのは霊的な位置の問題であり、重要な命に関する問題であり、単なる順序のことではなかった。だから、マタイ20章で「あなた方の間で人の先に立ちたいと思うなら、あなた方の間で仕える者となりなさい。」といわれた主の言われる意味での人の先に立つことを願うことは、単なる権威や地位・名声といった自分の偉大さを誇る地の属性ではなく、心において主の御側近くにいることを言っている。主と心を共有する者の従者の姿である。側近であり、主イエスのみそば近くにいるそのような本当の意味での先の者は、哀れみによって人々を主の恵みに預からせるためにイエス様が御自身の命を贖いの代価として捧げられ、人々に仕えられたように、「同じように、あなた方もあなた方の間では仕える者となりなさい。」と語られた。
この「仕える者となりなさい」といわれた御言葉の中には、非常に福音的な意味合いと人々を神の御心に近づけさせるという信徒の愛の働きが表れている。
ヨハネの福音書で主イエスは、「あなた方は互いに愛し合いなさい」と弟子たちに告別メッセージの中心として語られた。イエス様が互いに愛しなさいと言われたこのことは、単なる人間関係の中での和解のことや感情論をさしてまとめられるものではなく、私たちが一つとされ、その中に主がおられるようになるためであり、このことで主ご自身が証される。何を意味するだろうか。信徒の間で、主の兄弟姉妹が一つなることにあって互いに愛するとは、互いに人が主に導かれていく、主を愛する者として、主の心に預かっていく(主に近づけさせられる)ものとなるための神にある至高の働きを兄弟がなすことであろう。人を主の御心のうちにあらせるという人の尊い働きであり、主にあって人が愛しあうということは、まさにそのようなことである。
「あなた方は互いに愛し合いなさい」といわれたとき、主イエスや使徒たちは福音書や書簡の中で、兄弟に対するとりなしや、赦しとか、そして、神の御元に立ち返り、導かれるようにとの関連性の中で語られている。兄弟のために、赦されるために、と主が私たちの願い求めをかなえられる約束をされた。また祈り求めるべき必要を示された。あなた方が互いに愛し合うならそのことによって人は主を見る。主御自身も私もその中にいると証される。神の栄光は神の愛のうちに表される。兄弟愛は、人が心において神の御元に結ばれていくことを集会の中でなす働き、至高の働きにつながっているのである。それは同時に福音的な全ての要素も同様に含んでいるといえるだろう。
このような理解の元で主の御姿を捉えるなら、主が恵みを必要とする者、救いを必要とする者に対して「私はこの人にもあなた方と同じように1デナリ与えてやりたいのだ」とされるのは、滅び行くものに対する神の恵みを注がれることであって、死んでいた者を神に導くという働きであった。
神が人を神に近づけさせる働きをなされているのに、これを非難するとか受け入れないというのは、むしろ、恵みから締め出し、御国から締め出す働きに通じている危険性がある(パリサイ人は、救いをどうしても必要とする取税人や罪びとが悔い改めてイエスの下に行くとき、イエスが彼らを受け入れることを非難した)。
そしてこの危険性は、高慢であるとか、支配を振るう、権威を得たいという、弟子たちが肉において得たいと願っていた動機に近しい危険性が色濃く含まれているのだった。だから主は言われた。
「あなた方の間ではそうではありません。あなた方は仕えるものでありなさい」「パリサイ人や律法学者たちは忌まわしいものだ」「彼らはモーセの座を占めて」自分が御国に入らないだけでなく、救いを必要とし「入ろうとする者をも入らせないように遮っているのです」
これらのことを踏まえるなら、主がずっと言われていた教えの意味を、少しでも理解できる。
マタイ18章に戻って御言葉を読んでみたい。
マタイの福音書 18:1-11
18:1
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
18:11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕
私たちの中で誰が一番偉いかという論争はここでも同じような背景の元で生じていた。その中で主が弟子たちにされた教えの中心が「小さい者」に対して着眼しておられる。この小さな一人が救われることこそ主の御心であり、その小さな者たちをつまずかせるものはなんと忌まわしいことか。高慢によって彼らをつまずかせるものならそのような者は大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましである。主の働きの御姿を思い起こすなら、まさに小さいものたちに主は御自身を表し、その恵みを注いでくださった。人の子は、滅んでいる者を救うために来たのですとあるとおりである。だから、誰が一番偉いかというとき、イエス様は常に一貫してこの視点を持って弟子たちに教えていかれた。
本日お読みした本題の20章でも、弟子たちは御国の地位論争をした。そこでも主は同じ視点を持って弟子たちに教えていかれた。弟子たちが肉において求めていたものの中に主は警告をなされた。神の働きと対極をなし得る非常に危険な霊的な要素があるからである。彼らにとって誘惑の危険性があった。肉に敗北し傲慢にすすむなら主がしておられる救いの働きと逆の働きをなしてしまう。肉の傲慢さや権威や支配願望はキリストの贖いの立場とは逆行しており、無条件の一方的な恵みの座から人々を引き摺り下ろす可能性のある霊的危険性を秘めている。主の救いの業に反して、幼子を見下し、あるいはつまずきを生じさせ、恵みを遮る主の対極の行為につながる。しかし、主は弟子たちを主人の心と共有するものとして召しておられる。「わたし」が人々に仕えているようにあなた方もまたあなた方の間でそのようであれ、人々を救いに導く主の目に尊い働きをなすのだ、信徒が互いに神の御元に近づける働き、兄弟愛を持って仕える者となるのだ、と主は言われる。
私たちは主の警告や教えの視点を受け止め、単に反対者やパリサイ人たちに語られたものと理解するだけでなく、弟子たちがどうしても学ぶ必要のあった主の教えを聞く心の姿勢が重要である。何度も何度も主が弟子たちに注意して語られたことは、私たちの社会生活における単なる人間的謙遜を教えるためのものではないからである。
主が否定された「この世の支配者」の姿を演じるとしたら、どうなるだろうか。学びの適用として考えるが、もし、私たちが福音的姿勢において家族や友人の未信者に個人的に見切りをつけ「この人には福音を聞く姿勢がない」「この態度でみ言葉に預かる価値があるのか」という態度を持って接するとしたら、その信仰者の判断によって、その人はみ言葉を聞く機会を失うわせることも出来る。語弊のある言い方だが、私たちは主の恵みを自在に手中に操り、恵みを左右させるほどの証人としての立場がある。イエス・キリストの恵みを伝えることも出来るし伝えないことも出来る。証人の立場で生きているとき、滅び行く人が主と出会う機会において私たちが「異邦人の支配者」のような振る舞いをもって生きているとしたら、救いをどうしても必要とするものをキリストへと導くことを願われた主のみこころには遠い。主の心を知り、主のように仕えるものでなければ「この世の暴君」のような霊的状態となるかもしれない。どうして人をキリストの救いに導くことが出来るだろう。ただ、へりくだり仕えられた主の心のゆえにより、私たちは主の証人とされる。
「あなた方は仕える者となりなさい」と言われた主の言葉の意味を私たちは、教会の中で、また地上において、真心から受け入れたい。
マタイの福音書 20:25-28
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
以下、テーマに基づく議論と話題