礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

2003216日(日)

 主からの確信

――最善をしていることの確信――

ルカ 10:38-42
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 42節で、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」とイエス様は語られた。これは、クリスチャン生活の中で教えられるべき重要なテーマがある。
 マルタとマリヤがいて、マルタはもてなし、マリヤは主のみ言葉に聞き入っていた。ここにおける違いは、働きの違いであってマリヤがみ言葉に聞き入っていたから良く、マルタが家事をしていたから悪いというのではない。マリヤは彼女にとって「最善」を選び取っていた。彼女は主が与える恵みの座に居る。反して、マルタは心を乱していた。気が落ち着かず、主の恵みの座の中でみ言葉に聞き入るマリヤとそれを許しておられる主イエスに対して心を乱している。マルタには、最善(の奉仕)をしている(自らにとって主が示す最善を成しているという)確信が無かった。もし、彼女の働きが主の御心にかない、御前に最善であるという確信の元で奉仕をしていたなら、主はそれを祝福してくださるだろう。しかし、マルタは心が分かれ、思い煩っている。

 このテーマは私たちの信仰生活に対して重要なテーマを投げかける。
 あなたは、神の最善を選び取っているか。

Uテモテの中でパウロは自分の信仰生活を振り返ってこう言った。「4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 彼にとって多くの良い行いは自分の目の前に広がっていた。しかし、パウロの目的はそれをなすことではなく、神の用意された道を走りぬくことだった。彼の最善は神の御心の道だけであった。そのようなパウロの生活は、「42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」と言われる主の言葉に通じるものがある。
 その意味で、マリヤのとった態度・行為はブレない信仰、焦点の定まった信仰である。

ヨハネ 11:1-3,20-23,32-35
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 この記事は、マルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだ後、主の御元に行って、心の内を主に打ち明けているところだ。マルタとマリヤは同じ言葉をもって主の御元に近づいている。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。
 このとき、主の心を動かした言葉はマリヤの言葉であった。マルタとマリヤの言葉に一体どこに違いがあるだろう。
マルタは言った。「もしあなたがここにいてくださったならば、私の兄弟は死ななかったでしょうに」
マリヤは言う。「もしあなたがここにおられたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」
想像の範囲であるが、「あなたには癒す力がある」というマルタの言葉を、より深く、マリヤは、「あなた以外には癒す方がいらっしゃらない(いらっしゃらなかった)」という心をあらわしているように感じる(→※)。マリヤは主イエスを見ると主の足元に崩れ落ちて泣いた。

 マリヤの信仰の中には、クリスチャンのあるべき信仰と、クリスチャンの最も力を表す信仰とを見ることが出来る。(マルタの信仰は、主が居て下さりさえすれば力が与えられる。)マリヤの信仰は、主が居てくださらなければ癒されない。
 続いてみ言葉を開きたい。

ヨハネ 12:1-8
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

 マリヤは弟子たちに責められていた。しかし、彼女にとってそれらの声は心に入っていなかったに違いない。なぜなら彼女の心を占めていたのは主に対する心であふれていたからである。マリヤは主のために香油を注ぐことだけに、――他のことではなく、主のことにだけ心が傾いていた。多くのものは彼女を非難した。マリヤの行為は主以外の誰からも共感や理解を得られなかった。しかし、そのようなことは彼女にとって何でもない。彼女にとって大切なのは主だけであり、主イエスへの心だけで満たされていた。

 神のみこころの内にあるという確信の元にクリスチャンの勇士の姿がある。マリヤにとって、神のみこころ以外のところでは、何の力もない者、役に立たない(生きられない)者である。彼女が主の心に離れて、一体何の功績をとげるだろうか。はじめマルタが言ったように、もてなすことなく、み言葉に聞き入り、そのような彼女は見える形で役に立つ姉妹とは言い難い。主から離れては何も無い。しかし、彼女にとって主は全てであった。

 クリスチャン生活の「強さ」は主の内にあるのであって、それ以外のところでは何の強さも無い。信徒の強さは、「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており・・・(Uコリント6:9)」とパウロが語るように、キリストの内にあるからこそ力がある。そして、このクリスチャンの内なる強さは、主からの確信が必要である。そこには世の全ての良い業に勝って、主からの確信によって聖徒がなすべき、最善の道が備えられている。
 マリヤがそうしたように、またパウロが証したように、私たちは主からの確信によって、神が聖徒に備えられた(道を歩もう)働きをなそうではないか。